夜霧の毒蛇と可憐な蝶 3/3
翡翠宮での潜入から数日後。
両国に漂う一触即発の緊張感は、かつてない密度で、天香閣に満ちていた。本来ならば、美しく整えられた庭園を見下ろし、風光明媚な景色を楽しむための金碧輝煌――な大広間。
しかし、いまやそこは黎国と曜朝、双方の国の命運を賭けた水利に関する予備交渉の場が戦場と化していた。
長机を挟んで冷酷に対峙するのは、黎国の予備交渉担当官・陸紫燕と、曜朝の全権を握る宰相――すなわち、麗華の父親であった。
「我が国は一歩も譲らん! これ以上の放水は堰堤の決壊を招き、黎国の民を濁流に沈めることになる!」
紫燕が机を叩き、毅然とした態度で言い放つ。その目は、祖国を守るという悲壮な正義に燃えていた。実は彼は、数日前に滞在先の宿舎で「偶然」発見したあの奇妙な予言書の通りに本国の部下へ極秘の伝令を飛ばし、東の荒れ地に古い遊水池の遺構が存在することまでは突き止めていた。しかし、本当に下流を救うだけの正確な水量が、自国の安全を脅かすことなく流せるのか、その「確信となる確かな数値」が持てずに最後の防衛線を張っていたのだ。
「ならば我が国は干殺しになれと言うのか!」
対する宰相も、ひび割れた大地の絶望を背負い、激昂して応じる。
「容量に余裕があるにもかかわらず水を独占する行為は、我が曜朝への明白な宣戦布告とみなすぞ!」
血気盛んな双方の将兵たちが互いの剣の柄に手をかけ、いつでも血の雨が降るかのような睨み合いが続く。
誰もが相手の「悪意」を確信し、恐怖から防衛のために過激化していく。決裂すれば、即座に全面戦争の幕が上がる――。
そんな緊迫の極限状態の中、父親の後ろに大人しく控えていた麗華は、一人だけ完全に場違いな、おっとりとした空気をまとっていた。普段の彼女は、不器用で無害な令嬢だ。その完璧な仮面を被ったまま、彼女は静かに機を待っていた。
「まあまあ、皆様、お熱くならずに。冷たいお茶でもいかがですか?」
麗華はふんわりとした足取りで歩み寄ると、まず紫燕の前に、続いて父の前に、それぞれ冷えた茶器を置いていく。その際、長袖の奥から、あらかじめ用意していた一枚の紙を、ごく自然な手つきで滑り込ませた。それは、紫燕が持つ書類と、父の持つ書類のちょうど中間の位置。まるで最初からそこにあったかのように、すっと紛れ込まされた「整理済みの折衷案(データ解説付き)」の紙であった。
「……? これは……何だ」
紫燕が不審そうにその紙へ目を落とした。同時に、宰相も手元の書類に視線を走らせる。二人がそれを読み進めるにつれ、天香閣を支配していた殺気は、急速に深い困惑と驚愕へと塗り替えられていった。
そこには、両国がこれまで決して共有し得なかった「本音の数字」が完璧に並べられていた。麗華が算盤を弾き、緻密に導き出したあの絶対的な計算式。
予言書が示していた東側の遊水池へ水を迂回させることで、黎国の堤防にかかる水圧を安全圏に保ちつつ、下流の曜朝へ向けて毎月きっかり『3万石』の水を安定して流し続けることが可能なのだと、精密なデータがすべてを証明していた。
「……これなら、我が国の安全を保ったまま、下流を潤せる」
紫燕の喉から、掠れた声が漏れた。数字は嘘をつかない。これまでの強硬な態度が、ただの「決壊への恐怖」であったことを、この書類は優しく包み込むように証明していた。
「黎国も、我々を滅ぼす気はなかったのか……!」
宰相もまた、書類の解説に目を奪われ、愕然と呟いた。相手は悪意で水を止めていたのではない。ただ、自国を守るために必死だったのだ。互いの胸に巣食っていた「恐怖」という名の怪物が、完璧なデータによって綺麗に消し去られていく。
誤解が解ければ、彼らは戦う理由を失う。交渉はそれまでの怒号が嘘のように、一気に建設的な妥協点へと向かい始めた。誰もが胸を撫で下ろし、和平の道筋を語り合う中、麗華は静かに部屋の隅へと下がり、満足そうに目を細めていた。
天香閣の張り詰めた空気は、一転して融和の熱気を帯びていた。予備交渉は無事に妥結へと至り、両国の歴史的な妥協を証明する予備調印書が交わされた。血気盛んだった将兵たちの顔からも険しさが消え、誰もが最悪の戦争を回避できた安堵に胸を撫で下ろしている。
予備調印を終え、天香閣の前に両国の豪奢な馬車が並ぶ。
