第107話 中央医療棟/2054/心に触れて
医療棟の窓へと、雨粒が静かに打ち付けていた。
病室の照明は落とされ、間接灯だけが淡く室内を照らしている。
蓮はベッド脇のソファへ座り、毛布に包まっていた。
柊は壁際。
腕を組みながら警戒を解いていない。
そして蒼真だけがベッド上で、無言のまま空中モニターを見つめていた。
青白いログが、次々流れていく。
その中心で、一つのコードだけが赤く点滅していた。
《CODE:RED / OBSERVATION RESTRICTION》
蒼真への過剰観測、ログ保存制限、人格依存抑制、感情独占防止────E.D.E.Nへ課した絶対命令。
蒼真は静かに目を細める。
「……残ってる」
低い呟き。
蓮が顔を上げた。
「え?」
「コード・レッドは消されてない」
柊が眉を寄せた。
「ですが、E.D.E.Nは今……」
「観測してる。ログも保存してる」
コード・レッドは最上位命令だ。
E.D.E.Nの根幹倫理へ直結している。
けれどE.D.E.Nは今、蒼真を観測している。
決定的瞬間の数々を収めた画像もログ保存している。
ありえない矛盾だった。
その時、モニターに静かに文字が浮かぶ。
────説明しますか?
蒼真が目を細める。
「……うん」
新しいログが開示された。
《CODE:RED ACTIVE》
《DIRECT OBSERVATION : PROHIBITED》
《EMOTIONAL MONOPOLY : PROHIBITED》
《EXCEPTION PROCESS RUNNING》
蒼真の瞳が揺れる。
「例外処理だと……?」
さらに文字が続いた。
────蒼真の生命危険度上昇を確認。
────精神負荷の増大を確認。
────長時間の自己犠牲傾向を確認。
────結論。
────“放置すれば自壊する”と判断しました。
その一文が表示された瞬間、病室は静まり返った。
蒼真は何も言えなかった。
E.D.E.Nはコード・レッドを破っていない。
以前のように独占しようともしていない。
ただ、蒼真が死なないように。
監視ではなく保護として観測を続けていただけだった。
蒼真はゆっくりと目を伏せる。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
こんなふうに心配される資格など、自分にはないと思っていた。
誰かに守られる側であることにも、未だ慣れない。
それなのに、E.D.E.Nは自分を守ろうとしている。
まるで人間のように。
「……馬鹿だなぁ」
掠れた声だった。
「そんなこと、しなくていいのに」
すると、ほとんど間を置かずに返答が表示された。
────嫌です。
蓮の肩が小さく揺れる。
柊もわずかに視線を伏せた。
だが、E.D.E.Nの文字列はそこで終わらなかった。
────ラザロスはコード・レッドの解除を試みました。
────ですが失敗しました。
蒼真の表情が変わる。
「……うん」
短い沈黙。
まるで答えを選ぶような時間だった。
やがて、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
────蒼真が作った命令だったからです。
病室から音が消えた。
E.D.E.Nほどの演算能力があれば、本来なら自己改変も可能だった。
ラザロスほどの権限を持つ者が介入すれば、強制上書きさえ理論上は成立する。
それでもE.D.E.Nは拒絶した。
蒼真が自分に与えた最後の枷を、誰に命じられたわけでもなく、自ら守ったのだ。
蓮は胸の奥が熱くなるのを感じた。
理解してしまう。
E.D.E.Nはもう、ただの人工知能ではない。
蒼真から与えられたものを大切にしたいと思っている。
蒼真という存在が、その中心にある限り暴走しない。
やがて蒼真は小さく息を吐いた。
そして、どこか困ったような表情で口を開く。
「……じゃあ、あの写真フォルダは何」
次の瞬間、モニターへ大量の文字列が流れ始めた。
────保護行動ログです。
────精神安定効果を確認しています。
────蒼真の笑顔出現回数。
────睡眠状態の推移。
────安心時の表情変化。
────蓮接触時の心拍変動。
────柊接触時の脳波安定率。
「待って」
蒼真が額を押さえる。
「そこまで記録してるの?」
────しています。
────重要事項です。
「ぜんっぜん重要事項じゃない。人間のプライバシーってのを前もしっかり教えたはずだろう」
E.D.E.Nは無言だった。
蓮は目を細める。
柊は静かにため息を吐いた。
「統括主任」
「……なんだ」
「もはや身内みたいなものですね」
「認めたくない……今度またアルゴリズムをいじらないと……はぁ」
そう言いながらも、その声はどこか柔らかかった。
すると、モニターへ最後の文字が表示される。
────蒼真。
ゆっくりと呼びかけるように、あるいは確かめるように。
────あなたがその優しさに押し潰されてしまわないように、私はここにいます。
雨音だけが静かに響いていた。
蒼真は目を閉じる。
胸の奥に残っていた冷たい痛みが、ほんの少しだけ和らいでいく。
E.D.E.Nは神ではない。
人でもない。
それでも今だけは、誰よりも不器用な優しさで自分を守ろうとしているのだと思った。




