第78話 揺れる信頼
王国通貨は、さらに三日で五分落ちた。市場は悲鳴を上げない。だが確実に冷えていく。
商人は仕入れを控え、貴族は資産を外貨へ移し、庶民は貯蓄を引き出す。ゆっくりと、しかし確実に、信頼が削られていた。
――
王宮・財務院。
「市場安定基金、第一段階投入完了」
財務官の声は疲れている。三日続けて、同じ席で同じ数字を読んでいた。
「効果は」
「一時的に下げ止まりました」
「一時的?」
訊き返したのは、聞き違いを疑ったからではない。
「はい。帝国銀行が再び売りを浴びせています」
沈黙。アリシアは、机上の数値を見つめた。これは持久戦だ。だが王国の資金は有限で、相手の資金はそうではない。
「第二段階を」
彼女は言う。
「買い支えを拡大」
「財政赤字が膨らみます」
「承知の上」
合理的には、痛みを短期に集中させるべきだった。だが彼女は均衡を守ろうとしている。中途半端な防衛。それが最も危険だと、どこかで理解していながら。
――
回廊で、リュカが追いついた。
「段階投入は誤りです」
抑えた声だった。回廊で追いつくために、彼は走ってきている。
「なぜ」
「帝国は我々の体力を測っている」
「少しずつ削る」
「ならば一度で止めるべきです」
「全面規制と資本凍結を」
以前却下した案だった。アリシアは足を止める。
「市場の信頼を失う」
「信頼は既に失われつつあります」
鋭い指摘だった。
「恐怖を止めるには、強い措置が必要」
正論だった。彼の言うことは、この二か月ずっと正論のままだ。だが。
「強い措置は、均衡を壊す」
「均衡は理想です」
リュカの目が揺れない。
「帝国は理想で止まりません」
沈黙。アリシアは、一瞬だけ迷った。ここで合理に戻れば、止まる可能性はある。だが代償は大きい。
「……もう一日様子を見る」
彼女は言った。それは、小さな判断だった。だが後に響く。
――
翌日、王国通貨は急落した。二割。市場は凍りつく。
「王国債が売られています!」
「帝国銀行が先物を仕掛けています!」
報告が飛び交い、財務院は混乱に近い。
「全面規制を!」
リュカが声を上げる。
「遅すぎます!」
アリシアは歯を食いしばった。昨日、決断しなかった。その一日が重い。
「規制発動」
命じる。
「外貨移動凍結、王国債売却停止」
だが市場は既に恐怖に支配されている。規制は“防衛”ではなく“封鎖”と映った。商人の間で噂が広がる。
「王国は持たない」
「帝国に屈する」
信頼は、数字以上に落ちた。
――
夜、エドガーが王宮に呼ばれた。
「市場は混乱しています」
彼は率直に言う。
「規制は悪手だった」
沈黙が落ちる。呼ばれた理由を、彼は入る前から分かっていた。
「昨日なら違った」
アリシアは目を伏せない。伏せれば、この男には二度と本当のことを言えなくなる。
「判断が遅れました」
初めて、明確に認めた。
「均衡を守ろうとした」
「だが市場は均衡を待たない」
エドガーは小さく息を吐く。
「帝国は感情を利用している」
「恐怖を増幅させている」
「均衡国家は、恐怖に弱い」
言葉が重い。商人が語る市場は、政策の言葉より速い。
「……私は誤った」
アリシアは静かに言った。エドガーは、彼女を見る。責める顔ではなかった。
「正直だな」
「隠しても意味がない」
「だがな」
一歩近づいた。
「責任は取れるか」
重い問いだった。
「取ります」
「どうやって」
沈黙。答えはまだない。
――
王宮。レオンハルトが報告を受けていた。
「支持率が下がっています」
「軍も不満を示しています」
「貴族の一部が帝国案支持を表明」
均衡は揺らいだ。レオンハルトは、静かに言う。
「彼女は?」
「責任を認めました」
小さく頷いた。折れた者の報告は、こういう形では上がってこない。
「ならばまだ折れない」
だが現実は厳しい。帝国は、次の手を打つ。王国は初めて、明確な“後手”に回った。
均衡国家は試されている。そしてアリシアは理解する。理想を守るだけでは足りない。勝たなければ、守れない。
だが――
どうやって。
答えはまだ見えない。
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