続・夜霧の毒蛇と可憐な蝶 1/3
陸紫燕は、自分の足元に引かれた、国境を示す一本の境界線を静かに見下ろした。
曜朝軍の先頭の馬が、すでにその線を半歩踏み越えている。紫燕は乗馬鞭でその馬の蹄を鋭く指し示し、低く、しかし驚くほどよく通る声で、地平線まで届くように告げた。
「そこから先は、貴方の皇帝陛下の土地ではない。我が黎国が血を流して守り抜いた領土だ。我が国との国境協定第八条に基づき、武装した貴軍のこれ以上の前進は宣戦布告とみなす。不法侵入した兵は国際法に則り拘留する」
曜朝との国境地帯。荒涼とした土煙が舞う最前線で、黎国の若き防衛官・|陸紫燕は、越境しようとする曜朝の現場指揮官を、冷静冷酷な論理で突っぱねていた。
前回の天香閣での予備交渉を経て、さらに凄みを増したその佇まいに、曜朝の兵らは気圧され、一歩も前進できずにいる。
だが、背後からは身内の無能な声が足を引っ張っていた。大国である曜朝の怒りを極度に恐れる黎国宮廷の老臣たちだ。
「紫燕殿、何をやっておられる! 曜朝様が激怒しておられるのだぞ! 密売に関わった疑いがある者は、我が国の民であっても全員曜朝へ引き渡せ!」
「お黙りいただきたい。無抵抗の自国民を他国の刃に晒すなど、軍人の誇りが許しません」
紫燕は老臣たちを冷ややかに一蹴した。
ことの発端は、曜朝が自国の「官売塩」の価格を突如三倍に跳ね上げたことだった。
生活に不可欠な塩の高騰に耐えかねた曜朝の民は、正規の塩を買うのをやめ、国境地帯には爆発的に密売塩が流通し始めた。焦った曜朝軍は、武力制圧と恐ろしい連座制による血みどろの取り締まりを開始。追い詰められた密売人や逃亡民たちが、怒涛のごとく黎国の国境へとなだれ込んできていたのだ。
(……自業自得の極みだな)
紫燕は、国境の混乱を見つめながら、曜朝の歪んだ塩の流通システムを脳内で冷徹に整理していた。
曜朝は直接塩を製造せず、沿岸部や塩湖の製塩業者に生産を任せ、それを安値で強制買い占めしている。民への塩の直販は死刑。各生産地に「塩鉄使」と国営倉庫を置き、買い取り原価に国庫の利益を上乗せして公認の塩商人に払い下げる。商人は税を乗せた『塩引』という紙の引換券を購入して倉庫から塩を受け取り、全国へ運んで民に売る――。
中間搾取と税金の二重取り。その上、価格を三倍に吊り上げれば、市場が崩壊し闇ルートが横行するのは経済の摂理だった。
紫燕はただ手をこまねいていたわけではない。彼は国境で押収した密売塩をそのまま曜朝へ返還せず、黎国の国営組織を通じて別の遠方の国へ安価で再輸出する仕組みを構築していた。曜朝から詰問されれば「我が国の国内法で正当に押収・処分した」と突っぱね、ちゃっかり自国に巨額の利益をもたらしていたのだ。
そんな折、曜朝の都から、陸紫燕個人へ当てた招聘状が届いた。
表向きは先の治水問題解決への功績を称える栄誉。
だが、その本質は紫燕を現場から引き離す罠か、あるいは逃げ場のない宮廷へ引きずり込む冷徹な詰み将棋に他ならない。
◇
視界のすべてが、溶解した黄金と圧倒的な絢爛に呑み込まれる。
金碧輝煌――。
ここは帝宮の奥に隠された神域、天香閣の大広間。
世界の富と美の粋を濃縮して塗りたくったような光芒が、空間を支配していた。天上の穹窿からは無限の星屑をも凌駕する豪奢な黄金灯籠が吊るされ、極上の絹衣を纏った貴族たちを眩しく灼きつけている。
陸紫燕の招聘を祝う華やかな夜宴。
しかし、その華やかさの裏で、無数の役人や特務機関の刺客たちが、紫燕の一挙手一投足に死角なく視線を走らせていた。
きらびやかな大広間の片隅で、紫燕の鋭い眼光が、目当ての人物をとらえた。
周囲の役人たちをはべらせ、どこか困ったように微笑んでいる少女――曜朝の宰相令嬢、麗華である。
麗華は淡い桃色と白の絹を幾重にも重ねた、可憐な襦裙に身を包んでいる。胸元が高く結ばれた帯からは、細くしなやかな紗の披帛が左右に長く伸び、風が吹くたびに天女の羽衣のようにふわりと宙に舞うような装いだ。
「お久しぶりです、麗華殿。前回の予備交渉の折には大変お世話になりました」
紫燕が歩み寄ると、麗華はおっとりと目を細めた。
「まあ、陸紫燕様。また都でお会いできて光栄ですわ。今日はお父様は不在ですの。申し訳ございません」
「こちらこそ。……その後、お小遣い帳は付けられるようになられましたか?」
「あら、まだできませんの。本当にお恥ずかしい限りで……。あ、そうですわ、陸紫燕様。前回のパーティーでお話しした、先人の経済書をお持ちしましたの。都での退屈しのぎに、どうぞお読みになって?」
麗華の侍女がおずおずと差し出してきたのは、一冊の古びた書物であった。
周囲の役人たちは、そのやり取りを見てクスクスと声を潜めて笑った。
宮廷で『おっとり姫』と揶揄される、政治に疎く不器用な深窓の令嬢。
塩の値上げで国境が血の海に染まりかけているというのに、場違いな古書を持って他国の男に媚びを売っている――周囲の監視の目が、嘲笑とともにわずかに緩む。
だが、紫燕だけは騙されない。
前回の天香閣で見せた彼女の天才的な計算能力、そして何より、数字の裏を見抜くあの一瞬の鋭い眼光を、紫燕の記憶ははっきりと捉えていた。
古書を受け取った紫燕の指先が、ページの間に隠された別の「厚み」を鋭く察知する。
それは、曜朝を内側から食い荒らしている、特権商人と汚職役人たちの隠された横流しデータ(裏帳簿)の塊であった。
「恐れ入ります、令嬢。――今夜、一文字も漏らさず拝読いたします」
「まあ、嬉しいですわ。あ、そうですわ陸様……この先人の経済書、実は少し古いもので、紙に湿気が残っているかもしれませんの。……そう、むかし読んだ詩のように、『炭火の熱を当てねば、真意は決して見えてこない』ような、気難しい本ですのよ。……あ、それから、道中のお供にこのお菓子もお持ちになって?」
そう言って麗華は、可愛らしい紙で包まれた茶菓子を一つ、そっと紫燕の手元へ添えた。
「――なるほど。しっかりと温めて拝読いたしましょう。お菓子もありがたく頂戴いたします」
紫燕の言葉に、令嬢はどこまでも無垢な、おっとりとした微笑みを返した。
天下を欺く『おっとり姫』と、その仮面の裏を見抜く『若き軍師』。
誰にも知られることのない二人の天才の密かな「共犯関係」が、華やかな夜宴の片隅で、静かに幕を開けた。




