夜霧の毒蛇と可憐な蝶 1/3
あの濁流が、数万の命を、悲鳴ごと一瞬で呑み込んだ夜を忘れた者はいない。黎国が誇る巨大な堰堤の頂に立ち、宰相は押し寄せる雨雲を睨みつけていた。二度と、あの地獄を繰り返してはならない。それだけが、この国に生き残った者たちの執念だった。来るべき大雨に備え、命の盾たる堰堤に水を貯めよ――その至高の正義が、下流の国を飢えさせているなど、この時の黎国は知りもしなかった。いや、知る余裕など、誰の心にも残っていなかったのだ。
ひび割れた大地は、まるで干からびた死体の皮膚のようだった。曜朝の将軍は、かつて大河と呼ばれた泥の跡を見下ろし、拳を血がにじむほど強く握りしめた。川が死に、作物が死に、今また民が死のうとしている。原因はただ一つ、上流の黎国が水をせき止めたからだ。
「奴らは水を武器に、我が国を干殺しにする気だ」
怯えは怒りへと変わり、やがて軍を動かす大義名分へと化していく。彼らにとって、黎国の堰堤は防衛設備ではなく、喉元に突きつけられた冷たい刃そのものだった。
「麗華様、まあ……。そちらの曲線では、せっかくの美しい山水画が台無しになってしまいますわ」
穏やかな午後の陽光が差し込む伯爵邸の東屋で、令嬢たちの賑やかな声が響いていた。麗華の持つ筆の先――真っ白な宣紙の上には、本来なら優美な川の流れになるはずの、いささか不自然にカクカクと歪んだ墨の線が走っていた。
「ひゃあ……っ、ごめんなさい、私ったらまた手元が狂って……。どうしても、この細い筆を滑らかに動かすのが苦手ですの」
完璧な教育を受け、一分の隙もないはずの宰相の娘が、筆を持つと途端に手元が狂って線を歪ませてしまう――周囲の目には、そう映っていた。
麗華は慌てて手元の絹のハンカチで墨を吸い取ろうとして、危うく上質な硯までひっくり返しそうになる。
そこには侍女によって運ばれてきた歴代の天子も愛したという白茶の最高峰白毫銀針が配膳されている。まるで純水のように透明なその湯からは、高貴な蘭の香りがふわりと立ち上っている。周囲の令嬢たちが、その希少な銘茶を前に感嘆の溜息を漏らした、まさにその瞬間だった。
「ひゃあ……っ!」
ガタタンッ!と大きく椅子が引ける。
麗華の、絹のように滑らかな長袖の裾が、あろうことか運ばれてきたばかりの熱い茶器の縁に引っかかった。
令嬢たちの笑顔が、驚愕へと凍りついていく。宙を舞う白磁の器。放物線を描いてきらめく、透明な熱湯。麗華はといえば、目を丸くして、スローモーションの中で両手をパタパタと泳がせている。
ドンッ!ガシャン、と小気味よい音を立てて器が横転し、卓上に一気に熱いお茶が広がった。
「ご、ごめんなさい、私ったらまた……!」
麗華は顔を真っ赤に染め、慌てて手元の絹のハンカチで、広がる水溜りをペタペタと叩いた。しかし、そのおっとりとした動きのせいで、お茶はさらに隣の令嬢の敷物へと広がっていく。
「まあ、麗華様!? お危ないわ!」
「大変、すぐに布を!」
周囲の令嬢たちは一斉に立ち上がり、パニックに陥った。給仕の者たちが真っ青な顔で飛んできて、平伏せんばかりの勢いで卓を拭き始める。東屋の中は、一瞬にして蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。令嬢たちは、胸を撫で下ろしながら顔を見合わせ、クスクスと小さく笑った。
「まあ、相変わらず本当におっとりしていらっしゃるのね」
「完璧な作法を身につけていらっしゃるはずの宰相のお嬢様が、お茶を前にすると、まるで迷子の子猫のようになってしまうなんて」
誰もが、その愛らしいドジに目を細めていた。
「お恥ずかしい限りですわ……」
麗華は困ったように眉を下げ、ハンカチで顔を隠すように俯いた。顔を上げたときには、彼女は自分のドジに涙目を浮かべる無害な令嬢をいつものように演じているのだった。
