月下の蜘蛛と可憐な蝶 4/4
だからこそ、真実は瞬く間に、美しい「嘘」へと塗り替えられる。
「――まあ! 私の、大切な髪飾りが……!」
大広間に、先ほど退席したはずの麗華の悲痛な叫び声が響き渡った。
賓客たちの視線が再び集まる中、麗華は胸元を押さえ、涙を浮かべて父親の元へと駆け寄る。
その手には、真珠のあしらわれた見事な髪飾りが握られていた――いや、正しくは「取り戻された」ように見せかけて。
「お父様、大変ですわ……。広場のお庭で風に当たっておりましたら、見知らぬ男にこの髪飾りを引ったくられそうになりまして……。驚いて声を上げましたら、駆けつけてくださった衛兵の方々が、すぐに広場でその男を取り押さえてくださったのです」
麗華は恐怖に小刻みに肩を震わせながら、しどろもどろに事の顛末を語った。
周囲の貴族たちは
「なんと卑劣なコソ泥だ」
「令嬢がお怪我をされなくて本当に良かった」
と口々に囁き合う。
これこそが、麗華の仕掛けた狂言だった。
国家を揺るがす諜報スパイ戦は、一瞬にして「高価な宝飾品を狙った、間抜けなコソ泥事件」へとすり替えられたのだ。広場で取り押さえられた囮の男は、スパイとしてではなく、単なる窃盗未遂犯としてこの国の法で静かに処理されることになる。
「……李大使、本当に申し訳ありません」
麗華は、いつの間にか大広間に戻っていた李公爵の方へと向き直った。その表情には、未だ恐怖の余韻を残したような「おっとりとした令嬢」の笑みが張り付いている。
「我が国の警備の不手際で、大切なおもてなしの席をお騒がせしてしまいましたわ。どうか、お許しくださいませ……」
その言葉を聞いた瞬間、李公爵の口元がわずかに引きつった。
彼は会議室から戻る道すがら、広場で自らの囮が捕らえられたという最悪の報せを耳にしていた。万事休す――そう覚悟して大広間に戻った彼を待っていたのは、すべてを丸く収めるための完璧な「逃げ道」だった。
(……やられた)
李公爵は、目の前で殊勝に頭を下げている麗華を凝視した。彼女がただの無害な置物などではないこと、自分を嵌めた暗香衛の糸を引く黒幕がこの可憐な少女その人であること、そして――自分が会議室で必死に記憶したあの地図すらも、すべて罠(偽物)であったことに、彼は気づかされたのだ。
捕らえられ公式にスパイ犯として処刑されれば、本国での李公爵の立場はない。それをコソ泥として処理して、自らの面子を守ってくれたのだ。
李公爵は思わず奥歯を噛み締めた。目の前の出来事は、抗うことのできない「巨大な貸し」を背負わされたに等しい、静かな警告だった。
李公爵は深く息を吐き出すと、大人の余裕を張り付かせた完璧な外交官の微笑みを顔に貼りつけた。
「滅相もない、麗華お嬢様。お美しい髪飾りが無事で何よりでございました。我が国の者が広間で騒ぎを大きくしてしまったことも、どうかご容赦いただきたい」
「まあ、ありがとうございます。李大使は本当に、お優しい方ですこと」
麗華は何もかも見抜いた鋭い瞳を長い睫毛の奥に隠し、少女のように無邪気に微笑んだ。大きな政治的借りを作らされた若き大使。狐と狸の化かし合いは、ここで一旦の幕を下ろした。
◇
数日後。西嶺使節団が帰国する日、帝宮の前庭には旅立ちの準備を整えた馬車が並んでいた。
お見送りに集まった貴族たちの中に、父親の傍らに佇む麗華の姿があった。麗華は恭しく礼を執ると、手に持っていた美しい漆塗りの文箱を李公爵へと差し出した。
「李大使、お別れにあたり、我が国からのささやかな贈り物でございます。この絵図には、我が国の川の流れる、水に恵まれた土地を描かせました。……存外、旅の道連れにもなるやもしれませんわね。どうか、道中のお供にお納めくださいませ。」
「……これはご丁寧に。ありがたく頂戴いたします、麗華お嬢様」
李公爵は柔らかな笑みを浮かべて文箱を受け取った。
その指先が触れ合った一瞬、二人の間で視線が交差する。麗華の瞳には、かつての大広間で見せたようなおっとりとした気配はなく、深遠で冷徹な光が静かに宿っていた。
西嶺使節団の馬車が走り出し、城門をくぐる。
揺れる馬車の中で、李公爵は手渡された文箱を開け、中から一巻の羊皮紙を取り出した。そこに描かれていたのは、一見するとただの風景画のようでありながら、詳細な地理が記された地図であった。
軍事境界線や要塞の配置といった戦略情報はことごとく偽りであったが――物資を運ぶための『川の水量や流通ルート』だけは、正確極まる本物の情報が記されていた。
(……くくっ、一本取られたな)
李公爵は思わず手元を眺め、ふっと不敵に笑った。
もし軍事侵略を目論む自国の主戦派に「手ぶらで帰国」すれば立場を失う。
しかし、この地図があれば「軍事攻略は不可能だが、この川のルートを使った交易こそが自国に莫大な利益をもたらす」として、主戦派をねじ伏せる完璧な言い訳(手土産)になるのだ。
(軍事機密は渡さないが、交易の道なら開いてやる……か。あのおっとりとした毒蛇め、最初からここまで計算していたとはな)
西へ向かう馬車の中で、李公爵は心底愉快そうに、けれど敗北を認めるように苦笑した。
(――天香閣の、偽り姫か。完全に化かされたな)
同じ頃、自邸の庭でおっとりと刺繍を楽しむ麗華の元に、監視役の同僚から
「大使の馬車、国境を越えました。任務完了です」
と通信が入る。
麗華は優雅にお茶を啜りながら、
「手強いお相手でしたわね。……さて、次のお仕事は?」
と呟き、いつもの静かな令嬢の日常に戻っていくのだった。
数日後、曜朝、西嶺両国の間で
「国境沿いの新たな交易ルート開拓と、冷害対策の技術支援」に関する正式な国家協定が結ばれた。




