閑話 数えなかった人
断罪の場で、王太子の隣に立っていた聖女がいました。
これは彼女が、生まれて初めて帳簿を開いた日の話です。
本編中盤――大祈祷のあと、彼女が表舞台から静かに消えるまでの、空白の一日にあたります。
三日三晩の祈祷が終わって、七日が過ぎた。
礼拝堂は、朝の光でいっぱいだった。色付きの窓を通った光が床に落ち、赤や青の模様を作っている。埃がその中をゆっくりと降りていく。私はいつもこの時間が好きだった。神様がこの部屋を見ている、と思えるから。
けれど今朝は、その光が、蝋燭立ての空きばかりを照らしていた。
三十二本あったはずの蝋燭は、九本になっていた。祈祷のあいだ、絶やしてはならないと決めたのは私だ。三日三晩、火を落とさなかった。灯し続けた。それは正しいことのはずだった。
人の姿はない。祈祷のあいだ、この礼拝堂には入りきらないほどの人が集まっていた。廊下にまで膝をつく人がいた。あれから七日、朝の礼拝に来るのは十人に満たない。
――祈りが足りないのだ、と私は思った。
思ってから、その考えが、この七日で何度目かを数えようとして、やめた。
「聖女様」
振り返ると、年配の司祭が立っていた。祈祷の準備のときも、この人だけが最後まで難しい顔をしていた。名を呼ばれるだけで、私は少し身構えてしまう。
「お目通しを願いたいものがございます」
彼が差し出したのは、分厚い帳面だった。革の表紙は手垢で黒く光っている。長いあいだ、たくさんの手が触れてきたのだと分かる古さだった。
「……これは」
「教会の蓄えの帳簿でございます」
私は受け取ったまま、開かなかった。
開き方が分からない、と言うのが正しい。私は十四で聖女に選ばれ、それからずっと、祈ることと、人の前で言葉を選ぶことだけを教えられてきた。帳簿は、数える者の仕事だった。聖女は数えない。数えれば、施しに条件がつく。条件のついた施しは、もう施しではない。そう教わってきた。
美しい教えだと、今でも思う。
「開いてくださいませ」
司祭は退かなかった。
私は表紙をめくり、最初の一枚に目を落とした。
数字が並んでいた。左に品目、右に数。それだけの、飾りのない紙面だった。
薪、麦、油、布、薬。ひとつひとつに、去年の同じ月の数が並べて書いてある。私にも読める書き方だった。誰にでも読めるように書かれているのだと、すぐに分かった。
右の列が、どれも半分以下になっていた。
いくつかは、ゼロだった。
「大祈祷に、蓄えを使うとおっしゃいました」
司祭の声は静かだった。責める調子はどこにもない。それが、かえって逃げ場をなくした。
「わたくしは、承知いたしました。教会の蓄えは人のためのものです。人のために使わずして何のための蓄えか――聖女様のおっしゃる通りでございます」
「では」
「ただ」
彼は、帳簿の右端を指した。
「祈祷は、三日で終わりました。薪は、冬のあいだ燃え続けます」
私は、その一行を見た。
薪。ゼロ。
備考の欄に、細い字で「孤児院・施療院分を含む」と書いてあった。
「……祈りは、無駄ではありません」
自分でも驚くほど、子どもじみた声が出た。
「無駄ではございません」
司祭は、はっきりとそう言った。少しも迷わずに。
「無駄ではございませんでした。ただ――勘定に、入っておりませんでした」
私は、何も言い返せなかった。
その日の午後、私は炊き出しの列を見に行った。
教会の裏手、石畳の広場に、列ができている。以前は無かった列だ。並んでいるのは老人と子どもが多い。誰も騒がない。順番を守り、器を受け取り、静かに端へ移動して食べる。秩序は保たれていた。
保たれているほうが、なぜか、痛かった。
列の中ほどに、見覚えのある女がいた。
仕立ての良い外套を着ている。汚れてはいるが、もとは上等なものだ。四十ほどだろうか、髪をきっちりと結い上げた背の高い人で、その姿勢の良さで思い出した。三年前、教会の屋根を葺き替えたとき、費用の半分を出してくれた商家の女将だった。
彼女は私に気づくと、器を持ったまま、丁寧に頭を下げた。
私は、その場を離れることができなかった。
「聖女様」
彼女のほうから声をかけてきた。
「あの祈祷は、ありがたいものでございました」
優しい声だった。恨みも皮肉もない。だからこそ、どう受け取ればいいのか分からなかった。
「……あなたは、以前」
「はい」
彼女は、少し笑った。
