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天香閣の偽り姫  作者: 鑫鑫


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迷える蒼狼と可憐な蝶 1/4

挿絵(By みてみん)


曜朝(ようちょう)の最北端、羅国(らこく)との国境にそびえ立つ天狼山脈(てんろうさんみゃく)。

その凍てつく氷雪の地で、数百年にわたり「国境の不沈の盾」として国防を支えてきた狩猟民族――蒼狼(そうろう)族が、いま未曾有の危機に瀕していた。


近年の急激な気候変動。


長引く厳しい冬によって草地は凍りつき、伝統的な放牧だけでは家畜も部族も飢え死にするのを待つばかり。


「気候が変わり、伝統的な放牧だけでは部族の未来はない。曜朝朝廷から新しい農耕技術を取り入れ、交易を活性化させるべきだ!古いやり方に固執する老人たちは退き、我々に実権を譲ってほしい!」


危機感に突き動かされる若き改革派の正義。


「朝廷の技術など一時の流行りに過ぎん。我々は数百年間、この土地の自然と対話して生き延びてきた。天狼山脈の凍土は、一度掘り返せば砂漠化して二度と戻らないのだ。

若者たちの生半可な知識で動けば、山を怒らせ部族は滅びる!我々の経験を軽視するな!」


何百年もの間、幾度となくあった飢饉を生き延びてきた伝統。族長と長老たちにある受け継がれた経験に裏打ちされた正義。


部族の未来を想うがゆえの激しい内紛。

もし彼らが自滅すれば、北方の雄・羅国軍が一なだだれを打って曜朝へと侵略してくるのは火を見るより明らかだった。


◇


曜朝朝廷の朝議は、開廷以来、かつてない緊迫感に包まれていた。

居並ぶ大臣たちの顔は一様に青ざめ、玉座の前には国防に関する不穏な公文書が次々と積み上げられていく。


「急激な気候変動により、北方の蒼狼族が内紛の危機にあるとのこと! 若き改革派と族長派の対立は、もはや一触即発にございます!」


「馬鹿な、あの最強の騎馬民族が割れるというのか!?」


「蒼狼族が内紛で崩壊すれば、国境の防衛線がガラ空きになる……。そうなれば、北方の雄・羅国の軍勢がーーなだれを打って帝都へ攻め寄せてくるのは時間の問題だぞ!」


飛び交う怒号と、国家存亡の危機を告げる悲痛な叫び。

その議論の中心で、山のような防衛書類を前に、麗華の父である曜朝の宰相は絶え間なく襲いかかる胃の痛みに顔を歪めていた。


(ああ、朝廷の若手官僚どもは現地に新しい農耕技術を支援しろと騒ぎ、軍部は武力で国境を統制しろと息巻く……。どちらを選んでも、蒼狼族の誇りを傷つけ、最悪の自滅を招くだけではないか……困ったものだ)


「……本日の朝議は、ここまでとする。一同、現地の動向から目を離すな」


重々しく告げた宰相は、自室に戻るなり、懐から取り出した胃薬を白湯で慌ただしく流し込んだ。

この数日、宰相は心労のあまり胃薬が手放せなくなっていた。肩の凝りも、まるで天狼山脈の氷岩のようにガチガチである。


◇


燕居之室(えんきょのしつ)の柔らかな灯りの中、麗華の父である宰相はゆったりとした寝着姿(ねまきすがた)で、厚手のクッションに深く背を預けていた。

顔色は優れず、時折、胃のあたりをさすっている。

その正面、一段高くなった木製の座床の上で、麗華は足を崩して座り、色とりどりの点心を小さな口で美味しそうにもぐもぐと頬張っていた。


「……というわけでね、麗華。

もし蒼狼族が割れて羅国が動けば、我が国の北方は地獄と化す。私はもう、胃がキリキリと痛んで、肩もまるで天狼山脈の氷岩のようにガチガチなのだよ……」


宰相は深いため息をつき、おでこを押さえていた。

麗華の足元には尺玉(せきぎょく)ねこが大きな欠伸をして丸まっている。


「まあ、お父様、それは大変ですわねぇ……。お心が凍りついてしまわないように、ほら、新しく取り寄せたほかほかの栗の焼き点心はいかが? 湯気のあついうちに、お口にあーーん、ですわ」


