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第73話 揺らぐ合理

 救済制度草案の締切まで、残り十二日。王宮の空気は張り詰めていた。再編は減速し、嘆願は続き、軍は不満を隠さない。


 その中で、リュカは静かに資料をまとめていた。


「時間が足りません」


 彼は、アリシアの執務室で言った。扉を叩いてから話し始めるまでが、いつもより短い。


「救済制度に注力すれば、三年計画の進行が遅れます」


「承知している」


 書類から目を上げずに答えた。彼が来る理由は、入ってきた時点で見当がついている。


「ならば提案があります」


 差し出された書面の表題は、簡潔だった。――再編進行特別措置案。


「内容は」


 紙の厚みは三枚。前回より薄い。詰めた者ほど、紙は減る。


「統合対象地域への期限付き強制契約」


「再編反対活動の許可制」


「補助金は統合受諾者のみ支給」


 空気が変わった。三つとも、却下された案の言い換えではない。もっと先へ進んでいる。


「分断するのか」


 アリシアの声は低い。


「選択を明確化するだけです」


 リュカは迷わない。分断という語を、彼は制度の名前としてしか受け取っていない。


「従う者を優遇し、遅らせる者を切る」


「合理的です」


 その言葉に、静かな怒りが混じった。


「合理は目的ではない」


 アリシアが言う。


「手段だ」


 声を荒らげてはいない。だが、この日初めて彼女が言い切った言葉だった。


「目的は国家存続」


「存続のためには速度が必要」


 彼の目は揺れない。躊躇という語を、失敗の同義語として使っている。


「今、躊躇すれば三年後に後悔します」


 正しい。論理は正しい。だが何かが違う。


「あなたは」


 アリシアが、ゆっくりと言う。


「国を何だと思っている」


「構造です」


 問い返すまでの間もなかった。


「人は」


「構成要素」


 即答だった。そこに迷いはない。半年前なら、彼女も同じ速さで同じ言葉を出しただろう。


「痛みは」


「最小化すべきコスト」


 言葉が、冷たい。半年前の自分なら、この答えに頷いていたかもしれない。


 アリシアは、机の上の書面を閉じた。


「却下」


 短い言葉だった。リュカの眉がわずかに動く。


「理由を」


「国が割れる」


「割れません」


 その断定に、彼女は書面から手を離した。


「割れる」


 静かな断定だった。


「分断を制度化すれば、亀裂は戻らない」


「では遅れます」


 反論の順序が、いつも同じところへ戻る。速度、遅れ、後悔。


「遅れを吸収する」


「どうやって」


 沈黙。だが彼女は目を逸らさない。


「痛みを共有する形で」


 リュカは、初めて戸惑った。


「共有?」


「補助は受諾者だけでなく、移行期間全体に」


「強制ではなく段階契約」


「評価基準を公開」


 速度は落ちる。だが亀裂は広がらない。


「それでは弱い」


 リュカは言う。


「帝国は強い」


「だからこそ違う道を取る」


 静かな声だった。


「帝国は利益最大化」


「王国は均衡最大化」


 リュカは、言葉を失った。反論の材料ではなく、前提のほうを崩されている。


「私は」


 アリシアは続ける。


「合理を信じている」


「だが合理だけでは、国は持たない」


 初めての明確な否定だった。自分自身の過去への否定でもある。


「感情は不安定です」


 彼が半年前の彼女と同じ語彙で話しているのが、いまは分かる。


「感情は国の土台」


 その言葉に、リュカの表情が揺れた。


「あなたは変わりました」


 彼は小さく言う。


「いいえ」


「理解しただけ」


 沈黙が落ちた。リュカは、ゆっくりと頭を下げる。三度目の却下を、彼はやはり数えている。


「承知しました」


 だがその目には、まだ疑問が残っている。


 ――


 夜。レオンハルトが報告を受けていた。


「強制案を却下したか」


「ええ」


 報告は一行で済ませた。それ以上を説明する気力が、この日は無い。


「正しい」


 即答だった。


「だが速度は落ちる」


 落ちる、ではなく落とす、と彼女は言い直した。


「落とす」


 彼は言う。責める調子ではなく、確かめる調子だった。


「王は、速さだけを選ばない」


 アリシアは、わずかに目を細めた。


「私は速さを選び続けていた」


「今は違う」


 レオンハルトの声は静かだ。


「お前は、痛みを見た」


 エドガーの言葉が蘇る。


『痛みの価値を決めるのは、削る側じゃない』


 アリシアは、深く息を吐いた。


「合理は、刃です」


「使い方を誤れば、国を裂く」


 彼女は初めて、自分の限界を認めた。再編は続く。だが方向が、わずかに変わった。


 その夜、アリシアの執務机には、誰が置いたとも知れない布包みがあった。


 開けると、焼き菓子が二つ。


 尋ねると、仕える者は「頼まれましたので」とだけ答えた。


 アリシアは一つだけ食べ、もう一つを翌朝まで残した。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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