第88話 残る火種
修正協定締結から十日。市場は落ち着きを取り戻しつつあった。通貨は暴落前の水準までは戻らないが、下げ止まっている。再建債も順調に消化され、王国は即時破綻を免れた。
だが――静かな不満は、消えていなかった。
――
貴族街・グレイザック侯爵邸。重厚な書斎で、侯爵は静かに報告を聞いていた。
「協定修正で帝国は譲歩」
「王家支持は微増」
「だが均衡政策への疑念は残っています」
侯爵はゆっくりと頷く。
「焦る必要はない」
「均衡は、継続すればするほど矛盾が出る」
側近が問うた。
「次の一手は」
「時間だ」
短い答えだった。
「王国は帝国銀行を受け入れた」
「監査官がいても、影響は広がる」
「三年後、民は問う」
『なぜ帝国資金なしでは立てぬのか』と」
侯爵は笑わない。だが確信している。均衡国家は、内部から腐る。
――
王宮。リュカは財務資料を眺めていた。帝国銀行支店設置準備、監査体制構築、再建債償還計画。どれも膨大な作業だった。
「……効率が悪い」
小さく呟く。合理ならば、一括受諾の方が早かった。だが。
あの対話を思い出す。アルヴェインの言葉。アリシアの言葉。合理と均衡。
「国家は構造か、人か」
答えはまだ出ない。だが一つだけ理解した。帝国は正しい。王国も間違っていない。ならば勝つのは――より強い国家だ。
彼の視線が、再建債の申込者一覧に止まる。商人、農民、小貴族。名の横に並ぶ金額は、どれも小さい。
「民が支えた」
それは合理では測れない。
――
庭園。セレナが言う。
「民の声は戻りつつあります」
「だが疑念も残っています」
アリシアは頷いた。
「当然です」
「完全勝利ではない」
「妥協です」
「均衡は、常に中途半端に見える」
静かな風が吹いた。
「後悔はありますか」
セレナが問う。一瞬の沈黙があった。
「あります」
率直な答えだった。
「判断が遅れた」
「通貨を傷つけた」
「支持を失った」
「だが」
「逃げなかった」
セレナは小さく笑う。
「それが、あなたです」
――
夜、王宮の塔。レオンハルトが立ち、王都の灯りを見下ろしていた。
「均衡は守った」
だがそれは始まりに過ぎない。三年。帝国は待つ。内部の火種は残る。グレイザック侯爵は静かに機会を待ち、リュカは思考を深め、民は結果を見守っている。
アリシアは理解している。均衡は一度守れば終わりではない。守り続ける戦いだ。
そして――帝国宰相アルヴェインは、まだ本気を出していない。
塔を下りたとき、レオンハルトの外套の肩は湿っていた。
霧が出ていたことに、彼は気づいていなかった。
本話もお読みいただき、ありがとうございました。
守り切ったはずなのに、火種だけが残る。
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