侍女たちですら「お嬢様の刺繍は、どうしてこうも線が歪んで下手くそなのでしょう」と陰口を叩くほど、彼女は不器用で無害な、深窓の令嬢を完璧に演じきっていた。
深夜の宰相邸の離れ、遮光の垂れ幕が下ろされた一室にいる彼女の瞳に、昼間の生気のない「おっとり感」は微塵もなかった。
薄暗い部屋の片隅で、麗華は上官からの命令書を火鉢の火にくべた。瞬く間に灰へと変わる文字には、両国の運命を握る密命が記されていた。数日前、麗華の元に暗香衛の上官から届いたものだ。
赤く爆ぜる火床を見つめながら、麗華の天才的な頭脳は、すでに今夜の完璧な作戦を組み立てていた。上官からの命令は「黎国の予備交渉担当官・陸紫燕の懐から堤防の設計思想を盗み出せ」というもの。
しかし、敵の情報をいくら集めたところで、自国が描いている『水量のシミュレーション』がどれほどの規模なのかを正確に把握していなければ、両国のパワーバランスのズレを計算することはできない。
(黎国を動かすには、まず我が国の傲慢な正義の全貌を知らなくてはなりませんわ)
暗闇のなか、火鉢の光に照らされた彼女の口元に、昼間の令嬢からは想像もつかない不敵な笑みが浮かぶ。まずは自国の足元から固めるべく、麗華は自ら調合した甘く重たい「眠り香」の香炉を手に、静かに部屋を出た。向かうのは、曜朝の全権を握る宰相――実の父親の書斎であった。
「お父様、またそんなに根を詰めて……。私、お父様に長生きしていただかなくては困りますのよ? 今夜は心地よく眠れるように、いつものお香より、特別に良いお香を焚いて差し上げますね」
「……ああ、お前にはいつも心配をかけるな。国を揺るがす難題ばかりで頭が痛かったが、お前の香の香りを嗅ぐと、不思議と心が落ち着く。お前の言う通り、今夜は少しだけ早く休むとしよう。ありがとう、麗華」
国を背負う冷徹な政治家から、一人の優しい父親の顔に戻った父は、愛おしそうに目を細めて麗華の頭を撫でた。
そして、机の上の書類を丁寧に片付けると、促されるままに書斎の奥にある寝所へと足を運んだ。
麗華は影のようにその後ろに従い、寝所の枕元にある香炉へと近づく。おっとりとした手つきのまま、しかしその指先は、自ら調合した甘く重たい「眠り香」の粉末を躊躇なく火種へと落としていた。
「おやすみなさいませ、お父様。良い夢を」
帳を閉め、麗華は静かに枕元を離れる。ゆらりと立ち上る白煙が、またたく間に寝室の空気を満たしていく。数分と経たぬうちに、衣服が擦れる音とともに、寝台から深く重い寝息が聞こえ始めた。
父が完全に意識を失い、深い眠りに落ちたことを確認したその瞬間――麗華のおっとりとした猫のようだった瞳が、夜の闇を裂いて獲物を狙う鷹のように冷たく、鋭く研ぎ澄まされる。冷徹な諜報機関員の目となった彼女は、音もなく書斎へと引き返し、父の執務机の前へと歩み寄った。
狙うのは、曜朝側が算出した『下流の年間最低必要水量のシミュレーション』の巻物である。
引き出しの奥から目的の書状を見つけ出し、素早く机に広げる。息を潜め、一文字の狂いもなくその数値を羊皮紙へ模写していく。
その途中、ふと『百年前の治水記録』と題された古い紙片が目に留まった。
そこには、現在の地図には存在しない、誰も見たことのないであろう「遊水池」の記載があった。
「ん?不自然ね……まあいいわ、今は頭の片隅に叩き込んでおきましょう」
麗華はその不自然な文字列をただ記憶の引き出しへと放り込んで、自国のデータをすべて模写し、書斎での作業を終えて自分の部屋に戻った。
「これで自国のデータは揃いましたわ。……さて、お次は黎国側の『正義』を確かめに行くとしましょう」
麗華は、昼間の華美な衣装を脱ぎ捨て、動きやすい薄墨色の密行服に着替えていた。鏡の前で、いつもは緩く結ばれている長い髪を、一本の黒い紐で一分の隙もなく、迷いのない指の動きで結い上げる。




