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番外編 均衡の内側

本編完結後の後日談です。

国のかたちが決まったあと、政治ではない話を、ひとつだけ。


あの日「後悔は、政治じゃない」と突き放した言葉の、続きです。

 政務が途切れる時間というものが、この国にもようやく戻ってきた。


 通貨は持ち直し、市場は落ち着き、王宮の灯りも整っている。人々は「乗り切った」と言い、「王国は強い」と言う。それは間違いではない。ただ、それだけでもない――そのことを知っているのは、この塔に上がってくる人間だけだ。


 私は執務机に積まれた最後の書類に署名を終え、ペンを置いた。

 窓の外は夜。星は、断罪されたあの日と同じ位置にある。変わったのは、星ではなく世界のほうだ。


 足音がした。

 振り返らなくても分かる。この時間に、供も連れずに塔を上がってくる人間は、一人しかいない。


「まだ働いているのか」


 レオンハルトだった。

 王太子ではなく――今は王だ。目の下の隈は、断罪の日ほど濃くない。それでも、消えてはいない。彼はきっと、一生この隈を手放さないのだろう。手放してしまえば、忘れてしまうから。


「働いていません。ただ、数えていただけです」


「何を」


「この国が、あと何日、私なしで回るようになったかを」


 彼は少しだけ笑って、私の隣に立った。二人分の影が、床の上でひとつに近づく。


 ――ここまでは、いつもの夜だ。

 政務の話をして、明日の話をして、彼は帰っていく。私たちはずっと、そうしてきた。断罪の日に壊れた関係を、「契約」として結び直してから、ずっと。


 けれど、その夜、彼は動かなかった。


「アリシア」


「はい」


「今日は、政治の話をしに来たのではない」


 私は、ペンを置いた手をそのままにした。

 この男が政治以外の用件でこの塔に来たのは、契約を結び直して以来、初めてだった。


「では、何の話でしょう」


「あの日の話だ」


 あの日。

 言わずとも分かる。私が広間の中央に立ち、彼が壇上から罪状を読み上げた、あの日。


「以前、私は言った。あの日の判断を、後悔している、と」


「覚えています。私は、こう返しました。――後悔は、政治じゃない、と」


「そうだ。お前は正しかった」


 彼は窓の外へ目をやった。守るべき灯りの一つ一つを、確かめるように。


「後悔は、政治にはならない。国は、後悔では回らない。だから私は、後悔を政策に変えることばかり考えてきた。お前の隣に立って、この国を建て直すことで、あの日の帳尻を合わせたつもりでいた」


「立派な帳尻でしたわ」


「――だが」


 彼はこちらを向いた。

 王の顔ではなかった。


「政治で払える借りと、そうでない借りがある。それに気づくのに、随分かかった」


 沈黙が落ちた。

 窓の外で、王都の灯りが揺れている。


「すまなかった、アリシア」


 それは、政策ではなかった。

 署名も、条件も、責任の分担もない。ただ一人の人間が、もう一人の人間に頭を下げる、それだけの言葉だった。


 私は、長いあいだ黙っていた。


 断罪の日、私は誓ったのだ。泣かない、叫ばない、反論しない。どれも選ばず、優雅に礼をして去る、と。あのとき私は、盾だった。叩かれるためにあり、割れることで持ち主を自由にする盾。


 割れた盾は、自由になる。

 ――けれど自由とは、二度と誰かの隣に立たないことだと、私はどこかで思い込んでいた。


「……ずるい方」


 やっと、それだけ言えた。


「国のかたちを全部決めてから、政治じゃない話を持ち出すなんて。私が突き放せないと分かっているでしょう」


「分かっている」


 彼は悪びれもしなかった。少しだけ、笑っていた。


 私は、机の上に置いたままだった自分の手を見た。

 断罪の日から、この手はずっと、誰の手も取らずにきた。取れば、また盾にされると思っていたから。


 けれど。


 私は、その手を、ほんの少しだけ動かした。

 彼のほうへ。ほんの数寸。誓いではなく、条件でもない。ただ、そうしたいと思ったから、そうした。


 レオンハルトが、そっとその手を包んだ。


 政治の話は、しなかった。

 三年後に何が来るのかも、帝国がどう動くのかも、その夜だけは、塔の下に置いてきた。


「次は」


 私は、窓の外の星を見上げて、小さく言った。


「見捨てないでくださいね」


「ああ」


 彼の返事は短く、けれど確かだった。


 均衡国家は、生き延びた。

 その外側では、まだ世界が静かに動き出している。


 だが、均衡の内側には――

 こうして、政治にならない夜が、ひとつだけあった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


本編でアリシアは、レオンハルトの後悔を「後悔は、政治じゃない」と突き放し続けました。国のかたちが決まるまで、彼女はそれを受け取るわけにはいかなかったからです。


この番外編は、政治が一段落した「均衡の内側」で、その言葉の続きをようやく交わす一夜です。派手な告白はありませんが、断罪の日からずっと閉じていた手が、ほんの少しだけ動く――そんな話にしました。


本編ともども楽しんでいただけましたら、ブックマークと評価で応援いただけると嬉しいです。

世界のほうは、まだ動き続けています。


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