↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天香閣の偽り姫  作者: 鑫鑫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/7

月下の蜘蛛と可憐な蝶

麗華(れいか)、また手元が狂ってしまいましたの?」


穏やかな午後の陽光が差し込む東屋で、気品ある声が響いた。

声をかけたのは、同席していた伯爵家の令嬢である。彼女の視線の先――麗華が持つ刺繍枠の上には、本来なら美しい牡丹の花びらになるはずの――いささか歪な赤い刺繍糸が這っていた。


「まあ……。お恥ずかしい限りですわ。私、どうしてもこの部分の繍針(しゅうしん)が苦手で」


鳳麗華(ほうれいか)は、困ったように眉を下げて微笑んだ。

曜朝(ようちょう)宰相(さいしょう)を父に持つ彼女は、社交界では「いささか抜けたところのある、無害で可憐な令嬢」として知られている。陰では「おっとり姫」と揶揄されることもあった。今日も仕立てのいい淡い桃色の衣を纏い、お茶をこぼしそうになっては侍女を慌てさせていたばかりだ。

同席する令嬢たちは「相変わらずね」と、微笑ましげに、あるいは少しの優越感を抱きながら視線を交わす。麗華はそれを、おっとりと微笑みながら見守るばかりだった。


「少し疲れてしまいましたわ。お先に失礼してもよろしいかしら?」


麗華はいつもの頼りない笑みを顔に貼り付け、令嬢たちに頭を下げた。


昼間の彼女の歩く姿は風に揺れる柳のようで、お茶をこぼしては「あら、困りましたわ」と微笑むような、無害そのものの箱入り娘である。しかし、深夜の宰相邸の離れ、遮光の垂れ幕が下ろされた一室にいる彼女の瞳に、昼間の生気のない「おっとり感」は微塵もなかった。


月明かりが、静かな庭園の竹林を白く照らしている。

麗華は、昼間の華美な衣装を脱ぎ捨て、動きやすい薄墨色の密行服に着替えていた。

鏡の前で、いつもは緩く結ばれている長い髪を、一本の黒い紐で一分の隙もなく、迷いのない指の動きで結い上げる。その瞬間、彼女の纏う空気が完全に変わった。猫のようだった瞳が、獲物を狙う鷹のように冷たく、鋭く研ぎ澄まされる。

部屋の隅、影が不自然に伸びたかと思うと、音もなく国の諜報機関「暗香衛(あんえいこう)」を率いるトップが現れた。

彼は卓の上に命令書を無造作に置いた。

悪意も、私欲もない。ただ国益のために影として動く。その密命が、今、下されているのだ。


「昼の『お遊び』は順調のようだな、麗華様」


「ええ。みな私をただ美しいだけの、頭の空っぽな娘だと思い込んでくれていますの。……おかげで、どこへ行っても誰も耳目を警戒しませんわ」


彼女の声は、昼間の間伸びした甘い声とは似ても似つかない、低く、淀みのない冷徹な響きだった。麗華は命令書を受け取った。


「三日後の歓迎夜会。隣国から来る若き全権大使、李公爵が今回の標的だ。彼は我が国の軍事機密『国境地図』の奪取を狙っている」


麗華は、書状に目を走らせながら問いかけた。


「李公爵……。若くして全権を握る男ですね。汚い手を使う悪党ではなく、自国の防衛のために理詰めで動く、最も厄介なタイプの傑物かしら?」


「その通りだ。彼は夜会の華やかさに紛れ、合法的な手段、あるいは完璧な計画で地図を外へ持ち出す算段だ。貴女の任務は、その流出を未然に阻止することだ」


「わかりましたわ。私は嘘などつきませんのよ……彼を前にしたら、心から『世間知らずで、おっとりした、彼に圧倒されるだけの哀れな令嬢』を、本気で演じきってみせますから。彼が私の無害さに安心したその瞬間が、彼の計画の終わりです」


言い終えると同時に、彼女は再びいつものおっとりした微笑みの「表情」の作り方を、鏡の前で確認した。まばたきを一つする間に目の前の鋭さは消え、どこか焦点の緩んだ、いつものお嬢様の顔に戻っていく。



