第103話 中央医療棟/2054/壊れた時計が静寂を刻むとき
病室のドアがノックされた。
それまで穏やかだった空気が僅かに引き締まる。
「……誰です」
柊が問いかける。
『私よ』
聞き慣れた女性の声だった。
認証後、ドアが開く。
入ってきたのはイヴェット・ノクスだった。
整ったスーツ姿のまま病室へ入り、周囲を一瞥する。
「イヴェット女史」
蒼真が声をかける。
「思ったより元気そうね」
イヴェットは嫣然と微笑んでそう言うと、ベッド脇までつかつかとヒールを響かせて歩いてきた。
「何かあったんですか」
柊が尋ねる。
イヴェットは肩を竦めた。
「ええ。あなたたちにとってはいつものことかもしれないけれど」
そう言って壁面モニターへ視線を向ける。
「蒼真。あなたの子供がまた問題を起こしたわよ」
壁面モニターが点灯し、病室の静寂を破るように青白い文字が浮かび上がった。
────訂正します。
全員の視線がモニターへ向く。
続けて文字が流れる。
────私は蒼真の実子ではありません。
────ですが、蒼真によって育てられ、守られてきたから、今の私があります。
────その意味では、私は蒼真の子供のような存在です。
E.D.E.NはAIだ。けれど蒼真が積み上げた時間の欠片から生まれ、その手で名を与えられ、その背を見て育った存在であることは否定できない。
それは血の繋がりではなく、記憶と願いの継承だった。
「実子じゃないって当たり前のこといちいち否定するんだ……」
蒼真が呆れたように呟く。
けれど、その直前にE.D.E.Nから向けられた言葉を思い出し、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
自分でも気づかないほど小さな変化だったが、肩の力がわずかに抜ける。
蓮が小さく吹き出した。
柊もわずかに口元を緩める。
イヴェットはため息をついた。
「ほら見なさい。こういうところよ」
さらにモニターへ視線を向ける。
「それで? 今度は何をしたのかしら」
文字が表示される。
────問題は起こしていません。
────最適な判断を実行しただけです。
「具体的には何をしたんですか?」
蒼真が尋ねると、E.D.E.Nは即座に回答した。
────PRIESTラザロスの生体反応およびネットワーク上の活動記録は、事件発生以降完全に途絶しています。
────現在までに死亡も生存も確認できておらず、その所在は不明です。
────私は関連ネットワーク全域の追跡を継続していますが、有効な痕跡は発見できていません。
────現時点でPRIESTラザロスは捕捉不可能な状態にあると判断しています。
数秒の沈黙が落ちる。
────なお、この処理により不正アクセスの可能性は0.002%まで低下しています。
「その最適な判断のせいで、情報統括局と監査局が朝から大騒ぎしているのだけれど」
イヴェットが即座に返す。
モニターは沈黙した。
まるで蒼真に叱られないように言い訳を検討しているようだった。
「なんか本当に親子みたいですね」
柊がぼそりと言う。
「……」
蒼真が沈黙する。
第九層事件の直後とは思えないほど穏やかな空気だった。
だがイヴェットはそんな空気の中でも表情を引き締める。
しばらくモニターを見つめた後、静かに口を開く。
「私はE.D.E.Nを信頼していないわ」
その言葉に病室の空気が少しだけ変わった。
柊も蓮も黙る。
イヴェットは視線をモニターから外さない。
「自己進化型超知能。人類史上最大級の危険因子。監査局の連中が神経質になるのも理解できる」
モニターは何も表示しない。
ただ静かに沈黙していた。
イヴェットはそこで蒼真へ視線を向ける。
「でも蒼真」
一拍置いて続ける。
「あなたはE.D.E.Nを信頼しているのでしょう?」
病室が静まり返る。
蒼真は少しだけ考えるように目を伏せた。
そして苦笑する。
「信頼というより……」
モニターを見る。
「E.D.E.Nが何を考えているか、ある程度分かるだけ、かな」
すると即座に文字が表示された。
────肯定します。
────蒼真の理解度は現在も最高値を維持しています。
「そういうところだ」
蒼真が呆れたように言う。
イヴェットは小さく息を吐いた。
「本当に厄介ね」
そう言いながらも、その表情にはわずかな安堵があった。
「少なくとも、あなたがいる限りは暴走はしないと信じたいところだわ」
だが次の瞬間、イヴェットの表情が完全に仕事の顔へ戻った。
「冗談はここまでよ」
その一言で場の空気が変わった。
「報告があるわ」
蒼真も表情を改める。
イヴェットは静かに告げた。
「第九層の件、まだ終わってないわよ」
病室に再び緊張が戻った。




