夜霧の毒蛇と可憐な蝶 2/3
向かったのは、宮城のほど近くに広大な敷地を占める、曜朝の最高級国賓館『翡翠宮』であった。
そこは一国の威信をかけて築かれた、異国の大使や皇族のみを迎える、贅を尽くした平屋の宮殿建築群である。伝統的な院落様式に則り、一つの広大な敷地の中に、四方を建物で囲まれた大小様々な中庭型邸宅が、まるで美しい迷宮のように幾重にも連結していた。
昼間であれば、それぞれの庭園には曜朝が誇る造園技術の粋が凝らされ、西域から運ばれた奇岩怪石、年中枯れることのない霊泉、そして床には一歩ごとに沈み込むような極上の絨毯が敷き詰められた回廊が、各邸宅を蜘蛛の巣のように繋いでいる。
だが、夜の翡翠宮は、床の絨毯は回収されており、華やかさの裏に底知れぬ冷徹さを隠し持っていた。
平屋ゆえに、どこからでも侵入を許しそうに見えるが、その防備は極められており、各庭園を隔てる白壁の波打つ瓦の上、そして回廊の随所には、長明灯の炎がこうこうと燃え盛り、庭の木々の影すらも鋭く照らし出していた。
さらに、庭と庭を繋ぐ円形の月亮門の見張りは厳重そのものである。曜朝の近衛兵たちが、規則正しい足音を響かせて回廊を巡回していた。彼らが身につけているのは、磨き抜かれた明光鎧。松明の炎がその胸当てに反射し、ひたひたと揺れる庭園の池の水面を、刃のように冷たく切り裂いている。
(ふぅぅー。一歩間違えれば、曜朝が黎国の使節を襲撃したとみなされ、開戦の引鉄になるわ……)
麗華は、夜露に濡れた竹林の葉の擦れ合う音に身を隠し、黎国、陸紫燕が滞在する最奥の邸宅・青燕軒の中庭に潜んでいた。
建物の窓は、美しい透かし彫りの木格子で閉じられている。麗華はその格子の隙間に、極細の竹管を音もなく差し込んだ。床のすぐ向こう、わずか数歩の距離からは、黎国の最高軍事機密を握る男の気配が伝わってくる。
室内は、紫燕の質実剛健な好みを反映して、華美な装飾はすべて取り払われていた。机の上に置かれているのは、黎国特産の重厚な端渓の硯と、彼が本国から持参した、堰堤の設計思想が細かく書き込まれた分厚い計画書。
室内には、曜朝が用意した華やかな香ではなく、黎国の高山に自生する針葉樹から採れる、どこか冷たく引き締まった松葉の香が静かに漂っていた。張り詰めた神経を象徴するような、鋭い香りだ。
麗華は、その香を塗り替えるように、懐から濃度を極限まで高めた眠り香の筒を取り出し、音もなく、静かに、白煙を室内へと滑り込ませていく。甘く、意識の糸を一瞬で断ち切る容赦のない煙が、冷たい室内の空気と混ざり合い、静かに床を這うように広がっていく。
机の前で、静かに筆を走らせていた陸紫燕の動きが、ぴたりと止まった。彼が持つ筆が手元から滑り落ち、卓上でコトリと小さな音を立てる。
続いて、大柄な体躯が、重い衣服の擦れる音を伴って執務机へと突っ伏した。
完全な静寂が、再び部屋を支配する。麗華は格子の鍵を内側から音もなく外し、まるで一枚の薄衣が滑り込むように、窓から室内の床へと舞い降りた。
月明かりが庭園の池から反射し、窓の格子を通して、彼女の冷徹な知略に満ちた横顔と、机の上のデータを一文字も漏らさず凝視する、鋭い瞳を白く浮かび上がらせていた。
窓の外では、夜の闇が徐々に白み始めていた。東の空が薄紫色のグラデーションに染まりゆく中、曜朝の宰相邸の離れには、まだこうこうと蝋燭の火が灯っている。
「うー……」
麗華は小さく呟くと、手元のお湯呑みにそっと口をつけた。淹れたての番茶から立ち上る湯気が、潜入調査を終えて少し冷えた彼女の頬を温める。おっとりとした手つきで甘い茶菓子をつまみ、もぐもぐと口を動かしながら、彼女の視線は机の上に広げられた二つの書類へと戻された。
その様子は、まるでお気に入りの木版画でも眺めているかのように穏やかだ。しかし、彼女の目の前にあるのは、一歩間違えれば数万の軍勢が激突し、大流血の惨事を引き起こす両国の「軍事機密」そのものであった。右手には、父の寝所から持ち出した曜朝の『下流の年間最低必要水量のシミュレーション』。左手には、高級宿舎・翡翠宮に滞在する陸紫燕の部屋から命懸けで模写してきた、黎国の『過去百年の降雨データ』と『堰堤の限界貯水量』の計画書。