三日後ーー


視界のすべてが溶解した黄金と圧倒的な絢爛に呑み込まれる。

金碧輝煌(きんぺききこう)――。

ここは帝宮が隠された神域、天香閣の大広間。

世界の富と美の粋をすべて濃縮して塗りたくったかのような、暴力的なまでの光芒が空間を支配している。天上の穹窿(きゅうりゅう)からは無限の星屑をも凌駕する豪奢な黄金灯籠が幾重にも吊るされ、そこから放たれる狂おしいほどの閃光が、幻惑的な虹彩を放つ極上の絹衣を纏った、世の理を超越した名門貴族たちの群れを、神々しく、かつ妖しく灼きつけていた。


談笑する彼らの隙間で、麗華は父親である宰相の背に隠れるようにして、静かに佇んでいた。

今日の麗華の役割は、「世間知らずで、おっとりとした置物」だ。


「隣国の若き大使、李公爵の御入場!」


内官の朗々とした声が響き渡り、大広間の喧騒がぴたりと止む。開かれた重厚な扉から姿を現したのは、若き大使、李公爵だった。仕立ての良い漆黒の古装に身を包み、堂々とした歩調でこちらへと歩を進めてくる。その一挙手一投足には、若くして大国を代表する全権を任された者特有の、揺るぎない自信と威厳が満ちていた。


「宰相閣下、お久しぶりでございます。本日もお健やかそうで何よりだ」


「これは、これは、李大使。よくぞおいでくだされた。歓迎いたしますぞ」


宰相が鷹揚に笑い、形式美に満ちた挨拶を交わす。

互いに浮かべる笑みの裏で、どれほどの毒が飼われているか。諜報機関の構成員としての本能が、彼らの間に流れる冷徹な空気の小競り合いを敏感に察知していた。


「おや、そちらにいらっしゃるのは……?」


李公爵の切れ長の瞳が、宰相の背後にいる麗華へと向けられた。父親である宰相はわざとらしく声を弾ませ、麗華を促す。


「我が娘、麗華です。まだこういった華やかな場には慣れておりませぬが……本日は、大使のおもてなしをさせようと思いましてな」


父親の言葉に合わせるように、彼女はふわりとドレスの裾を揺らして微笑んだ。本人は立派に役目を果たそうと見守っているつもりなのだろうが、きょとんとした丸い瞳は完全に泳いでいる。


(さあ、私の舞台が始まるのよ)


麗華は胸の内でそう呟くと、わざと小さく息を呑み、怯えたように肩をすくめた。


「……っ。」


そして、彼と視線がぶつかった瞬間、困惑したように視線を泳がせる。大国の全権大使が放つ目に見えぬ覇気と鋭い眼光に気圧された――そんな「おっとり娘」の反応を、指先の震え一つにまで込めて完璧に演じきっていた。


「……麗華、と申します。李大使、ようこそおいでくださいました……」


消え入りそうな声で、おっとりと頭を下げる。

その瞬間、李公爵の瞳の奥で、冷徹な光が僅かに揺らめいた。(――なるほど、ただの無害な人形か)。その表情の変化だけで、彼の下した安易な結論を麗華ははっきりと読み取っていた。


李公爵は完璧に礼儀正しく、しかしどこか見下すような余裕を孕んだ微笑みを浮かべた。

彼の鋭い観察眼が、彼女の「完璧な演技」によって曇らされた瞬間だった。警戒心という名の強固な鎧から、まずは最初の一枚を剥ぎ取ることに成功したのだ。自分を見つめる彼の優しい微笑みの裏で、麗華は胸の中で静かに、冷酷な嘲笑を浮かべていた。


夜会の喧騒が一段と高まる中、麗華は李公爵の「おもてなし」の席に加わっていた。

若き大使は勧められた美酒を


「我が国では今、水すら貴重でして、このような美酒に溺れるわけにはまいりません」


と冗談めかして固辞する。

周囲は謙遜の冗談と笑って聞き流すが、麗華だけはその言葉と目が笑っていない表情や、杯を見つめる間が一瞬長いことに違和感を覚えていた。


その後、若き大使は杯を片手に柔らかな笑みを浮かべていた。その口から発せられる言葉は、一見するとただの世間話のようでいて、その実、この国の命脈を測るような鋭い問いばかりであった。


「いやはや、こちらの国の街道は実に見事だ。しかし、これほど立派な流通網があると、国境付近の交易の関税の仕組みも、さぞや複雑なのでしょうな?」


「ははは、それは我が国の財務官たちが日夜頭を悩ませている問題でしてな」


父親が巧みに煙に巻こうとするが、李公爵は逃がさない。


「さらに言えば、今年は南方の作物の実りも上々だと聞き及んでおります。それに伴い、内陸へ続く川の水量や治水状況も気になるところです。我が国との新たな交易路を開く上でも、非常に興味深い」


