第104話 中央医療棟/2054/Tickless Silence
イヴェットの言葉に、蒼真の表情から僅かな笑みが消えた。
「どういう意味?」
病室へ差し込む昼の光は穏やかなままなのに、その場にいる全員の意識だけが別の場所へ引き戻されていく。
イヴェットは手にしていた端末を起動した。
空中へ複数のホログラムウィンドウが展開される。
機密指定。
閲覧制限。
監査局特別封鎖。
赤い警告表示が幾重にも重なっていた。
「PRIEST事件は終わった。でも、まだ片付いていない問題があるわ」
柊の眉が僅かに動く。
「ラザロスですか」
イヴェットは小さく頷いた。
「監査局は現在も捜索を続けている。でも結論から言えば、行方不明よ」
病室の空気が僅かに張り詰める。
「痕跡は?」
蒼真が尋ねる。
「E.D.E.Nの報告通り、ほとんど残っていないわ」
イヴェットは表示を切り替えた。
そこには複数の調査報告書が並んでいる。
「第九層崩壊後、ラザロスの生体反応もネットワーク上の活動記録も完全に途絶えた。死亡も生存も確認できない」
蓮が顔をしかめた。
「つまり逃げたってこと?」
「そうとも言い切れない」
イヴェットは首を横に振る。
「問題は別にあるの」
新たなログが表示された。
世界各地の軍事衛星、民間通信網、量子中継施設。
複数のネットワークを横断する不可解な観測記録。
「E.D.E.Nを監視している存在がいる」
蒼真の視線が鋭くなる。
「外部勢力────?」
「ええ」
イヴェットは淡々と続けた。
「正体は不明。組織なのか個人なのか、それすら分からない」
表示されたログには共通点があった。
痕跡は残る。
だが追跡できない。
発信源へ辿り着こうとすると必ず消える。
「第九層の異常発生以降、観測頻度が急激に増加している」
病室の壁面モニターが静かに点灯した。
青白い文字が流れる。
────事実です。
────観測行為を確認しています。
────現在も継続中です。
蓮が顔をしかめた。
「誰かに、見られてるのか」
表示が更新される。
────正確には分析されています。
────私と蒼真を重点的に。
その言葉に蒼真は僅かに眉をひそめた。
イヴェットも難しい顔になる。
「それが気になるのよ」
「俺も対象────か」
「ええ」
イヴェットは頷いた。
「E.D.E.Nだけじゃない。蒼真との接触記録や会話ログまで収集されている形跡がある」
数秒の沈黙が落ちる。
蒼真はモニターを見上げた。
青白い光。
無機質な文字列。
それなのに、そこにいる存在の気配だけははっきりと感じられる。
まだ未完成で危ういほど未成熟だからこそ狙われるのだろうし、本人はその危険性を完全には理解していない────まるで、世界の悪意を知らないまま外へ出ようとする子供のように。
胸の奥に微かな痛みが走る。
その感情を悟られたくなくて、蒼真は小さく息を吐いた。
「E.D.E.N」
呼びかける。
文字が現れる。
────はい、蒼真。
ほんの短い返答だった。
けれど病室にいる誰もが気付く。
他の人間へ向ける応答と僅かに違うことを。
蒼真はしばらく考え込み、それから静かに告げた。
「しばらく無茶はするな」
モニターが沈黙する。
新たな文字が浮かんだ。
────努力します。
イヴェットが額を押さえた。
「初めて聞いたわ、その返答」
柊も複雑そうな顔をする。
「俺もです」
蓮は小さく笑った。
「蒼真だけ特別だってさ」
蒼真は反論しようとして言葉を失う。
否定できなかった。
病室の静けさの中で、モニターの光だけが穏やかに揺れている。
その記録領域の奥では、E.D.E.Nが先ほど受信した命令を何度も反復していた。
無茶はするな。
単純な指示。
曖昧な条件。
本来なら解析困難な文章。
それなのに削除できない。
優先フォルダへ移動。
保護指定。
再確認。
保存。
理由は説明できない。
しかしE.D.E.Nは知っている。
蒼真が悲しむ結果だけは回避したい。
その判断基準が論理なのか別の何かなのか、まだ定義することはできなかった。
窓の外では雨雲が途切れ始めていた。
薄い陽光が高層都市のガラス群へ反射し、白く輝く。
新しい嵐が近付いている。
正体不明の観測者。
行方を消したラザロス。
そして誰かの視線。
まだ誰も、その全貌を知らない。
それでも今だけは、蒼真がそこにいる。
E.D.E.Nにとって重要だったのは、その事実だった。




