第87話 修正協定
帝国案回答期限、最終日。王宮は、異様な静けさに包まれていた。
否決された解任動議。持ち直した通貨。売り圧縮に転じた帝国銀行。だがこれは勝利ではない。均衡が、かろうじて保たれているだけだ。
――
謁見の間。レオンハルト、アリシア、セレナ。そしてアルヴェイン。最後の公式交渉だった。
「王国は、帝国案を修正条件付きで受諾する」
レオンハルトが宣言する。受諾でも拒否でもない答えを、この広間は初めて聞いた。ざわめきが走る。
「関税優遇は限定的措置とする」
「帝国銀行支店は、王国監査官の常駐を義務付ける」
「未決済債権は段階的整理」
アルヴェインは静かに聞いている。書面を追わず、声だけを追っていた。
「低利融資は二年限定」
「三年目は再協議」
沈黙。帝国にとって、当初案より利は減る。だが完全拒否ではない。
「合理的だ」
アルヴェインは言った。
「王国は譲歩しつつ、主権を守った」
視線がアリシアに向く。
「均衡を維持するための妥協」
「そう呼ぶのか」
「呼びます」
短い応酬だった。言葉の選び方だけは、最後まで譲らない。
「帝国はこれを受け入れる」
広間がわずかに揺れた。戦争ではない。従属でもない。だが完全独立でもない。それが現実だった。
――
調印。帝国との修正協定が成立する。市場は安定し、通貨はゆっくりと戻り始めた。民は安堵する。
「よかった」
「戦争にならなくて」
だが同時に、別の声も広がっていた。
「結局、帝国に頼った」
「均衡は幻想だ」
支持は完全には戻らない。
――
夜、王宮の執務室。リュカが言う。
「実質的には、帝国の影響下です」
「ええ」
アリシアは認めた。否定できる材料が無いことも、この男は分かって言っている。
「だが完全ではない」
「均衡は維持しました」
「だが代償は」
「重い」
短い答えだった。代償の中身を、彼女は数え上げなかった。レオンハルトが静かに言う。
「これは勝利か」
沈黙が落ちる。この十日、誰も口に出さなかった問いだった。
「違います」
アリシアははっきり言った。
「延命です」
その言葉に、空気が止まる。
「三年後、再び問われる」
「その時までに、我々は強くなる」
セレナが小さく頷いた。強くなる、という語の中身は、この二人で違っている。
「民の信頼も戻さねばなりません」
均衡国家は、生き延びた。だが傷は残った。
――
帝国首都。アルヴェインは報告を受けていた。
「王国、修正協定締結」
「市場は安定傾向」
「ふむ」
彼は窓の外を見た。帝国首都の空は、王都より一段低い。
「均衡国家は折れなかった」
「だが傷ついた」
「三年」
静かな声だった。三年という数字を、この男もまた予定として持っている。
「三年後に答えが出る」
側近が問う。
「次の一手は」
「急がない」
即答だった。
「均衡は内側から揺らぐ」
合理国家は焦らない。時間もまた武器だと知っているからだ。
――
王宮。アリシアは一人、机に向かっていた。協定書が置かれている。完璧ではない。敗北でもない。均衡。
「……まだ足りない」
小さく呟く。帝国は本気を出していない。王国も、まだ本気ではない。
協定書の隅に、小さな染みがある。
調印の日、誰かのペンから落ちたインクだ。
拭けば消える。
アリシアは、拭かなかった。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