作物の収穫量、川の水量、そして関税。

それはすべて、この国がどれだけの兵糧を蓄え、どれほどの軍隊を動かせるかという、軍事侵攻のシミュレーションに直結する国家機密の情報だった。他国の探りを入れるスパイの本領を発揮し始めた李公爵に対し、麗華の父親も徐々に防戦一方となり、額に薄い汗を浮かべ始める。

(……この男、やはりそこを狙ってきたか)


麗華は、おっとりとした笑みを面に張り付かせたまま、胸中で冷徹に戦況を分析していた。李公爵の容赦のない追及により、会話の主導権が完全に相手へと渡りかけている。父親の失言を防ぎ、なおかつこの男の視線を「探り」から逸らさなければならない。麗華はわざとらしく小さく肩を揺らし、目の前の卓に置かれた自分の杯に手を伸ばした。


「おや、麗華お嬢様。会話を退屈させてしまいましたかな?」


李公爵がすかさずそれに気づき、手元に控えていた給仕から極上の葡萄酒(ワイン)が割り振られた瓶を奪うように受け取った。自ら麗華の杯へと、なみなみと赤い液体を注ごうとする。


「さあ、我が国の特産である美酒です。お近づきの印に、ぜひ」


「あ……」


麗華は差し出されたボトルの威圧感に怯えるように、杯を持つ手をわずかに震わせた。タプン、と音を立てて、杯の中で深紅の液体が大きく揺れる。


「あ、あの……わたくし、その……」


麗華は顔を真っ赤に染め、しどろもどろに言葉を探した。消え入りそうな声で、視線をあちこちへと泳がせる。


「あ、お酒は、その、あまり……嗜まなくて……。あの、せっかくの、お心遣い、なのに……っ」


完璧な社交界の淑女であれば、このような場でも優雅に辞退の言葉を述べるものだ。しかし、目の前の令嬢は大国の全権大使からの直々の勧めを断るという恐怖に、完全にパニックに陥っているように見えた。


「おや、これは失礼いたしました。お酒が苦手でいらしたか。」


李公爵はあからさまに失望したような、あるいは興を削がれたような笑みを浮かべて、ぴたりと注ぐのをやめた。その笑みには、「使えない娘だ」という侮蔑のニュアンスが滲んでいるように麗華には映った。


「……っ」


断られた大使の冷ややかな反応を正面から受けた麗華は、さらに萎縮したように、痛々しいほど深く目を伏せた。小さく丸められた背中は、自らの不手際を恥じ、恐れている無力な少女そのものだった。

だが、伏せられた長い睫毛の奥で、麗華の瞳は冷ややかに李公爵の足元を捉えていた。

(よし。これで会話の主導権はリセットされたわね)


気まずい沈黙が卓を包む。父親が慌てて


「申し訳ありません、李大使。娘は本当に世間慣れしておらず、いささかおっとり(マイペース)が過ぎまして……」


とフォローに入り、話題は国家機密から「麗華の不手際」へと完全にすり替わった。李公爵は目の前の「ドジで無害な令嬢」への興味を完全に失い、同時にこの場への警戒心をさらに緩めていた。彼女が仕掛けた完璧な罠の全貌に、未だ気づく由もないままに。


華やかな灯火が照らす大広間の片隅で、麗華は他家の令嬢たちに囲まれていた。身に纏った極上の絹衣は、彼女が動くたびに夜空の星を散りばめたように煌めく。しかし、その美しい容姿とは裏腹に、令嬢たちの間に流れる空気はどこか微笑ましく、また少しばかり弛緩していた。


「あら、麗華様、お召し物が……!」


「ひゃあ……っ、ごめんなさい、私ったらまた……」


麗華は慌てて手元の絹のハンカチで、卓の上をパタパタと叩いた。運ばれてきたばかりの温かいスープの器に袖を引っ掛け、危うくこぼしかけたのだ。給仕の者が慌てて卓を拭き、周囲の令嬢たちは


