第92話 採決
王権制限案採決の日。議政大広間は、これまでにない緊張に包まれていた。
傍聴席も埋まっている。商人代表、地方貴族、記録官。これは単なる法案ではない。王国の形を決める採決だった。
グレイザック侯爵が立つ。
「我々は混乱を経験した」
「通貨は暴落し、民は不安に陥った」
「再発防止のため、権限分散は必要」
正論の形をしていた。
「王家を縛るのではない」
「安定を制度化する」
拍手がいくつか起きる。レオンハルトは静かに言った。
「反論は」
アリシアが立ち上がる。視線が集まった。
「私は失策を犯しました」
ざわめきが走る。
「通貨暴落の責任は、私にあります」
侯爵がわずかに笑った。だが。
「だが」
声は揺れない。
「王権制限案は、失策防止ではない」
「決断不能化です」
広間が静まった。
「均衡国家は、迅速な判断を必要とする」
「議会承認制にすれば、緊急時に遅れる」
「帝国のような合理国家は、即断即決」
「我々が迷えば、再び揺さぶられる」
沈黙。
「安定とは」
「権限を削ることではない」
「責任を明確にすることです」
侯爵が口を開く。
「理想論だ」
「では現実を示します」
アリシアは手を上げた。扉が開き、財務官が入ってくる。
「報告」
「再建債、完売」
広間が揺れた。
「償還計画も順調」
「帝国銀行監査、問題なし」
侯爵の眉が動く。
「市場安定は継続」
「王国通貨、暴落前水準の九割回復」
ざわめきが広がった。アリシアは続ける。
「均衡は機能している」
「失敗もあった」
「だが修正し、立て直した」
「それが国家です」
沈黙が落ちる。
「王権制限案は、失敗を恐れる法です」
「だが国家は、恐怖で動かせない」
レオンハルトが立った。
「採決に付す」
空気が張り詰める。投票が始まり、一票、二票、三票と札が積まれていく。集計。長い沈黙。
「賛成、四十七」
「反対、五十三」
否決。だが前回より僅差だった。歓声はない。安堵も小さい。
侯爵は静かに席を立つ。
「今回は、な」
低い声だった。戦いは終わらないという宣言でもある。
――
夜、王宮の塔。レオンハルトが言う。
「勝ったな」
アリシアは首を振った。
「削られました」
「支持は戻りきっていない」
「貴族の不信も残る」
そして。
「リュカが距離を置き始めています」
レオンハルトは黙る。均衡国家は守った。だが、貴族との溝は深まり、帝国は静観を選び、彼女自身は失った信頼を完全には取り戻せていない。痛みを伴う勝利だった。
「三年後」
レオンハルトが言う。
「再び問われる」
「ええ」
アリシアは夜の王都を見た。灯りは戻っている。だが彼女は知っている。均衡は一度守れば終わりではない。守り続けるものだ。
そして今、彼女の心に初めて芽生えるものがある。
――恐れ。
負けることではない。守り続けられるかという恐れだった。
帝国は静かに次の手を考え、侯爵は機会を待ち、王国は疲弊しながら立っている。均衡国家は、生き延びた。だが強くなったとは言い切れない。それが、痛みの代償だった。
隣で、レオンハルトが言った。
「恐れているな」
「……ええ」
初めて、認めた。
彼は、それ以上何も訊かなかった。
本話もお読みいただき、ありがとうございました。
負けることではなく、守り続けられるかを恐れる。
彼女が初めて見せた「恐れ」の回でした。




