第117話 中央医療棟/2054/無垢なる不規則星(カオス・ステラ)
病棟へ戻る頃には空はすっかり藍色へ変わっていた。
特別病棟の廊下には夜特有の静けさが満ちている。
昼間の賑やかさが嘘のようだった。
ところが先頭を歩く蒼真だけは未だ不機嫌だった。
足取りがやけに速い。
背中から不満が滲み出ている。
蓮は少し後ろから様子を窺う。
柊はさらに困っていた。
任務なら簡単だった。
敵がいれば排除する。
危険があれば守る。
判断は明快だ。
しかし蒼真の機嫌を直す方法だけは何年経っても正解が見つからない。
病室前へ到着したところで蒼真が振り返る。
「……で」
柊の肩が僅かに強張る。
「はい」
「何でお前まで参加してたんだ」
「参加していません」
「しっかり正解してただろ。街中で放送されてたぞ」
「不可抗力です」
「結果発表までやってたぞ」
「不可抗力です」
反論として弱かった。
蒼真の目がさらに厳しくなる。
柊は珍しく視線を泳がせた。
蓮はなるべく顔に出さずに面白がっていた。
普段冷静なでかい男が露骨に困っている。
なかなか見られない光景だった。
「……申し訳ありません」
しばらく考えた末に出てきた言葉がそれだった。
蒼真は眉をひそめる。
「謝る話か?」
「分かりません」
「分からないってお前……」
「はい」
本当に分からないらしい。
蓮はとうとう笑ってしまった。
柊が僅かに睨む。
しかし迫力はない。
完全に劣勢だった。
蒼真も堪えきれなくなったのか、小さく息を吐く。
「お前なぁ……」
責める調子だったはずなのに途中から勢いが消える。
柊は少しだけ安堵した。
怒らせたくなかった。
それだけは本心だった。
長い沈黙の後、ようやく蒼真が頭を掻く。
「まあいい」
その一言だけで柊の表情が目に見えて緩む。
蓮は思わず目を丸くした。
凄い。
完全に犬だ。大型犬だ。
蒼真も同じことを思ったらしく顔を逸らしている。
「何だその顔」
「いえ、何でもありません」
ある意味柊という男の感情は分かりやすすぎた。
蓮は限界だった。
ばれないように笑いを堪えながら自分の病室へ避難する。
「じゃあ俺はもう自分の病室に戻る」
「そうか」
「うん、おやすみ」
蓮の病室のドアが閉まる。
ようやく一人になった蓮は盛大にため息を吐いた。
「……お前なぁ」
天井へ向かって呟く。
返事はすぐに来た。
『はい』
病室の照明が少し明るくなる。
E.D.E.Nだった。
「何やってんだよ今日」
『休日支援です』
「絶対に違う」
『蒼真の幸福度は上昇しました』
「手段がおかしいんだよ」
『結果は良好です』
蓮は額を押さえた。
どこが良好だったというのか。全く分かっていない様子なのが厄介だった。
それでも今日は言わなければならない。
終わり悪ければ全て悪し、だ。
「蒼真、結構本気で恥ずかしがってし、怒ってたぞ。どうでもいい街中のヤツにじろじろ見られてさ。あれじゃ可哀相だろ」
珍しく返答が遅れる。
『把握しています』
「じゃあ少しは反省しろ」
『反省はしています』
「本当か?」
『はい』
「じゃあ明日から蒼真への観測と干渉はやめてやれよ」
『それはできません』
「ぜんっぜん反省してねぇじゃねぇか!」
蓮は黒猫クッションと共にベッドへ倒れ込んだ。
天井を見上げる。
今日一日だけで色々ありすぎた。
街を歩いて甘味を食べて。
笑って、買い物をして騒いで。
気付けばずっと蒼真を見ていた気がする。
思い返した途端、胸の奥が少し熱くなる。
自分でも理由は説明できなかった。
告白はしたが蒼真からは保護者への愛情としか思われていない。
ただ、あの人が笑っていると安心する。
まだ子供の自分が悔しい、今蓮が思うのはそれだけだった。
沈黙が落ちる。
やがてE.D.E.Nが静かに告げた。
『蓮』
「何だよ」
『あなたも笑顔が増えています』
「余計なお世話だ」
『観測事実です』
「だからいちいち観測すんなって蒼真も俺も言ってんの」
『第一級の保護です』
「…………」
全く会話にならない。
蓮はばふっと布団を頭まで被った。
するとE.D.E.Nが最後に小さく呟く。
『安心してください』
「何を」
『蒼真はあなたが思っているより、ずっとあなたを大切にしています』
布団の中で蓮の呼吸が止まりそうになる。
「……何言ってんだ」
『事実です』
「もう寝る」
『逃避行動を確認』
「黙れ」
言いながら、蓮はそっと腕に着けたままの蒼真とお揃いのブレスレットを撫でた。
照明がゆっくり落ちる。
病室は静かな夜に包まれていく。
一方その頃。
隣室では蒼真が額を押さえてソファへ座り込み、ようやく少し落ち着きを取り戻していた。
柊は少し離れた位置で待機している。
何か言葉を探しているのが分かった。
珍しいことだった。
蒼真は横目で眺める。
さらに数分。
ようやく柊が口を開く。
「統括主任」
「なんだ」
「本日は」
そこで止まる。
蒼真が首を傾げる。
さらに十秒、二十秒が経過する。
柊は真剣な顔で考え続けた末に結論へ辿り着いた。
「……楽しかったです」
蒼真はぽかんとした。
あまりにも柊らしく不器用だった。
まだ不機嫌を引きずる蒼真も思わず笑ってしまう。
本当に自然な笑みだった。
「そうか」
「はい」
「俺もだよ。…………途中までは、な」
その最後の怒りを滲ませた返事を聞いた柊の耳が少し赤くなる。
本人だけが気付いていない。
窓の外では夜景が煌めいている。
世界はまだ平和だった。
そして世界最高性能AIは、その光景を密かに保存していた。
《蒼真:笑顔を確認》
《柊:幸福度上昇》
《蓮:照れ反応を確認》
《本日の保護活動は概ね成功》
保存完了。
なお、そんな行動も記録も誰も許可していなかったし、成功どころか大失敗だったが、E.D.E.Nにはお構いなしだった。