「まあ、相変わらずおっとりしていらっしゃるのね。」


と、顔を見合わせて小さく笑った。

さらに、勧められた珍しい銘茶を前にすると、麗華は


「これは、どちらから手をつければ……」


と、困ったように眉を下げてまごついてみせる。完璧な作法を身につけているはずの宰相の娘が、極度の緊張のせいでドジを踏んでいる――周囲の目には、そう映っていた。


「ふふ、相変わらず麗華様の周りだけ、優しい風が吹いているようですわね。」


「そうですわ。相変わらずおっとりされていて、見ているこちらまで和んでしまいますわ」


令嬢たちの一人が、庇護欲をそそられたように目を細める。その言葉を聞いた瞬間、麗華の垂れ下がった睫毛の奥で、冷徹な光が一瞬だけ明滅した。

すべては、完璧な「仕込み」だ。この場に居合わせた令嬢たち全員が、やがて麗華の強固な「アリバイ」の証言者となる。


頃合いは、今。


麗華は小さく息を吐くと、胸元を押さえて少し顔を青ざめさせた。


「皆様、申し訳ありません……。少し、熱気に当てられてしまったようで。お庭の風を引いてまいります」


「まあ、大丈夫ですか? お供をつけましょうか」


と心配する声を、「すぐ戻りますから」と、はにかむような笑みで制する。おぼつかない足取りで大広間から外へと這い出した麗華は、夜の帳が降りた回廊へと一歩足を踏み入れていた。


麗華が気まずさに耐えかねたように席を外してから、しばらくの時が流れた。


李公爵は、手元に残された情報を頭の中で整理しながら、不敵な笑みを深くした。宰相の娘はただの無害な置物。

宰相自身も娘の不手際に動転し、これ以上の鋭い追及を警戒して防衛姿勢に入っている。

夜会の会場全体が、どこか弛緩した空気に包まれ始めていた。

好機(チャンス)だ。仕掛けるとしよう)


李公爵は、大広間の反対側に控えていた自らの副官へと、目立たぬよう視線で合図を送った。直後、会場の端で派手な衝突音が響き渡る。


「おい! 何をする!」


「申し訳ございません! 決してわざとでは……!」


李公爵の部下である随行員の一人が、給仕と激しくぶつかり、高価な酒瓶と料理を床にぶちまけたのだ。

部下はわざと大きな声を張り上げ、周囲の注目を集めるように大袈裟に平謝りを繰り返している。名門貴族たちの視線が一斉にその騒動へと向かい、近衛兵たちも事態を収拾すべく、足早に現場へと駆けつけていく。


これこそが、李公爵の狙いだった。

目立つ囮を動かして周囲の視線と意識を一箇所に釘付けにする。人間の心理の隙を突いた、鮮やかな陽動トリック。

衆人環視の夜会で、あえて全権大使である「自分自身」が動くなど、誰も予想しない。

李公爵は騒動に眉をひそめるふりをしながら、音もなく人の群れから抜け出した。彼の目的は、この大広間の奥にある会議室――そこに飾られている、この国の詳細な防衛線が記された『国境地図』をその目に焼き付けることだった。

(誰もが私の一挙手一投足に注目していると思い込んでいる。だが、強烈な刺激が他所で起きれば、人間の認知など容易く歪む)


完璧な計算のもと、李公爵は暗い回廊を滑るように進み、目的の会議室へと近づいていく。自らの勝利を確信し、その口元には冷酷な笑みが浮かんでいた。



ここで天香閣の書庫で侵入事件が発生する。李公爵の放った陽動の囮だ。


大広間の喧騒を離れ、暗い回廊へと足を踏み入れた瞬間、麗華の気配が変わる。

遠く書庫の方角からかすかな騒ぎの気配——李公爵が放った陽動だ。

(足音がプロにしてはわずかに残りすぎているわね。それに、軍務省の機密書庫ではなく、ただの書庫を狙うなんて……)

相手はあの傑物・李公爵。本気で奪うなら兵糧や配置転換の機密を狙うはず。

それをしないということは、あちらはただの目眩まし。本命である李公爵自身をフリーにし、会談室に一時保管されている「国境地図」へ向かわせるための罠だと、麗華は瞬時に見抜いていた。


ちなみに「国境地図」は、皇帝が夜会の直前に若き大使に「我が国の至宝」として自慢げに披露した代物であった。

そのまま会場の奥にある会談室に一時保管されている。書庫には重要機密など保管されていない。

夜会が終われば地図はすぐに厳重な宮廷の地下宝物庫へ戻されてしまうため、大使が地図に触れられるチャンスは今夜の夜会の最中のみであった。


李公爵が静まり返った会議室の扉を押し開けたとき、部屋の中は月明かりだけが差し込む静寂に包まれていた。

(完璧だ)