麗華が曜朝の宰相邸へと戻る自邸の馬車に乗り込もうとした、まさにその時だった。「――麗華殿」背後から、低く硬質な声が彼女を呼び止めた。振り返ると、そこには複雑な光を瞳に宿した黎国の予備交渉担当官、陸紫燕が立っていた。
その手には、先ほど彼女が交渉の席へ鮮やかに滑り込ませた「折衷案」の写しが握られている。紫燕は周囲の警戒を怠らない鋭い視線のまま、一歩、麗華との距離を詰めた。そして、彼女の美しい顔をじっと見つめながら、静かに問いかけた。
「不躾な質問をお許しください。……先ほど、あの切迫した場に紛れ込んでいたこの書類ですが。ここに書かれた複雑な数式の筆跡……急いで書き殴ったせいか、特定の曲線や直線の引き方に、奇妙な『歪みの癖』がありましてね」
予備交渉担当官としての、そして武人としての鋭い洞察力が、彼女という存在の核心を射抜こうとしていた。
「我が宿舎に届いた、あの奇妙な予言書。それを包んでいた古い布地には、あなたの手による刺繍が施されていました。あなたの身の回りの者は、あれを『下手くそな刺繍だ』と笑うかもしれない。……だが、下手に見せかけるために、わざと不自然に線を歪ませて縫う、あの独特な針目の癖。この書類に書かれた複雑な数式の線の引き方と……あまりにも酷似しているのですが」
紫燕は、目の前の一見無垢な少女が仕掛けた「欺瞞の記号」の正体に、気づきかけていた。しかし、麗華は慌てる風もなく、ただほんの少しだけ小首を傾げてみせた。長い睫毛がゆったりと揺れ、その瞳には何の邪気もない、どこまでも純粋な困惑の色彩が浮かび上がる。
「まあ。陸様、おかしなことをおっしゃいますのね?」
麗華は、ふんわりとした上質な絹糸のような、柔らかい微笑みを口元に湛えた。
「私、数字の計算なんて、お小遣い帳もつけられないくらい苦手ですのよ? 針仕事もすぐに指を刺してしまいますし……。そんな難しい書類の数値のことも、予言のことも、私にはさっぱりわかりませんわ。陸様の思い違いではございませんこと?」
その声音には、一片の嘘も、動揺も混ざっていない。何一つ隠し事のない令嬢らしい無垢な笑み。
完璧に作り込まれた仮面は、紫燕の鋭い眼光をことごとく跳ね返していく。紫燕はなおも数秒、彼女の瞳の奥、その暗闇に潜む本性を探ろうとじっと凝視した。だが、そこにあるのは底の知れない優雅な静寂だけだった。
やがて彼は、降伏したかのようにふっと小さく息を吐き、礼儀正しく一礼した。
「……失礼いたしました。私の見間違いだったようです。道中、お気をつけて」
「ええ、ありがとうございます。陸様も、お健やかに」
麗華はもう一度淑やかに微笑むと、軽やかな身のこなしで馬車へと乗り込んだ。パタン、と重厚な木製の扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。窓の帳のわずかな隙間から、遠ざかっていく紫燕の佇まいを見送りながら、麗華は胸の奥で、ふう、と小さく一息漏らすのだった。
曜朝の宰相邸の離れには、いつも通りの穏やかで優しい時間が流れていた。窓辺から差し込む柔らかな昼下がりの光を浴びながら、麗華は優雅な手つきで白磁の器を持ち上げ、お茶を啜っていた。淹れたての茶葉の佳い香りが、静かな部屋に満ちていく。国を救った諜報機関員としての姿はどこへやら、そこには普段通りの平穏な令嬢の姿があった。お茶請けの甘い菓子を一つ、もぐもぐと口に運び、麗華は満足そうに微笑む。
「陸紫燕様……まさか、わざと下手に仕立てた刺繍の線から、筆跡の歪みに気づきかけるなんて。油断も隙もありませんわ」
あの鋭い視線と、自分を追い詰めようとした緊迫感を思い出し、麗華の瞳が一瞬だけ、夜の密偵のそれへとキラリと変化した。しかしそれはほんの一瞬のこと。完璧にパズルを解き明かした後のような、心地よい充足感が彼女を包み込んでいた。
トントン
部屋の扉が気配もなく、小さく叩かれた。麗華の影として従う部下が、音もなく部屋に入り、新たな命令書を机の上にそっと置く。そして影のように消え去った。
その新しい密書には、また別の場所、あるいは朝廷の闇で蠢く、新たな「世界の歪み」が記されているのだろう。
麗華はお茶を最後の一口までゆっくりと飲み干すと、その書類を滑らかな手つきで手に取った。
麗華は優雅にお茶を啜りながら、
「手強いお相手でしたわね。……さて、次のお仕事は?」
と呟き、いつもの静かな令嬢の日常に戻っていくのだった。




