第86話 合理と均衡の対話
解任動議否決の夜。王宮の奥、灯りを落とした小会談室。向かい合うのは二人だけだった。
アリシア・ヴァレンシュタイン。アルヴェイン・シュタール。護衛も側近もいない、純粋な対話の場。
先に口を開いたのはアルヴェインだった。
「見事だ」
感情はない。だが評価は明確だった。褒める理由がある時にだけ褒める男の言い方だ。
「再建債で市場を止めた」
「帝国も売りを縮小せざるを得ない」
「合理的判断だ」
アリシアは静かに答える。
「均衡の中の合理です」
アルヴェインはわずかに目を細めた。灯りが低いぶん、瞳の色は分かりにくい。
「あなたは戻りつつある」
「合理へ」
「戻りません」
即答だった。訂正されることを、彼女はこの場でいちばん急いでいる。
「私は合理を捨てていない」
「だが合理だけに従わない」
沈黙。外では風が鳴っている。
「帝国案を拒否するつもりか」
淡々とした問いだった。
「条件次第です」
「ほう」
興味が宿った。条件次第、という返事を彼は想定していない。
「関税優遇の幅を縮小」
「帝国銀行支店は監査権付き」
「未決済債権凍結は交渉材料」
静かに提示していく。対等な交渉だった。従属ではない。
アルヴェインは微動だにしない。
「王国は、まだ余力があると思っているのか」
「帝国も無傷ではない」
余力を訊かれて、余力ではなく相手の傷を返した。
視線がぶつかる。
「王国市場を完全に切れば、帝国商会も損失」
「長期戦は双方に痛み」
合理国家は損失を嫌う。アルヴェインは小さく息を吐いた。
「あなたは危険だ」
「帝国にとってか」
「合理にとってだ」
言葉は冷たい。危険という語を、彼は評価の一段として使っている。
「均衡は感染する」
「他国が真似すれば、帝国の影響力は薄まる」
それは本音だった。アリシアは理解する。この戦いは王国だけのものではない。
「ならば戦争か」
彼女は問うた。
「帝国は戦争を好まない」
「非効率だ」
即答だった。
「だからこそ、経済で制する」
沈黙が落ちた。経済で制する、と言い切れる国は多くない。
「均衡は遅延死だと言ったな」
アリシアが言う。
「今もそう思う」
「ではなぜ売りを止めた」
一瞬。わずかな間があった。
「損失が拡大する前に止めた」
「合理だ」
「違う」
アリシアは言う。
「あなたは市場が壊れすぎるのを避けた」
「帝国商会の信頼も傷つくから」
沈黙が落ちる。
「合理国家は孤立死すると言った」
「今、帝国は市場全体の信頼を守った」
「それは合理か」
アルヴェインの瞳がわずかに揺れた。
「均衡を否定しながら、均衡を選んだ」
静かな一撃だった。長い沈黙が続く。そして――アルヴェインは、初めて微かに笑った。
「面白い」
感情のない男の、わずかな変化だった。
「王国は三年持つかもしれない」
「だがそれ以上は」
「その時はその時です」
即答だった。三年より先を、彼女はまだ設計していない。彼は立ち上がる。
「帝国案は修正可能だ」
「だが覚悟しろ」
「均衡は常に試される」
「承知しています」
扉に手をかける前、アルヴェインは振り返る。
「あなたが王なら、帝国は厄介だった」
「残念だ」
去っていく背中を、彼女は座ったまま見送った。静寂が戻る。
アリシアは、ゆっくり息を吐く。勝利ではない。敗北でもない。均衡国家は、生き延びた。だが帝国は去らない。
均衡とは――常に戦い続ける状態なのだと、彼女は理解する。
――
部屋を出ると、廊下の柱の陰に、灯りを持った人影があった。
護衛でも、侍従でもない。
「終わったか」
「ええ」
「そうか」
それだけ言って、レオンハルトは灯りを渡し、先に歩き出した。
待っていた、とは言わなかった。
本話もお読みいただき、ありがとうございました。
合理の化身と、均衡の設計者。
護衛も側近もいない部屋で、剣を使わずに殴り合う回でした。




