第70話 割れる王宮
一か月以内の救済制度草案公表。その約束は、王宮内部に波紋を広げた。最初に反応したのは軍だった。
軍議室。
「軍需第二段階の延期?」
ヴァルク将軍の声は低いが、怒気を含んでいる。
「一部です」
財務官が慎重に答えた。
「鉱山再開を優先するため、武具内製化拡張は半年後ろ倒しに」
「半年あれば十分に遅れる」
ヴァルクは机を叩かない。だが視線が鋭い。剣を抜かない相手に、抜かないまま返す作法を、この男も心得ている。
「三年は短いと言ったのは誰だ」
沈黙が落ちた。
「帝国が再び圧力をかければ、
我々は備えが足りない」
レオンハルトが、静かに口を開く。
「内乱の種を抱えたまま強化はできない」
「暴動は起きていない」
「今はな」
短い応酬だった。軍は合理を支持している。だが軍の合理は、国防を先頭に置く合理だ。
――
一方、教会代表は別の懸念を示した。
「急速な再編は、秩序の動揺を招きます」
「動揺はすでにある」
アリシアが答える。
「動揺を吸収する制度が必要です」
「制度だけでは心は整いません」
穏やかな言葉だった。だが意味は深い。王宮は、静かに分裂していく。誰も声を荒らげないまま、机の並びだけが変わっていく。
――
夜。レオンハルトは、三つの報告書を並べていた。軍の懸念、民意の嘆願、財政試算。
「どれも正しい」
小さく呟く。アリシアが、その隣に立った。
「正しさは一つではない」
「だから難しい」
彼は顔を上げる。
「お前はどう見る」
「救済制度は必要」
「軍は」
「延期は最小限に」
「財政は」
「赤字覚悟」
迷いはない。
「だが」
アリシアは一瞬、言葉を選んだ。
「制度設計を誤れば、逆に不信を生む」
「一か月で間に合うか」
「間に合わせる」
その決意は変わらない。だが疲労が見えた。この数日、彼女が執務室を出た時刻を知る者はいない。
――
その頃、リュカは別室で資料を読み込んでいた。
「政策が揺らいでいる」
彼は小声で呟く。合理は速度が命だ。だが今は減速している。
「王女殿下の発言が優先されている」
不満ではない。焦燥だった。
「感情が、国家の進行を妨げている」
彼は、救済制度草案に目を落とす。補助金、再教育費、転職支援。費目が縦に並び、どれにも上限が書かれていない。
「コストが膨らむ」
その目に、硬い光が宿った。
――
翌日、王宮小会議室。軍、財務、教会、農政、商務、王族。全員が揃った。
「王宮は割れている」
ヴァルクが、率直に言う。
「軍は再編加速を支持」
「民は段階実施を求める」
「財政は警告」
沈黙。レオンハルトが、ゆっくりと立ち上がった。
「我々は帝国ではない」
静かな声だった。
「合理だけで進む国ではない」
視線が、全員を巡る。
「だが感情だけで守れる国でもない」
誰も反論できない。
「一か月」
彼は続ける。
「救済制度を設計する」
「同時に、鉱山再開は予定通り進める」
「農地統合は段階化」
「商会統合は透明基準を公開」
それは、妥協の集合体だった。だが選択でもある。
会議後、セレナが静かに言った。
「ありがとうございます」
「まだ終わっていない」
レオンハルトは答える。
廊下で、アリシアが立ち止まる。王宮は割れた。だが崩れてはいない。理と人。均衡は、まだ保たれている。だがその均衡は、極めて脆い。
救済制度草案まで、残り二十五日。
ここからが、本当の思想戦だった。
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