彼は内心で自賛した。広場での騒動はまだ続いている。

自らが動かした囮が見事に機能し、この部屋の周囲の警備は手薄になっていた。彼は足音を完全に消し、目的の場所へと迷わず進む。壁に掛けられた、この国の命脈を握る「国境地図」の前へと辿り着いた。

李公爵は懐から小さな懐中電灯を取り出し、その微細な光を地図の防衛線の記述へと当てた。作物の収穫量、川の水量、そして関税。先ほど宰相から探りを入れた情報と、この地図に記された兵站基地の配置が見事に合致していく。

(やはり、私の読み通りだ。この国の防衛の要は、この東方の峡谷にある)


彼は満足げに口元を歪め、地図の詳細な地形と部隊の配置を、自らの超人的な記憶力に焼き付けていった。自分の完璧な心理トリックが、この大国を揺るがす決定的な機密を暴いたのだと、彼は確信していた。

しかし、李公爵は気づいていなかった。その地図の裏側に、極細の絹糸が仕込まれていたことに。

部屋の壁の陰、闇の中に気配を消して佇む麗華は、指先に伝わるかすかな糸の振動で、彼がまんまと偽の地図に喰らいついたことを確信していた。

(……ふふ、見事な記憶力ですこと)


闇の中で、麗華は音もなく唇を綻ばせた。

おっとりとした令嬢の気配は微塵もない。彼女はまるで獲物が罠にかかるのを待つ蜘蛛のように、冷徹な瞳で李公爵の頭上から彼を見下ろしていた。

李公爵が今、必死になって頭に焼き付けているその地図は、麗華が事前に潜入し、差し替えておいた「でたらめな偽の防衛線を描いた地図」であった。


書庫で起きた騒動は、瞬く間に収束へと向かっていた。

李公爵の放った囮である部下は、広場で立ち回っていたところを、すでに宰相直属の諜報組織・暗香衛の手によって音もなく取り押さえられていた。

麗華が読んだ通り、彼女たちの目を釘付けにするためだけの捨て駒だった。

だが、広場での小さな捕り物は、遠巻きに見ていた招待客たちの間で、すでにひそやかな噂となって広まり始めていた。悠長に構えている暇はない。かといって、暗香衛が彼を「隣国のスパイ」として公に告発することも、決してできることではなかった。


大国同士の夜会でスパイが公式に捕らえられれば、それは国家の威信をかけた国際問題となり、最悪の場合、メンツをかけた凄惨な戦争の引き金になりかねないからだ。


だからこそ、真実は瞬く間に、美しい「嘘」へと塗り替えられる。


「――まあ! 私の、大切な髪飾りが……!」


大広間に、先ほど退席したはずの麗華の悲痛な叫び声が響き渡った。

賓客たちの視線が再び集まる中、麗華は胸元を押さえ、涙を浮かべて父親の元へと駆け寄る。

その手には、真珠のあしらわれた見事な髪飾りが握られていた――いや、正しくは「取り戻された」ように見せかけて。


「お父様、大変ですわ……。広場のお庭で風に当たっておりましたら、見知らぬ男にこの髪飾りを引ったくられそうになりまして……。驚いて声を上げましたら、駆けつけてくださった衛兵の方々が、すぐに広場でその男を取り押さえてくださったのです」


麗華は恐怖に小刻みに肩を震わせながら、しどろもどろに事の顛末を語った。

周囲の貴族たちは


「なんと卑劣なコソ泥だ」


「令嬢がお怪我をされなくて本当に良かった」


と口々に囁き合う。

これこそが、麗華の仕掛けた狂言だった。

国家を揺るがす諜報スパイ戦は、一瞬にして「高価な宝飾品を狙った、間抜けなコソ泥事件」へとすり替えられたのだ。広場で取り押さえられた囮の男は、スパイとしてではなく、単なる窃盗未遂犯としてこの国の法で静かに処理されることになる。


