第93話 静かなる宣戦
王都は、久しぶりに穏やかな朝を迎えていた。市場は落ち着き、通貨は持ち直し、再建債も完売した。王国は、崖の縁から戻ったのだ。均衡国家は、生き延びた。
そのはずだった。
――
扉が乱暴に開く。
「緊急報告!」
外交官が駆け込んできた。顔は蒼白で、息が整っていない。
「ルーディア王国が――」
そこで一度、言葉が切れた。伝えるべき文を、彼自身がまだ信じ切れていない。
「王位放棄を宣言」
「帝国保護国化を受諾」
空気が凍った。ルーディアは同じ大陸の、馬で十日の隣国だ。レオンハルトが立ち上がる。
「戦争か」
「いえ」
外交官は震える声で続けた。
「戦闘はなし」
「帝国銀行がルーディア国債の七割を取得」
「債務不履行を宣言」
「再編条件として王権縮小」
「本日、条約締結」
沈黙。戦争はない。だが国家は消えた。
――
詳細が次々と届く。
・帝国銀行が数か月前から密かに買収
・貿易停止で外貨枯渇
・王族は退位
・帝国総督が行政監督
合法で、完璧だった。血も流れていない。だが王国は存在を失った。
セレナが小さく呟く。報告書のどこにも、その語は書かれていない。
「……併呑」
アリシアは動かない。だが脳裏に蘇るものがあった。
三週間前。ルーディアからの密書。
『帝国銀行の動きが不穏』
『協力を求む』
あの時、王国は動かなかった。理由は明確だ。自国で手一杯だった。帝国との協定直後で、通貨不安があり、王権制限案を抱えていた。外に手を伸ばす余裕はなかった。
合理的判断だった。だが。
「……救えたかもしれない」
小さな声だった。誰にも聞こえないほどの。
レオンハルトが言う。慰めの形をとった、彼なりの引き受け方だった。
「我々が動いても、結果は同じだったかもしれない」
「ええ」
理屈ではそうだ。だが理屈は、失われた国を戻さない。
――
その夜、帝国から書簡が届いた。差出人――アルヴェイン・シュタール。封を切る。
『合理は、感情を待たない』
『ルーディアは合理的選択をした』
『三年後、王国はどの位置に立つか』
『均衡が外圧に耐えられることを、期待している』
挑発でも嘲笑でもない。事実の提示だった。帝国は示した。軍を動かさず、国家を消せる。
レオンハルトが低く言う。書簡を持つ手に、力が入っている。
「これは宣戦だ」
「いいえ」
アリシアは首を振った。
「秩序の提示です」
帝国の秩序。合理による併呑。均衡は、まだ外に出ていない。
「我々は内を守った」
彼女は静かに言う。
「だが外は失われた」
ルーディア王国の旗が降ろされ、帝国旗が掲げられる。戦争はない。悲鳴もない。ただ静かに、国家が消える。
アリシアは理解する。均衡国家は、自国を守っただけでは足りない。外に広げなければ、いずれ囲まれる。
そして――あの密書。助けを求めた声。合理的に後回しにした判断。その選択が、今、重く胸に残っている。
「三年」
彼女は呟いた。
「三年で、外に均衡を広げる」
レオンハルトが問う。止めるためではない。約束を確かめるための問いだった。
「できるか」
沈黙が落ちた。夜風が吹く。
「やらなければ、次は我々です」
遠く、帝国の方角。
見えないはずの旗が、揺れているように感じた。
均衡国家は生き延びた。
だが世界は動いている。
第七章 了。
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