第84話 逆襲の布石
解任動議審議まで、残り一日。王宮は静まり返っていた。嵐の前の静けさだった。
アリシアは財務院の奥室に、限られた者だけを集めていた。レオンハルト、リュカ、財務官長。そして――エドガー。
「時間がない」
アリシアは率直に言う。挨拶も、経緯の確認も省いた。この部屋にいる四人は、経緯を全部見てきた者たちだ。
「帝国案を拒否し、通貨を安定させる必要がある」
「具体策は」
リュカが問うた。彼女は机に一枚の資料を広げる。
「帝国商会の王国依存度」
数字が並んでいた。撤退した商会の帳簿が、なぜ王国の卓にあるのかは誰も訊かない。
「帝国は王国市場から撤退した」
「だが完全ではない」
視線が集まった。撤退した側の帳簿を、彼女は撤退される側から組み上げている。
「帝国商会の三割は、王国産穀物と鉱石に依存」
「短期撤退は可能」
「長期は損失」
沈黙が落ちた。三行の数字が示しているのは、王国の弱さではなく帝国の紐だった。レオンハルトが言う。
「つまり」
「帝国も我々を完全に切れない」
アリシアは続けた。
「帝国は市場心理を揺らした」
「ならば逆に揺らす」
エドガーが目を細めた。商人の顔に戻っている。
「どうやって」
「王国は帝国商会の未決済債権を保有している」
財務官長が息を呑んだ。その言葉が出た瞬間、彼は椅子を半分引いている。
「差し押さえるのか」
「違う」
彼女は首を振る。
「凍結する」
空気が変わった。凍結という語が、この国から帝国へ向けて出るのは初めてだ。
「帝国銀行支店設置の交渉中止を発表」
「同時に未決済債権の再審査」
「帝国側に“王国市場封鎖の可能性”を示唆する」
リュカが言う。彼が却下されてきた案より、はるかに攻撃的な手だった。
「報復ですか」
「交渉」
静かな訂正だった。報復と交渉の違いは、やることではなく降ろし方にある。
「帝国は合理国家」
「損失が見えれば、譲歩する」
相手を読むのではない。相手の帳簿を読む。彼女のやり方は最初から変わらない。
危険な賭けだ。示唆した瞬間から、後戻りの道はない。
「市場がさらに不安定になります」
財務官長が言った。
「だから同時に発表する」
アリシアは続ける。
「王国再建債の発行」
「国内限定」
「高利率」
エドガーが驚いた。商人にとって、それは最も痛い言葉のはずだった。
「国内から資金を吸い上げる?」
「信頼を示す」
静かな声だった。示すのは資金力ではない。返す意思のほうだ。
「王国は逃げないと」
レオンハルトが低く言う。
「民に賭けるのか」
「ええ」
短い答えだった。彼女が民という語を、計算の外に置かなくなっている。
「帝国に依存するか」
「自国を支えるか」
「選ばせる」
沈黙が落ちる。誰も、良い案だとは言わなかった。リュカがゆっくり言う。
「危険です」
「帝国がさらに圧力をかければ」
「潰れる」
「承知しています」
アリシアの声は揺れない。
「だが帝国案を受ければ、緩やかに潰れる」
どちらも危険だった。ならば攻める。
エドガーが腕を組んだ。削られる側だった男に、いま国の側が頭を下げている。
「商人は動くか?」
「あなた次第です」
視線が交わった。かつて削られる側だった男の目を、彼女はまっすぐに見ている。
「王国が本気なら」
エドガーは言う。
「賭ける者はいる」
レオンハルトが静かに頷いた。
「やれ」
短い命令だった。詰めるべき点を、彼はもう一つも訊かなかった。
「失敗すれば」
「私の責任です」
即答。
――
同刻、帝国宰相アルヴェインは、静かに報告を受けていた。
「王国、帝国銀行設置交渉を一時停止」
「未決済債権の再審査を開始」
わずかに目を細める。報告の紙は、二枚とも短い。
「ほう」
「市場は一時混乱」
「だが王国内で再建債発行」
沈黙が落ちた。彼が想定していた反応の表に、その手は載っていない。
「自国資金で持たせる気か」
小さな興味だった。
「均衡国家が、攻めに出た」
彼は窓の外を見る。
「面白い」
側近が問うた。
「追加圧力を」
「まだだ」
即答だった。逸る側近を止めるのに、彼は理由を一つしか使わない。
「市場は我々だけのものではない」
「揺らしすぎれば帝国商会も傷つく」
合理。冷静。この男は自分の武器の刃こぼれまで数に入れている。
「王国がどこまで耐えるか、見よう」
微笑みはない。だが明確な興味があった。
――
王都。再建債発行の公告が出る。
『王国再建債 年利五分 国内限定』
ざわめきが広がった。年利五分は、返せる国の出す数字ではない。
「高い」
「危険だ」
「だが……」
エドガーは商人仲間に言う。
「帝国に預けるか」
「自国に賭けるか」
沈黙が落ちた。やがて、一人が言う。
「……乗る」
小さな波が、広がっていく。
均衡国家は、初めて攻勢に出た。解任動議審議は明日。だが戦場は、すでに市場に移っている。
勝敗はまだ見えない。
だが――
王国は、屈していなかった。
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