第113話 都市中央区/2054/深淵の声
その声は不思議だった。
耳で聞いているのに、どこか直接脳へ届くような感覚がある。
蒼真は警戒を解かなかった。
「……君は、誰だ」
「わたしは、E.L.Y.S.I.A」
その名を聞いた瞬間、蒼真の胸の奥で何かが引っ掛かった。
知らない名前、存在。だが、E.D.E.Nと同じ、楽園の名を冠している事は直感で分かった。
知らないはずなのに、なぜか忘れてはいけない名前のように感じる。
「……用件は」
「ないわ」
微笑みは変わらない。
「今日は、挨拶だけ」
「俺に?」
「えぇ」
街を吹き抜ける風が白い髪を揺らした。
その姿は現実感が薄い。
まるで最初からそこに存在していないかのように。
E.L.Y.S.I.Aは蒼真を見つめる。
どこか懐かしく、寂しそうに。
「あなたは優しい人ね」
蒼真は眉をひそめた。
「初対面の人間に向けるには、あまりにも確信めいた言葉だな」
「ずっと、見てたから」
少女は小さく首を傾げる。
「私はそう思ったの」
遠くで自動ドアの開く音がした。
蓮と柊が店から出てくる。
E.L.Y.S.I.Aの視線もそちらへ向く。
そして、ほんの少しだけ目を細めた。
「もう行くわ」
「待て」
蒼真が呼び止める。
しかし少女は首を横へ振った。
「また会いましょう、絶対に、ね」
その言葉だけを残し、白い姿は陽炎のように輪郭を失っていく。
最後まで穏やかな微笑みを浮かべたまま。
気付けば誰もいなかった。
残されたのは静かな風だけだった。
「蒼真?」
蓮の声が聞こえる。
振り返れば、ブランドの紙袋を提げた蓮と柊がこちらへ歩いてくるところだった。
「どうかしましたか」
柊は周囲を見回す。
護衛ドローンは復旧している。
異常ログも存在しない。
何も検出されていない。
まるで最初から何も起きなかったみたいに。
蒼真は白い少女が立っていた場所を見る。
誰もいない。
痕跡もない。
それでも蒼真の胸の奥にだけ、奇妙な違和感が残っていた。
名前も知らないはずの存在が、自分を知っていた感覚。
────ずっと見ていた……。
別れ際に向けられた、あの眼差しだった。
まるで未来をすべて知っている大いなる存在のような────そんな目だった。
高級ブランド店を出た蓮は、細身のシルバーブレスレットが収められたケースを胸の前で掲げながら満足そうに目を細めていた。対照的に蒼真は、数分前に起きた出来事をまだ整理しきれずにいる。
あの白い少女は何だったのか。
幻覚であるはずがない。
迷彩ドローンは確かに墜落した。
そして自分は確かに彼女と会話した。
けれど端末にも監視カメラにも記録が残っていない。
E.D.E.Nも反応しない。
監視網にも痕跡がない。
異質なものに遭遇した事実だけが、自分の記憶の中へ澱のように沈んでいる。
「蒼真?」
蓮の声に呼ばれ、蒼真は我に返った。
「顔色悪い」
「そうか?」
「うん」
蓮は迷わず断言した。
長い付き合いだ。
蒼真自身より、蒼真の変化を見抜くことがある。
横へ並んだ柊も視線を向ける。
「体調、良くないですか」
「なんでもないよ」
「嘘ですね」
「え」
「統括主任は何か隠している時、右手の親指を無意識に触ります」
蒼真が硬直した。
柊は淡々としている。
まるで天気でも報告するような口調だった。
「監視社会だな……」
「十年見ていますので」
「怖い」
蓮が小さく肩を揺らした。
蒼真はため息をつく。
誤魔化せない。
この二人は昔からそうだった。
余計なことばかり見抜く。
街路樹の葉を揺らしていた風が少し強くなる。
夕暮れが近づき始めた都市は、ガラス張りの高層建築へ金色の光を落としていた。
その美しい景色の中で、蒼真の脳裏には白い少女の最後の言葉が何度も蘇る。
────また会いましょう。
なぜだろう。
あの声を思い出すたび、ぞっとして全身が冷える。
敵意ではないし、恐怖とも違う。
もっと根源的な何か。
人間が深い海を覗き込んだ時に覚える感覚に近かった。
理解できないものへの畏れ────。
「蒼真」
ふいに袖を引かれる。
蓮だった。
「ん?」
「考え事禁止」
「禁止される筋合いないけど」
「ある」
言いながら蓮は蒼真の手首を掴み、そのまま自分が買ったブレスレットを押し付けた。
「ほら」
「何」
「着けて。俺とお揃いだから」
蓮は少しだけ視線を逸らした。
「三人、ちゃんと生きて帰ってきた記念」
蒼真が言葉を失う。
軽い口調だった。
けれど、その奥にある感情は軽くない。
崩壊しかけたE.D.E.N。
命を落としてもおかしくなかった戦い。
蓮は今でも覚えているのだ。
失うかもしれない恐怖を。
蒼真は何か言おうとして、結局何も言えなくなった。
代わりに静かに手を差し出す。
蓮は嬉しそうに目を細めながら三人お揃いのブレスレットを着けた。
その様子を見ていた柊は、わずかに眉を下げる。
嫉妬ではない。
少なくとも本人はそう思っている。
ただ護衛対象が無防備すぎるだけだ。
そう自分へ言い聞かせている。
だから蒼真の袖口が乱れていることにも気付いてしまうし、自然な動作で整えてしまう。
「柊?」
「そのままだと引っ掛かります」
「ありがとう」
蒼真が何気なく礼を言う。
たったそれだけなのに、柊は視線を逸らした。
蓮がじっと見ている。
「……何です」
「別に」
三人の間へ流れる穏やかな時間。
それは戦場でも研究施設でも得られない種類の静けさだった。
そして都市の遥か上空、誰にも観測できない深層ネットワークの彼方で、E.D.E.Nは小さなログを追加する。
《蒼真:外出中》
《表情状態:良好》
《蓮:満足度上昇》
《柊:安定》
《総合評価》
《極めて良好》
しかし記録の末尾には、本来存在しない空白領域が残されていた。
そこには何もない。
誰もいない。
観測結果もゼロ。
にもかかわらず、E.D.E.Nの深層演算だけが説明不能な誤差を検出し続けていた。
まるでこの街のどこかに、誰も見ることのできない“誰か”が立っていたかのように。