「なるほど……。お互いに、全く逆の勘違いをしていますわね」
麗華は算盤をパチパチと小気味よい音で弾きながら、お茶をもう一口すする。判明した真実は、あまりにも皮肉なものだった。上流の黎国は
「これ以上少しでも放水すれば、上流の堤防が水圧に耐えきれずに決壊し、自国が再び大洪水に呑まれる」
という恐怖に震えていた。だからこそ、頑なに門を閉ざしていたのだ。対して下流の曜朝は
「黎国の堰堤にはまだ十分に水を貯める余裕がある。それなのに放水しないのは、我が国を干殺しにするための悪意だ」
と激昂していた。黎国は自国を守るための限界だと怯え、曜朝は相手にまだ余裕があると思い込んで憎悪を募らせている。武器ではなく、この「恐怖のすれ違い」こそが、両国を血の海へ引きずり込もうとしている元凶だった。
「噛み合わないパズル……。でも、ここをこうすれば……」
麗華は、父の書斎の片隅で一瞬だけ目にした『百年前の治水記録』を思い出し、現在の地形図と照合した。
当時は誰も気にとめなかった「古い遊水池」の記載。現在の地図では「使い道のない不毛の荒れ地」として放置されている、黎国の堰堤の東側にある枯れた谷。
猛烈な速度で数式を組み立て直すと、完璧な「第3の答え」が導き出された。
「この枯れた遊水池に一部の水を逃がせば、上流の村を水没させずに、下流へ毎月数万石の命の水を流せる。双方の安全が両立するわ」
素晴らしいパズル。これなら、誰も死なさずに済む。方針が決まると、麗華はすり鉢で細かくすり潰した薬草の汁を取り出した。これを墨に混ぜて文字を書けば、数日後には完全に色が消えてただの白紙に戻る、暗香衛特製の「消滅墨」である。上官からの命令は「堤防の設計思想を盗み出せ」というものだった。彼女はその任務を完璧にこなしつつも、自分の描いた平和への筋書き通りに幹部を動かすため、報告書にこう綴った。
『――陸紫燕より奪取せし黎国の堰堤計画書、および降雨データをここに記す。
判明せしは、両国の致命的なる誤認なり。黎国は悪意にて水を留むるにあらず、堰堤の決壊を恐るるのみ。
我が国の予測する「黎国の貯水余力」は、地盤の強度計算を欠いた机上の空論に過ぎず。
このまま兵を動かし力ずくで開門を迫れば、堤防は自壊し、その濁流は下流の我が国をも一瞬で呑み込まん。
唯一の活路は、堰堤の東側に眠る「百年前の枯谷(遊水池)」にあり。此処へ水を迂回させれば、黎国の安全を保ちつつ、我が国へ毎月〇〇石の水を流すこと可能なり。
なお、本計略を曜朝の要求として突きつければ、猜疑心の強い黎国は必ず拒絶せん。
故に、此度のデータに基づき、此方が偽造せし「古い予言書」を陸紫燕に掴ませ、黎国自らの手で東の谷を開放するよう誘導す。
天香閣での予備交渉の席までに、舞台を整える所存なり――』
麗華は筆を置くと、ふーっと息を吹きかけて密書の墨を乾かした。これを暗香衛の連絡員に渡せば、上層部はこの圧倒的なデータ量と完璧な筋書きに、ただ従うしかなくなる。
「人間のプライドって、本当に面倒くさいですね。……さて、次は陸様への仕掛けですわね」
麗華はいたずらっぽく微笑むと、あえてゴワゴワに古びさせた羊皮紙を取り出した。先ほどの科学的シミュレーションを、数百年前に失われたはずの「古い予言書」の断片へと偽装していく。わざと古風な文体で、枯谷を開けば上流も下流も救われるという暗号を仕込む。仕上げに蝋燭の煤を薄く擦りつけ、端を火で炙って焦げ目をつける。
さらに彼女は、その偽の予言書を包むための古い布を取り出し、あえて「下手の横好き」を装った、歪んだ線の刺繍を施していった。普段、侍女たちから下手くそだとため息をつかれている、あの独特な不器用な針目。しかしそれこそが、彼女が意図して作り上げている欺瞞の記号だった。
「よし、これで完成です。あとは、この『予言書』を、あの生真面目そうな陸紫燕様の元へ『偶然』届くように手配するだけですね」
すべてを仕込み終えたとき、窓外からは完全な朝の光が差し込み、彼女の美しい横顔を白く照らし出していた。




