月下の蜘蛛と可憐な蝶 1/4
「麗華、また手元が狂ってしまいましたの?」
穏やかな午後の陽光が差し込む東屋で、気品ある声が響いた。
声をかけたのは、同席していた伯爵家の令嬢である。彼女の視線の先――麗華が持つ刺繍枠の上には、本来なら美しい牡丹の花びらになるはずの――いささか歪な赤い刺繍糸が這っていた。
「まあ……。お恥ずかしい限りですわ。私、どうしてもこの部分の繍針が苦手で」
鳳麗華は、困ったように眉を下げて微笑んだ。
曜朝の宰相を父に持つ彼女は、社交界では「いささか抜けたところのある、無害で可憐な令嬢」として知られている。陰では「おっとり姫」と揶揄されることもあった。今日も仕立てのいい淡い桃色の衣を纏い、お茶をこぼしそうになっては侍女を慌てさせていたばかりだ。
同席する令嬢たちは「相変わらずね」と、微笑ましげに、あるいは少しの優越感を抱きながら視線を交わす。麗華はそれを、おっとりと微笑みながら見守るばかりだった。
「少し疲れてしまいましたわ。お先に失礼してもよろしいかしら?」
麗華はいつもの頼りない笑みを顔に貼り付け、令嬢たちに頭を下げた。
昼間の彼女の歩く姿は風に揺れる柳のようで、お茶をこぼしては「あら、困りましたわ」と微笑むような、無害そのものの箱入り娘である。しかし、深夜の宰相邸の離れ、遮光の垂れ幕が下ろされた一室にいる彼女の瞳に、昼間の生気のない「おっとり感」は微塵もなかった。
月明かりが、静かな庭園の竹林を白く照らしている。
麗華は、昼間の華美な衣装を脱ぎ捨て、動きやすい薄墨色の密行服に着替えていた。
鏡の前で、いつもは緩く結ばれている長い髪を、一本の黒い紐で一分の隙もなく、迷いのない指の動きで結い上げる。その瞬間、彼女の纏う空気が完全に変わった。猫のようだった瞳が、獲物を狙う鷹のように冷たく、鋭く研ぎ澄まされる。
部屋の隅、影が不自然に伸びたかと思うと、音もなく国の諜報機関「暗香衛」を率いるトップが現れた。
彼は卓の上に命令書を無造作に置いた。
悪意も、私欲もない。ただ国益のために影として動く。その密命が、今、下されているのだ。
「昼の『お遊び』は順調のようだな、麗華様」
「ええ。みな私をただ美しいだけの、頭の空っぽな娘だと思い込んでくれていますの。……おかげで、どこへ行っても誰も耳目を警戒しませんわ」
彼女の声は、昼間の間伸びした甘い声とは似ても似つかない、低く、淀みのない冷徹な響きだった。麗華は命令書を受け取った。
「三日後の歓迎夜会。西嶺から来る若き全権大使、李公爵が今回の標的だ。彼は我が国の軍事機密『国境地図』の奪取を狙っている」
麗華は、書状に目を走らせながら問いかけた。
「李公爵……。若くして全権を握る男ですね。汚い手を使う悪党ではなく、自国の防衛のために理詰めで動く、最も厄介なタイプの傑物かしら?」
「その通りだ。彼は夜会の華やかさに紛れ、合法的な手段、あるいは完璧な計画で地図を外へ持ち出す算段だ。貴女の任務は、その流出を未然に阻止することだ」
「わかりましたわ。私は嘘などつきませんのよ……彼を前にしたら、心から『世間知らずで、おっとりした、彼に圧倒されるだけの哀れな令嬢』を、本気で演じきってみせますから。彼が私の無害さに安心したその瞬間が、彼の計画の終わりです」
言い終えると同時に、彼女は再びいつものおっとりした微笑みの「表情」の作り方を、鏡の前で確認した。まばたきを一つする間に目の前の鋭さは消え、どこか焦点の緩んだ、いつものお嬢様の顔に戻っていく。
◇
三日後ーー
視界のすべてが溶解した黄金と圧倒的な絢爛に呑み込まれる。
金碧輝煌――。
ここは帝宮が隠された神域、天香閣の大広間。
世界の富と美の粋をすべて濃縮して塗りたくったかのような、暴力的なまでの光芒が空間を支配している。天上の穹窿からは無限の星屑をも凌駕する豪奢な黄金灯籠が幾重にも吊るされ、そこから放たれる狂おしいほどの閃光が、幻惑的な虹彩を放つ極上の絹衣を纏った、世の理を超越した名門貴族たちの群れを、神々しく、かつ妖しく灼きつけていた。
談笑する彼らの隙間で、麗華は父親である宰相の背に隠れるようにして、静かに佇んでいた。
今日の麗華の役割は、「世間知らずで、おっとりとした置物」だ。
「西嶺の若き大使、李公爵の御入場!」
内官の朗々とした声が響き渡り、大広間の喧騒がぴたりと止む。開かれた重厚な扉から姿を現したのは、若き大使、李公爵だった。仕立ての良い漆黒の古装に身を包み、堂々とした歩調でこちらへと歩を進めてくる。その一挙手一投足には、若くして大国を代表する全権を任された者特有の、揺るぎない自信と威厳が満ちていた。
「宰相閣下、お久しぶりでございます。本日もお健やかそうで何よりだ」
「これは、これは、李大使。よくぞおいでくだされた。歓迎いたしますぞ」
宰相が鷹揚に笑い、形式美に満ちた挨拶を交わす。
互いに浮かべる笑みの裏で、どれほどの毒が飼われているか。諜報機関の構成員としての本能が、彼らの間に流れる冷徹な空気の小競り合いを敏感に察知していた。