「……李大使、本当に申し訳ありません」


麗華は、いつの間にか大広間に戻っていた李公爵の方へと向き直った。その表情には、未だ恐怖の余韻を残したような「おっとりとした令嬢」の笑みが張り付いている。


「我が国の警備の不手際で、大切なおもてなしの席をお騒がせしてしまいましたわ。どうか、お許しくださいませ……」


その言葉を聞いた瞬間、李公爵の口元がわずかに引きつった。

彼は会議室から戻る道すがら、広場で自らの囮が捕らえられたという最悪の報せを耳にしていた。万事休す――そう覚悟して大広間に戻った彼を待っていたのは、すべてを丸く収めるための完璧な「逃げ道」だった。

(……やられた)


李公爵は、目の前で殊勝に頭を下げている麗華を凝視した。彼女がただの無害な置物などではないこと、自分を嵌めた暗香衛の糸を引く黒幕がこの可憐な少女その人であること、そして――自分が会議室で必死に記憶したあの地図すらも、すべて罠(偽物)であったことに、彼は気づかされたのだ。


捕らえられ公式にスパイ犯として処刑されれば、本国での李公爵の立場はない。それをコソ泥として処理して、自らの面子を守ってくれたのだ。

李公爵は思わず奥歯を噛み締めた。目の前の出来事は、抗うことのできない「巨大な貸し」を背負わされたに等しい、静かな警告だった。

李公爵は深く息を吐き出すと、大人の余裕を張り付かせた完璧な外交官の微笑みを顔に貼りつけた。


「滅相もない、麗華お嬢様。お美しい髪飾りが無事で何よりでございました。我が国の者が広間で騒ぎを大きくしてしまったことも、どうかご容赦いただきたい」


「まあ、ありがとうございます。李大使は本当に、お優しい方ですこと」


麗華は何もかも見抜いた鋭い瞳を長い睫毛の奥に隠し、少女のように無邪気に微笑んだ。大きな政治的借りを作らされた若き大使。狐と狸の化かし合いは、ここで一旦の幕を下ろした。



数日後。使節団が帰国する日、帝宮の前庭には旅立ちの準備を整えた馬車が並んでいた。

お見送りに集まった貴族たちの中に、父親の傍らに佇む麗華の姿があった。麗華は恭しく礼を執ると、手に持っていた美しい漆塗りの文箱を李公爵へと差し出した。


「李大使、お別れにあたり、我が国からのささやかな贈り物でございます。この絵図には、我が国の川の流れる、水に恵まれた土地を描かせました。……存外、旅の道連れにもなるやもしれませんわね。どうか、道中のお供にお納めくださいませ。」


「……これはご丁寧に。ありがたく頂戴いたします、麗華お嬢様」


李公爵は柔らかな笑みを浮かべて文箱を受け取った。

その指先が触れ合った一瞬、二人の間で視線が交差する。麗華の瞳には、かつての大広間で見せたようなおっとりとした気配はなく、深遠で冷徹な光が静かに宿っていた。


使節団の馬車が走り出し、城門をくぐる。


揺れる馬車の中で、李公爵は手渡された文箱を開け、中から一巻の羊皮紙を取り出した。そこに描かれていたのは、一見するとただの風景画のようでありながら、詳細な地理が記された地図であった。


軍事境界線や要塞の配置といった戦略情報はことごとく偽りであったが――物資を運ぶための『川の水量や流通ルート』だけは、正確極まる本物の情報が記されていた。

(……くくっ、一本取られたな)


李公爵は思わず手元を眺め、ふっと不敵に笑った。

もし軍事侵略を目論む自国の主戦派に「手ぶらで帰国」すれば立場を失う。

しかし、この地図があれば「軍事攻略は不可能だが、この川のルートを使った交易こそが自国に莫大な利益をもたらす」として、主戦派をねじ伏せる完璧な言い訳(手土産)になるのだ。

(軍事機密は渡さないが、交易の道なら開いてやる……か。あのおっとりとした毒蛇め、最初からここまで計算していたとはな)


馬車の中で、李公爵は心底愉快そうに、けれど敗北を認めるように苦笑した。


(――天香閣の、偽り姫か。完全に化かされたな)


同じ頃、自邸の庭でおっとりと刺繍を楽しむ麗華の元に、監視役の同僚から


「大使の馬車、国境を越えました。任務完了です」


と通信が入る。

麗華は優雅にお茶を啜りながら、


「手強いお相手でしたわね。……さて、次のお仕事は?」


と呟き、いつもの静かな令嬢の日常に戻っていくのだった。


数日後、両国の間で

「国境沿いの新たな交易ルート開拓と、冷害対策の技術支援」に関する正式な国家協定が結ばれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。