黒檀の古狸と可憐な蝶 4/4
薬師組合の嵐が去った帝都。
薬師組合の悪徳幹部たちが失脚したことで浮いた正規の高級薬草ルートは、陸紫燕の手によって堂々と安値で買い取られた。
彼が手にしたのは、これまでの闇ルートとは比較にならない、合法かつ莫大なビジネス利権である。しかし、新しく手に入れた流通網の帳簿を眺めながら、紫燕はふっと苦笑いを漏らした。
「……なるほど。私がこの健全な利権を握ることで、帝都の薬の価格が安定し、貧民街まで均一に良薬が行き渡る仕組みか。見事なものだ」
紫燕の得た莫大な富すらも、麗華が設計した帝都医療システムの健全化という巨大な歯車の中に、綺麗に組み込まれた一つのパーツに過ぎなかった。
それを再認識した紫燕の胸中には、敗北感よりも、むしろ爽快なまでの敬意が湧き上がっていた。
◇
燕居之室の柔らかな灯りの中、麗華の父である宰相はゆったりとした寝着姿で、厚手のクッションに深く背を預けていた。
朝廷を揺るがすはずだった薬師組合の騒動が、奇跡的に一部の悪徳幹部の摘発のみで静まり、医療の供給も滞りなく維持されたことで、宰相は心底ほっと胸を撫で下ろしていた。
その正面、一段高くなった木製の座床の上で、麗華は足を崩して座り、色とりどりの点心を小さな口で美味しそうにもぐもぐと頬張っていた。
戸を叩く音がして、侍女が恭しく一つの木箱を運んできた。
「麗華様。黎国大使・陸紫燕様の使者より、こちらが届きました」
「あら、何かしら」
箱を開けると、そこから現れたのは、思わず息を呑むほど美しい一輪の珍しい大輪の花。
そして、丁寧に梱包された、宮廷でもお目にかかれない最高級の薬膳茶であった。
箱の底には、紫燕の直筆と思われる一通の添え状があった。そこには、ただ一言、美しい筆文字でこう記されていた。
『――相変わらず、一本取られましたな。……またお会いできる日を楽しみにしております』
「ふふ……、さすが陸様、素敵な贈りものですわね」
その中身を見た麗華は、一瞬だけ暗香衛の主としての冷徹な笑みを浮かべたが、次の瞬間にはわざとらしく箱の角に指をこつんとぶつけた。
「いたたた……。あら、お父様。陸大使からこんな立派なお土産をいただけるなんて、私、嬉しくて舞い上がってしまいましたわ」
「おお……! あの不敵な黎国の大使殿から、お前にかような贈り物が届くとはな! 朝廷の騒ぎも収まり、陸大使とも良好な関係が築けているなら、これ以上の安心はない。……しかし『一本取られた』とはどういう意味かね?」
宰相が首を傾げると、麗華はおっとりと頬を押さえて困り顔を作ってみせた。
「ふふ、きっと私が塩の宴の席で、陸様のお洋服に点心のタレを飛ばしてしまったことを、まだ根に持っていらっしゃるのね。まあ、お恥ずかしい限りですわ。今度お詫びの点心をお送りしなくては」
「なんだ、そんなことか! ははは、麗華、お前というやつは……。そんな少し抜けたところがあるのも、我が娘の愛らしいところだな」
娘の可愛らしさに目尻を下げ、すっかり好々爺の顔になる宰相。
麗華はその文字を眺め、どこまでも嬉しそうに、おっとりと微笑んだ。
毒蛇からの、これ以上ない極上の敗北宣言であり、同時に次なる盤上遊びへの招待状。
麗華はさっそく贈られた薬膳茶を淹れさせると、温かい湯気とともにその深い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。そして、何事もなかったかのように、手元の甘い点心を再びもぐもぐと幸せそうに頬張り始める。
お父様の傍で宰相家の看板猫、真っ白で丸々とした尺玉ねこのチャピ子は、丸まって毛づくろいしていた。
帝都の闇をひそかに揺るがした偽薬事件は、こうして誰の手も血で汚れることなく、最高に優雅な和解を以て幕を閉じた。
◇
数日後の朝。
トントン。
部屋の扉が気配もなく小さく叩かれた。
麗華の部下、暗香衛の密偵の一人が音もなく部屋に入り、絹布に認められた新たな報告書を机の上にそっと置く。
彼女は一影ではない。
そして一瞬で影のように消え去った。
尺玉ねこのチャピ子が「にゃあー」と鳴く。
「……あら、次のお仕事の報告ね」
その絹布には、また別の場所、朝廷の闇で蠢く新たな世界の歪みが記されている。
麗華は滑らかな手つきで絹布を開き、ざっと目を落とすと、それを蝋燭の赤い炎にかざした。揺らめく火線が秘密の文面を静かに呑み込んでいく。
彼女は最後の一口まで優雅に白毫銀針を飲み干すと、ふっと小さく微笑んだ。
「今度のお相手は……」
煙となって消える絹布を見つめながら呟き、おっとり令嬢に扮するいつもの穏やかな日常へと戻っていくのだった。




