第68話 声なき怒り
王都の中央広場。かつて再編反対の怒号が飛び交った場所は、今は静かだった。だがその静けさの中に、整然と並ぶ人々の列がある。
農民、商人、職人。手にしているのは武器ではない。嘆願書だ。
「統合の再検討を求める」
「救済制度の明確化を求める」
声は荒れていない。怒鳴らない。暴れない。ただ、並び、提出し、去る。それが一日で終わらず、二日、三日と続いた。
王宮。
「提出数は三百を超えました」
民意調整局の報告だった。
「扇動の形跡は?」
「ありません」
レオンハルトは眉をひそめる。
「自発的か」
「はい」
アリシアは、提出文書をめくる。どれも似た文面だが、完全な写しではない。各地で自然に広がった言葉だ。
「暴動より厄介ね」
彼女は小さく言った。怒りは鎮圧できる。だが理性的な反対は、正面から向き合うしかない。
――
南部。エドガーは、小さな集会を開いていた。
「俺たちは反乱を起こすつもりはない」
集まった商人と農民に向けて言う。
「王国を壊す気もない」
「だが」
静かな目が並んでいる。
「順番が違うと言っているだけだ」
同意のうなずきが、輪の外まで伝わった。
「救済策を先に示せ」
「契約の条件を明確にしろ」
要求は具体的だった。理性的で、だからこそ広がる。
――
王宮の回廊。リュカが、早足でアリシアに追いついた。
「放置すべきではありません」
「何を」
「嘆願活動です」
彼の声は低い。
「拡大すれば、政策が止まる」
「止まっていない」
「ですが影響が出ています」
農地統合の第二段階が延期された。商会統合の通達も見直し検討中だ。
「感情が政策を遅らせている」
リュカは言う。
「ならば制限を」
「具体的に」
「集会許可制。嘆願書提出数の制限」
アリシアは、足を止めた。
「それは何を守る」
「国家の進行です」
「国家とは何」
一瞬、リュカが言葉を詰まらせる。
「構造です」
「人は」
「……含まれます」
「では人の声を制限して、何を守る」
静かな問いだった。リュカは、わずかに唇を結ぶ。
「三年は短い」
「ええ」
「だが声を封じれば、亀裂は深くなる」
アリシアは、淡々と続けた。
「反対があるのは健全」
「遅れは」
「吸収する」
リュカは、なおも食い下がる。
「帝国が再び圧力を強めたら」
「その時はその時」
彼女の声は変わらない。
「だが今、国を割るわけにはいかない」
沈黙。リュカは、静かに頭を下げた。
「承知しました」
だが彼の目には、納得がない。二度目の却下を、彼は数えている。
――
夜。レオンハルトは、提出された嘆願書の山を見つめていた。
「怒っていない」
彼は言う。
「だが納得していない」
アリシアが頷く。
「暴動より厄介」
「抑えるか」
「抑えれば帝国と同じ」
短い言葉に、重い意味があった。レオンハルトは、しばらく沈黙する。
「王は、どこまで耐える」
「耐えるのではない」
アリシアは静かに言う。
「調整する」
窓の外、広場にはまだ灯りがある。人々は静かに集まり、静かに去っていく。怒号はない。血も流れない。だが確実に、国は揺れている。
声なき怒り。それは燃え上がらない炎で、消えもしない。
嘆願書の束の一番下に、字の拙い一枚があった。
――王女様は、話を聞いてくださいました。あの方は、聞いてくださいますか。
あの方が誰を指すのかは、書いていない。
アリシアは、その一枚だけを別にして、机の端に置いた。
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