第77話 静かな侵略
王都の市場から、帝国商会の紋章が消えたのは、ほんの一夜のことだった。
朝、市場を訪れた商人たちは、最初は気づかなかった。帝国産の絹がない。帝国産の香辛料がない。帝国金融証書の取り扱いが停止されている。
「……仕入れが止まっている?」
ざわめきは、ゆっくりと広がった。正午には、帝国商会の支店がすべて閉鎖されていることが判明する。
残されていたのは、張り紙が一枚。
『王国との契約見直しのため、営業を一時停止する』
たったそれだけだった。だが王都の空気は変わった。
――
王宮。
「帝国商会、全撤退を確認」
報告は簡潔だった。撤退の理由も、通告の日付も書かれていない。レオンハルトが目を細める。
「一時的、ではないな」
問いの形をしていたが、答えを待ってはいなかった。
「ええ」
アリシアは書類をめくった。
「王国通貨に対する売り注文が急増」
「帝国銀行が市場で王国債を放出しています」
財務官の声が震えている。
「意図的です」
リュカが即座に言った。
「経済攻撃です」
沈黙。軍ではない。兵は一人も動いていない。だが確実な侵略だった。
「通貨は」
「三日で一割下落」
空気が重くなる。レオンハルトが低く言った。
「帝国は三年を待たない」
「ええ」
アリシアの声は静かだ。
「均衡国家の試験です」
――
帝国首都。巨大な窓から、静かな街並みを見下ろす男がいる。灰銀の髪に、冷たい瞳。
「王国商会撤退、完了しました」
側近が報告する。アルヴェイン・シュタールは、わずかに頷いた。窓から視線を外さないままだった。
「市場はどう動く」
「王国通貨は不安定化」
「良い」
淡々とした声だった。良い、という語に、満足の色は混じっていない。
「均衡国家は、外圧に弱い」
「構造を緩めれば、侵入は容易だ」
彼は机の上の資料を閉じる。
「彼女はどう出る」
側近が問うた。
「合理に戻る」
アルヴェインは即答する。
「戻らなければ、崩れる」
その声音に感情はない。
「王国は理想を掲げた」
「ならば理想の重さを測ろう」
静かな侵略が始まっていた。
――
王宮緊急会議。
「資本規制を」
リュカが即座に提案する。会議が始まって、まだ一分も経っていない。
「通貨取引を制限し、外貨移動を凍結」
「市場の信頼を失う」
財務官が反論した。声が上ずっているのは、数字を見た者の反応だった。
「信頼は既に揺らいでいます」
声が強まる。
「躊躇すれば暴落は止まらない」
視線がアリシアに集まった。合理なら、即断だ。市場は心理で動き、心理は恐怖で加速する。だが。
「段階的規制」
アリシアが言う。
「全面凍結はしない」
「弱い」
リュカの声が鋭い。
「帝国は容赦しません」
「だからこそ全面規制はしない」
静かな反論だった。
「恐怖を増幅させれば、民は不安に飲まれる」
セレナが小さく頷く。だが時間はない。
「三日で一割」
財務官が呟いた。
「一週間でどうなる」
誰も答えない。
アリシアは窓の外を見た。帝国は軍を動かしていない。だが王国は揺れている。これが合理国家の戦い方だった。
「市場安定基金を動かす」
彼女は決断した。使えば底が見える資金だと、この部屋の全員が知っている。
「王国債を買い支え」
「財政負担が」
「承知の上」
均衡を守るための犠牲だった。だがそれは――長期戦に弱い。
会議が終わり、回廊を歩くレオンハルトが言う。
「始まったな」
歩調は緩めない。緩めれば、後ろの者に伝わる。
「ええ」
「三年は幻想だった」
アリシアはわずかに首を振った。
「いいえ」
「三年は戦場です」
静かな声だった。だが内心は揺れている。合理に戻れば早い。強制すれば止まる。だがそれは均衡の否定だ。
彼女は、まだ踏みとどまっている。だが帝国は、待たない。王国通貨は、さらに下落した。
その夜、王宮の庭に人影はない。
月も、雲の裏だった。
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