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第72話 痛みの価値

 公開討論から三日後。王都の空気は、奇妙な静けさに包まれていた。怒号はない。暴動もない。だが議論は止まらない。酒場でも、市場でも、農村でも。


「どっちが正しい」

「両方だ」

「じゃあどうする」


 答えは出ない。


 ――


 南部から、エドガーが再び王都を訪れた。今回は代表者としてではない。一人の商人として、王宮の応接室でアリシアと向かい合う。


「討論、見た」


 彼は椅子に深く座り、率直に言った。


「どう感じましたか」


 茶は出されたまま、彼は手をつけていない。


「どっちも正しい」


 即答だった。


「だから厄介だ」


 沈黙が落ちる。厄介だ、という語を、彼は投げつけるようには言わなかった。


「俺はあんたを嫌ってはいない」


 エドガーは続ける。


「嘘をつかないからな」


「ですが」


 言い返そうとした言葉が、途中で行き場を失った。


「削られる側にいると、正しさは刃物だ」


 その言葉は、静かに重い。アリシアは、目を逸らさなかった。


「三年後、帝国に飲まれれば」


「分かってる」


 遮られた。


「だから反対してるわけじゃない」


「順番だ」


 またその言葉だった。この二週間で、彼女は三人から同じ二文字を聞いている。


「未来のために今を捨てろってか?」


 沈黙。答えを待つ気配もない。訊いた本人が、答えの出ない問いだと知っている。


「俺の商会は統合対象だ」


「二十年積み上げた信用も、屋号も消える」


「再雇用は能力次第」


 通達の文面を、彼はそのまま暗誦した。


「能力はある」


 わずかに笑う。


「だが屋号は戻らない」


 それは数字では測れない。彼女の表のどの列にも、屋号という費目は無い。


「痛みは必要コストだと言うか」


 問いだった。責める調子ではない。値を確かめる商人の訊き方だった。アリシアは、ゆっくりと言う。


「国家が存続するための代償」


 用意していた答えだった。用意していたからこそ、続きが無い。


「代償は誰が払う」


 即答できなかった。


「俺か?」


「農民か?」


「次は誰だ?」


 静かな圧力だった。


「正しいさ」


 再びその言葉。


「だが」


 一瞬の間があった。


「痛みを払う側に、選択肢はあるのか」


 部屋の空気が凍る。合理の論理では、国家全体の最適解。だが個人の最適解ではない。


「選択肢はある」


 アリシアは言う。


「統合後の競争」


 言ってしまってから、その言葉の薄さが自分でも分かった。


「それは敗者に選択肢があると言えるのか」


 言葉が止まった。初めて、明確に。


 エドガーは立ち上がる。


「俺は国を壊したいわけじゃない」


「だがな」


 視線がまっすぐに刺さった。


「痛みの価値を決めるのは、削る側じゃない」


 沈黙。応接室の窓は閉じたままで、外の音は入ってこない。


「削られる側だ」


 言葉が落ちる。重く、逃げ場なく。


 アリシアは、初めて答えを探した。だがすぐには出ない。


「……救済制度を強化する」


「それは痛みを減らす策だ」


 エドガーは言う。


「だが痛みを決めているのはあんただ」


 部屋は静まり返る。


「正しいことをするなら」


 彼は最後に言った。


「その重さを自分で引き受けろ」


 去っていく足音。残された沈黙。


 ――


 夜。アリシアは一人、書類の山の前に座っていた。救済制度草案。再就労支援、資金補助、再教育。数字は整っている。だがエドガーの言葉が消えない。


『痛みの価値を決めるのは、削る側じゃない』


 合理は、正しい。だが。


「……私は」


 小さく呟く。


「誰の痛みを決めている」


 扉が開き、レオンハルトが入ってきた。


「顔が険しいな」


「当然です」


 書類から目を上げないまま答える。


「何があった」


「削られる側の言葉を聞きました」


 沈黙。彼は椅子を引かず、机の端に手をついたまま立っていた。


「正しかったか」


 問い方が、責める形になっていない。


「正しい」


「だが」


「それでも三年計画は必要」


 即答だった。だが声が、わずかに揺れる。レオンハルトは、静かに言った。


「王は、痛みを決める」


 重い言葉だった。


「だが痛みを軽くする責任もある」


 アリシアは、目を上げる。


「私は王ではない」


 逃げ道として出した言葉ではなかった。事実として、そう置いただけだ。


「だが構造を作る」


 短い沈黙があった。


「痛みを決めるなら」


 レオンハルトは続ける。


「その重さを、共に背負え」


 エドガーと同じ言葉だった。だが今度は逃げ場がない。合理は冷たい。だが冷たさだけでは、国は続かない。痛みは数値ではなく、人の重さだ。


 レオンハルトは、それだけ言って部屋を出ていった。


 扉が閉まる直前、彼が一度だけ足を止めたことに、アリシアは気づいていた。


 何を言おうとしてやめたのかは、訊かなかった。

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