第90話 王権制限案
噂は、止まらなかった。
財務資料は全面公開された。帝国銀行監査報告も掲示され、再建債の配分も明細付きで公表された。透明性は保たれている。
だが――疑念は消えない。なぜなら疑念は、事実ではなく「感情」に根を張るからだ。
王宮・議政大広間。グレイザック侯爵が立ち上がる。
「国家の安定を恒久化するため、提案がある」
重い空気だった。提案、という穏やかな語から入るのが、この男の型だ。
「王権の経済決定権を議会承認制とする」
ざわめきが走った。承認制という語の意味を、この広間の全員が正確に理解している。
「財務統括の権限を分割し、貴族会の監督下に置く」
それは改革ではない。実質的な権限剥奪だった。王太子とアリシアの決定力を奪う法案だ。
「帝国との協調体制を安定させるためだ」
言葉は穏やかだった。だが狙いは明確だ。均衡国家の中枢を縛る。
レオンハルトが低く言う。
「それは王権の否定だ」
「否定ではない」
侯爵は静かに返す。声を張らないことが、そのまま自信の表明になっていた。
「分散だ」
「感情に左右されぬ体制」
広間の空気が凍る。感情。均衡。名を出さずに、アリシアを指している。
「均衡政策は一度失敗した」
「通貨は暴落した」
「再び同じ判断を下す保証はない」
事実を並べていく。政治的に巧妙だった。数名の貴族が頷く。噂が土台を作り、法案が刃となる。
――
王宮・執務室。
「可決の可能性は」
アリシアが問う。負けの目を先に数えるのは、いつも彼女のほうだ。
「五分」
リュカが答えた。数える対象が政策から票へ変わっても、彼の口調は変わらない。
「だが不信が拡大すれば、賛成が増える」
セレナが言う。集めた声を、都合の悪いものから先に読む順番だった。
「民の間でも『監視は必要』という声が出ています」
透明性を選んだがゆえに、“監視強化”という理屈が通る。皮肉だった。
「帝国は」
訊くまでもない問いを、それでも記録のために置く。
「公式関与なし」
リュカは言う。
「だが情報流出経路は帝国寄り商会」
証拠はない。だが構図は明白だった。
――
夜。アリシアは一人、廊下を歩いていた。
過去の記憶が蘇る。断罪の夜。冷酷な判断。敵を切り捨てた日々。
あの頃なら、反対派を封じ、権限を奪い、力で抑えただろう。だが今は違う。均衡国家は、力で封じれば崩れる。
扉が開き、レオンハルトが立っていた。
「侯爵は本気だ」
彼も一人だった。供も、灯りも連れていない。
「ええ」
「お前を縛るつもりだ」
沈黙が落ちる。
「私は退くべきでしょうか」
静かな問いだった。レオンハルトは即座に否定する。
「違う」
「これはお前個人の問題ではない」
「均衡国家を縛る法だ」
重い言葉だった。
「可決されれば、王は象徴になる」
「帝国と議会の均衡に組み込まれる」
それは静かな従属だ。アリシアは目を閉じる。均衡は守った。だが今度は、均衡の名で権力が削られる。
――
同時刻、グレイザック侯爵邸。
「票は揃うか」
「あと三」
側近が答える。三という数を、この屋敷では毎晩読み上げていた。
「噂があと一段広がれば、傾く」
侯爵は静かに頷いた。
「均衡は不安定だ」
「不安定な体制は、安定を求める」
「我々が安定を提示する」
彼は帝国に忠誠を誓っていない。だが帝国の力を利用する。合理国家と保守貴族の利害は、この一点で一致していた。
――
王都。夜の街に、再び怪文書が貼られる。
『断罪令嬢に国家を任せるな』
過去の強硬政策が誇張され、冷酷な一面が強調されている。民の心に、静かに刺さる文面だった。
信頼は目に見えない。だが削れる音は、確かに聞こえる。
王権制限案採決は三日後。
均衡国家は、
再び崖の縁に立っていた。
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