第89話 見えない刃
協定締結から二週間。王都は落ち着きを取り戻しつつあった。市場は安定し、通貨は緩やかに回復し、再建債の消化も予定どおりに進んでいる。財務院の窓から見下ろす大通りには、朝の荷馬車が列をなしていた。
だが――その静けさの下で、別の波が広がり始めていた。
――
最初は小さな噂だった。
「再建債の一部が王家関係者に優先配分された」
「帝国銀行監査官にアリシアが便宜を図った」
証書の番号が飛んでいる、と誰かが言い出し、翌日には三つの市場で同じ話が出ていた。証拠はない。だが噂に証拠は要らない。市場は数字で動くが、民は噂で動く。
――
王宮・情報局。
「出所不明の文書が市中に出回っています」
リュカが報告する。卓に並べられた三枚は、どれも紙の質が違った。
「財務院内部資料の改竄版」
アリシアは目を細める。書式は本物で、数字だけが差し替えられている。内部を知る者の手つきだった。
「帝国か」
「断定はできません」
だが可能性は高い。
「証拠は残さない」
合理国家らしい手口だった。旗も掲げず、名も名乗らない。
――
帝国首都。アルヴェインは報告を受けていた。
「王国内で不信感拡大」
「市場は安定を維持」
「よろしい」
彼は言う。
「均衡国家は、信頼に依存する」
「信頼を揺らせば、自壊する」
「軍は不要」
合理的破壊だった。兵を出さず、ただ紙を数枚流すだけで足りる。
――
王都、グレイザック侯爵邸。
「噂は広がっている」
側近が報告する。
「民衆の間でも疑念が」
侯爵は静かに頷いた。
「攻めるのは今ではない」
「信頼がもう一段揺れた時だ」
彼は帝国の動きを察している。察したうえで、止めもせず、乗る。
――
王宮。セレナが言う。
「民が動揺しています」
「再建債に不安の声」
アリシアは静かに考えた。これは単なる噂ではない。意図的で、精密で、時間差を置いてある。
「情報戦」
リュカが言う。
「帝国は我々を正面から崩さない」
「内部を疑わせる」
沈黙が落ちた。レオンハルトが低く言う。
「対抗策は」
アリシアは答える。
「透明化」
「全財務資料を公開」
「監査官の報告も公開」
「徹底的に」
リュカが眉をひそめた。
「内部弱点も晒します」
「隠せば疑念は増す」
均衡国家の選択だった。合理なら、統制。均衡なら、公開。どちらが安全かではなく、どちらが自分たちの形かで選んでいる。
――
だが、その夜。王都で暴動未遂が発生した。
「再建債は詐欺だ!」
叫ぶ男たち。扇動者は逃走し、背後関係は分からないままだった。市場は一瞬揺れる。
そして翌朝、新聞が大きく報じた。
『財務院内部疑惑』
火は広がる。均衡国家は、また試される。
そして――グレイザック侯爵が動き始めた。
「王国は弱い」
「帝国と全面協調すべきだ」
彼は水面下で貴族を集める。今度は解任ではない。王権制限案。事実上の権限剥奪だった。クーデターは、剣を使わない。法で行う。
アリシアは理解する。帝国は揺らし、侯爵は乗じる。三重の圧力だった。
そして初めて――彼女の過去が掘り起こされる。
『断罪令嬢の冷酷政策』
かつての強硬措置が蒸し返された。人格攻撃。信頼破壊。均衡国家の基盤は、信頼。それを削られる。
静かな刃が、確実に迫っていた。
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