「おお、麗華……! むぐ、もぐ……ああ、甘くて温かくて、胃袋に染み渡るようだ。本当にお前は私の特効薬だよ……」


麗華はおっとりと微笑みながら、お父様の口にせっせと栗を運び、その頼りない背中を優しく撫でてあげるのだった。


「チャピ子もそんなところで丸まってないで、焼き栗食べてみる?」


「にゃ、にゃぁ、にゃぁあー」


麗華は丸くなって眠る真っ白な尺玉ねこのチャピ子にも、本気で焼き栗を食べさせようとしている。

その姿は、とても演技には見えなかった。


どこからどう見ても、天下の危機などお構いなしに、父親の体調だけを心配している人畜無害な愛娘のようにみえた。

しかし、麗華はおっとりとした微笑みのまま、すっと父の手を握り、真剣な瞳で見つめ返した。


「まあ、お父様。そのキリキリ痛むお腹に良い身体を温める薬草や、胃に優しい乳製品が蒼狼族にはあるそうですわ。

私、蒼狼族の集落へ行って、お父様のためにガチガチの肩に効く特産のお薬を分けていただいてまいりますね」


「ええっ!? あ、あそこは今、内紛の危機で、おまけに凍てつくような極寒の地だよ! 麗華を行かせるわけにはいかない!行ってはいかんぞ!」


慌てて首を振るお父様に、麗華はふんわりと首を傾げ、どこまでも無垢にこう続けた。


「お父様がこんなに国のために身を粉くして働いていらっしゃるのに、娘の私が温かいお部屋で点心を食べているだけなんて、そんなの悲しいですわ。

私、お父様のガチガチの肩と痛むお腹を、どうしても治して差し上げたいのです。……お父様のために、行かせてくださいまし」


「れ、麗華ぁ……! なんという、なんという親孝行な娘だ……!麗華ぁ、びえぇぇぇぇん!」


お父様は感動のあまり大号泣し、懐の胃薬の袋をボロボロと落としながら麗華を抱きしめそうになった。


「分かった、分かったよ麗華!瑞穂湯の時のように朝廷の大臣たちに、お前を『朝廷公式の慰問特使』として正式に任命させよう!

軍部にはお前の馬車を絶対に邪魔せぬよう厳命し、宰相家が誇る最高級の毛皮の防寒着と、道中で凍らない特製の保温点心箱を山ほど用意させようではないか!」


「まあ、嬉しいですわぁ。お父様、ありがとうございます」


おっとりと手を合わせて喜ぶ可憐な蝶。

朝廷の誰もが解決できない国境の内紛の真っ只中へ、父親のために特産のお薬を分けてもらう人畜無害な特使として、麗華は合法的に、堂々と乗り込む権利を手に入れたのだ。


しかし、麗華の脳内――暗香衛(あんこうえい)の主としての領域では、影子(えいこ)から届いた国境の裏データが冷徹に弾き出されていた。


(若者たちが取り入れようとしている農耕技術の裏に潜む、黎国大使・陸紫燕(りくしえん)様の影……。

陸様は戦争を防ぐために若者を支援しているようですが、さすがに天狼山脈の『地質の限界』、そう、掘り返すと砂漠化するまではお持ちではないようですわね。

このままでは、あの方の完璧なビジネス投資も、若者たちの理想も、すべて凍土と共に崩壊してしまいますわ)


若者たちのピュアな焦りも、老たちの頑固な経験も、そして陸紫燕の平和なボロ儲け計画も。

おっとりと手を合わせて喜ぶ可憐な蝶は、こうして、毒蛇の仕掛けた国境の盤面へと、ひらひらと舞い降りる準備を始めるのだった。


◇


それから二日後、朝廷より正式に「慰問特使」の任命許可が下りた。

その翌朝、麗華の出立を待つ宰相家の前庭には、二輌の馬車が静かに据えられていた。

先頭の一輌は、漆黒に磨き上げられた車体には、宰相家の気品ある家紋が金細工で刻まれ、朝陽を浴びて鈍く輝いている。

艶やかな毛並みの四頭立ての駿馬が、出発を促すように小さく蹄(ひづめ)を鳴らした。馭者(ぎょしゃ)が恭(うやうや)しく開いた扉の先、馬車の内部は、外の喧騒を一切遮断する最高級のビロード張りの空間が広がっている。

もう一輌は、屋根の上にまで防寒対策用品が積みあげられている。

麗華は極寒の地へ向かうため先頭の馬車に乗り込もうとしている。見送る宰相に振り返り、彼女は朗らかな笑みを浮かべる。


「お父様のあの岩のように頑固なガチガチの肩と痛むお腹ため、私が蒼狼族から特産のお薬を分けてもらって持ち帰ってまいりますね。お留守番、よろしくね」


麗華は気品ある旅装に身を包み、その贅沢な座席へと腰を下ろした。


「では、お父様、行ってまいりますね」


窓からそっと差し伸べられた白い手が合図を送ると、馭者(ぎょしゃ)の鞭の音が響き、麗華を乗せた馬車は滑るように極寒の地へと走り出すのだった。



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