「出す側でございました」
それだけだった。
彼女は器を持って列を離れ、広場の端に腰を下ろした。まっすぐ伸びたままの背筋が、遠くからでもよく見えた。
私は、追いかけて謝ることも、祈りましょうと言うこともできなかった。
どちらも、この人には要らないものだと分かってしまったからだ。
帰り道、王宮の壁沿いを歩きながら、私はあの日のことを思い出していた。
大広間。高すぎる天井。赤い絨毯の中央に立つ、一人の令嬢。
私は白い衣を着て、王太子殿下の隣に立っていた。胸の前で手を組んで、憂いを込めた目で彼女を見ていた。そうするように言われたわけではない。そうするのが正しいと、自分で思っていた。
私は言った。
「私は……私は、あなたを救いたかったのです。けれど、あなたは……」
涙が一筋、頬を伝った。作ったものではない。本当に悲しかったのだ。
そして、あの言葉を口にした瞬間、広間の全員が私を見た。
優しい目で。
――今なら分かる。
あの言葉は、彼女のためのものではなかった。
「救いたかった」と言えば、私は救おうとした人になる。救われなかった責任は、救われなかった側に移る。あの一言で、私は自分を善い人の側に置き、彼女を悪い人の側へ押し出した。刃を握っていたのは、罪状を読み上げた殿下ではなく、私だった。
彼女は、平気ではありませんわ、とだけ答えた。
あのとき私は、どうして平気なのですか、と訊いた。訊いておきながら、答えを聞く準備をしていなかった。
救いたかった、という言葉は、誰も救わない。
その日の夕方、私は大司祭イグナス様のもとを訪ねた。
執務室は、礼拝堂よりも暗かった。窓が小さく、燭台がひとつだけ灯っている。イグナス様は書き物の手を止めて、私を見た。
「聖女様。どうなさいました」
私は、帳簿を胸に抱えたまま、立っていた。
言うべき言葉は決めてきた。決めてきたのに、喉のあたりで固まって出てこない。それでも、押し出した。
「わたくしは、間違えました」
イグナス様は、しばらく私を見ていた。それから、静かに首を振った。
「聖女は間違えません」
「……ですが」
「間違えるのは、人でございます」
彼は燭台の火を少し細くした。部屋がさらに暗くなる。
「聖女様。聖女は役でございます。役は、間違えられません。間違えたと認めた瞬間に、これまで役を信じて祈った者たちの祈りが、すべて無駄になりますゆえ」
私は、そこでようやく理解した。
これは、赦しではない。
降りることを、許さないという宣告だ。
私は間違えた。けれど、間違えたと言うことは許されない。だから謝ることもできない。謝罪は聖女の言葉ではないからだ。
息が浅くなった。手のなかの帳簿の角が、肋に食い込んだ。
イグナス様は、私の腕のなかのそれを見た。
「お持ちください」
「……これを、ですか」
「数えることは、祈りを損ないません」
彼はそう言って、また書き物に戻った。それきり、口を開かない。
優しさだったのか、それとも別の何かだったのか。私には判じられない。
礼拝堂へ戻ったころには、日が落ちていた。
誰もいない。九本の蝋燭のうち、三本だけを灯した。三本で足りるかどうか、以前の私なら考えもしなかった。
膝をつき、手を組む。
祈りの言葉が、出てこなかった。
代わりに出てきたのは、数だった。蝋燭が九本。一本で四晩。単純に割れば三十六晩。冬は百日を超える。足りない。薪はゼロ。孤児院の子どもは四十一人。去年の同じ月、教会は薪を八十束持っていた。
こんなものは祈りではない、と思った。
思いながら、数えるのをやめなかった。
やめてしまえば、また祈りが足りないのだと言い出す気がしたからだ。あの言葉を口にするたび、私は誰かの薪を燃やしてきた。それだけは、もう分かっている。
窓の外で、風が出てきた。
いつか――と、私は思った。
いつか、あの人に会うことがあれば。追放されて王都を去った、あの令嬢に。
そのとき私は、救いたかった、とはもう言わない。
何と言えばいいのかは、まだ分からない。
分からないまま、私は蝋燭を数え続けている。
本編でエリス・ルミナリアは、大祈祷のあと表舞台から静かに姿を消します。
その空白の一日を、彼女自身の視点で書きました。
断罪の場で彼女が口にした「救いたかった」という言葉の、裏側の話です。
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