月下の蜘蛛と可憐な蝶 3/4
麗華は小さく息を吐くと、胸元を押さえて少し顔を青ざめさせた。
「皆様、申し訳ありません……。少し、熱気に当てられてしまったようで。お庭の風を引いてまいります」
「まあ、大丈夫ですか? お供をつけましょうか」
と心配する声を、「すぐ戻りますから」と、はにかむような笑みで制する。おぼつかない足取りで大広間から外へと這い出した麗華は、夜の帳が降りた回廊へと一歩足を踏み入れていた。
麗華が気まずさに耐えかねたように席を外してから、しばらくの時が流れた。
李公爵は、手元に残された情報を頭の中で整理しながら、不敵な笑みを深くした。宰相の娘はただの無害な置物。
宰相自身も娘の不手際に動転し、これ以上の鋭い追及を警戒して防衛姿勢に入っている。
夜会の会場全体が、どこか弛緩した空気に包まれ始めていた。
(好機だ。仕掛けるとしよう)
李公爵は、大広間の反対側に控えていた自らの副官へと、目立たぬよう視線で合図を送った。直後、会場の端で派手な衝突音が響き渡る。
「おい! 何をする!」
「申し訳ございません! 決してわざとでは……!」
李公爵の部下である随行員の一人が、給仕と激しくぶつかり、高価な酒瓶と料理を床にぶちまけたのだ。
部下はわざと大きな声を張り上げ、周囲の注目を集めるように大袈裟に平謝りを繰り返している。名門貴族たちの視線が一斉にその騒動へと向かい、近衛兵たちも事態を収拾すべく、足早に現場へと駆けつけていく。
これこそが、李公爵の狙いだった。
目立つ囮を動かして周囲の視線と意識を一箇所に釘付けにする。人間の心理の隙を突いた、鮮やかな陽動トリック。
衆人環視の夜会で、あえて全権大使である「自分自身」が動くなど、誰も予想しない。
李公爵は騒動に眉をひそめるふりをしながら、音もなく人の群れから抜け出した。彼の目的は、この大広間の奥にある会議室――そこに飾られている、この国の詳細な防衛線が記された『国境地図』をその目に焼き付けることだった。
(誰もが私の一挙手一投足に注目していると思い込んでいる。だが、強烈な刺激が他所で起きれば、人間の認知など容易く歪む)
完璧な計算のもと、李公爵は暗い回廊を滑るように進み、目的の会議室へと近づいていく。自らの勝利を確信し、その口元には冷酷な笑みが浮かんでいた。
ここで天香閣の書庫で侵入事件が発生する。李公爵の放った陽動の囮だ。
大広間の喧騒を離れ、暗い回廊へと足を踏み入れた瞬間、麗華の気配が変わる。
遠く書庫の方角からかすかな騒ぎの気配——李公爵が放った陽動だ。
(足音がプロにしてはわずかに残りすぎているわね。それに、軍務省の機密書庫ではなく、ただの書庫を狙うなんて……)
相手はあの傑物・李公爵。本気で奪うなら兵糧や配置転換の機密を狙うはず。
それをしないということは、あちらはただの目眩まし。本命である李公爵自身をフリーにし、会談室に一時保管されている「国境地図」へ向かわせるための罠だと、麗華は瞬時に見抜いていた。
ちなみに「国境地図」は、皇帝が夜会の直前に若き大使に「我が国の至宝」として自慢げに披露した代物であった。
そのまま会場の奥にある会談室に一時保管されている。書庫には重要機密など保管されていない。
夜会が終われば地図はすぐに厳重な宮廷の地下宝物庫へ戻されてしまうため、大使が地図に触れられるチャンスは今夜の夜会の最中のみであった。
李公爵が静まり返った会議室の扉を押し開けたとき、部屋の中は月明かりだけが差し込む静寂に包まれていた。
(完璧だ)
彼は内心で自賛した。広場での騒動はまだ続いている。
自らが動かした囮が見事に機能し、この部屋の周囲の警備は手薄になっていた。彼は足音を完全に消し、目的の場所へと迷わず進む。壁に掛けられた、この国の命脈を握る「国境地図」の前へと辿り着いた。
李公爵は懐から小さな懐中電灯を取り出し、その微細な光を地図の防衛線の記述へと当てた。作物の収穫量、川の水量、そして関税。先ほど宰相から探りを入れた情報と、この地図に記された兵站基地の配置が見事に合致していく。
(やはり、私の読み通りだ。この国の防衛の要は、この東方の峡谷にある)
彼は満足げに口元を歪め、地図の詳細な地形と部隊の配置を、自らの超人的な記憶力に焼き付けていった。自分の完璧な心理トリックが、この大国を揺るがす決定的な機密を暴いたのだと、彼は確信していた。
しかし、李公爵は気づいていなかった。その地図の裏側に、極細の絹糸が仕込まれていたことに。
部屋の壁の陰、闇の中に気配を消して佇む麗華は、指先に伝わるかすかな糸の振動で、彼がまんまと偽の地図に喰らいついたことを確信していた。
(……ふふ、見事な記憶力ですこと)
闇の中で、麗華は音もなく唇を綻ばせた。
おっとりとした令嬢の気配は微塵もない。彼女はまるで獲物が罠にかかるのを待つ蜘蛛のように、冷徹な瞳で李公爵の頭上から彼を見下ろしていた。
李公爵が今、必死になって頭に焼き付けているその地図は、麗華が事前に潜入し、差し替えておいた「でたらめな偽の防衛線を描いた地図」であった。
書庫で起きた騒動は、瞬く間に収束へと向かっていた。
李公爵の放った囮である部下は、広場で立ち回っていたところを、すでに宰相直属の諜報組織・暗香衛の手によって音もなく取り押さえられていた。
麗華が読んだ通り、彼女たちの目を釘付けにするためだけの捨て駒だった。
だが、広場での小さな捕り物は、遠巻きに見ていた招待客たちの間で、すでにひそやかな噂となって広まり始めていた。悠長に構えている暇はない。かといって、暗香衛が彼を「西嶺のスパイ」として公に告発することも、決してできることではなかった。
大国同士の夜会でスパイが公式に捕らえられれば、それは国家の威信をかけた国際問題となり、最悪の場合、メンツをかけた凄惨な戦争の引き金になりかねないからだ。




