黒檀の古狸と可憐な蝶 3/4
薬師組合の本拠たる大会堂は、一歩足を踏み入れた者をその圧倒的な権威の重みで気圧する独特の設えに満ちていた。
まず、鼻腔を突くのは、帝都のどの街角とも異なる、濃厚でどこか冷ややかな空気。何百種類もの乾燥した薬草、貴重な獣の骨、そして門外不出の秘薬の香りが幾重にも混ざり合い、沈香のお香と共に床の石畳にまで深く染み付いている。その匂いは、医術の神聖さを象徴すると同時に、立ち入る者を拒む薬毒の気配すら孕んでいた。
その重々しい漆黒の扉の向こうで、正義の告発者が囚われ口封じされようとしていた。
「もう一度言う! この組合の裏ではびこる偽薬を今すぐ止め、民に真実を明かすべきだ!」
囚われの身となって祭壇の前に立ち、決死の告発の書状を掲げる若き薬師。その声は震えていたが、瞳には一切の曇りもなかった。しかし、それを取り囲む黒檀の古狸――組合長をはじめとする悪徳幹部たちの冷徹な視線は、彼を組織を脅かす害虫としてしか見えていない。
「捕らえよ。その小僧を虚言罪として帝都から追放し、二度と薬師を名乗れぬよう処分してしまえ」
組合の護衛たちが一斉に抜刀し、若い薬師を包囲する。
若者が己の無力さに唇を噛み締め、絶望に目を閉じた――その刹那、大会堂の重厚な扉が、凄まじい音を立てて内側へと押し開かれた。
「――そこまでだ」
静寂を切り裂いたのは、鋭く、そしてどこまでも傲慢な声。
現れたのは、衛士ではなく、きらびやかな朝廷の官服に身を包んだ正規の監査役と朝廷の財務官、そして彼らを冷ややかに先導する男――陸紫燕の手の者たちであった。
「な、何事だ! ここは聖なる薬師の領域、朝廷の立ち入りは――」
慌てふためく幹部たちを制し、黒檀の杖を突いて前に進み出たのは、組合長その人であった。
黒檀の如き重厚な面容に冷や汗を浮かべつつも、古狸は鋭い眼光で監査役たちを威嚇する。
「――控えよ! 薬師組合は朝廷の医療を一身に背負う存在ぞ! たとえ朝廷の者とて、聖域たるこの大会堂を穢すことは許されん! この小僧の妄言に惑わされ、我らを咎めようというのか! 我らが薬の手を止めれば、帝都の病人は明日にも全滅するのだぞ!!」
医療崩壊という人質を取り、組織の権威を盾に朝廷すら脅しつけようとする組合長。
その凄まじい威圧感と悪あがきに、監査役たちも気圧され、若い薬師は再び絶望に表情を歪めた。
だが、監査役の背後から歩み出た朝廷の財務官は、古狸の脅しなど歯切れの悪い戯言とばかりに冷ややかに一瞥し、一枚の羊皮紙を叩きつけた。
「……相変わらず口の減らない古狸だな。では、この裏帳簿と、黎国経由で密輸入されていた偽生薬の仕入れ伝票を見ても同じ口が叩けるかな?」
「なっ……!? なぜ、その帳簿が……!?」
完璧に隠蔽していたはずの裏データ。己が命綱だと思っていた秘匿情報が完膚なきまでに白日の下に晒され、組合長は黒檀の杖を取り落とし、膝から崩れ落ちた。
その顔から、先ほどまでの威厳は綺麗に吹き飛んでいた。
財務官は一通の公文書を読み上げた。
「曜朝朝廷財務省、および医政局による緊急臨検である。薬師組合における不正財務および詐欺行為の確定証拠に基づき、これより法執行を行う」
それは、陸紫燕が麗華から受け取った最後のピースを元に、裏から完璧に回した、言い逃れ不能の確定証拠だった。
「待ってほしい! 組合が潰れれば帝都の医療は崩壊する!」
必死に命乞いをする薬師組合の幹部たちに、監査役は冷酷な事実を告げる。
「誤解するな。これは組合全体の組織犯罪ではない。……ここにいる、組合幹部数名が、私腹を肥やすために秘密裏に行っていた単独の横領、および偽造行為である」
「なっ……!?」
これこそが、麗華が敷き、紫燕が実行した美しい清算の全貌だった。罪を組合全体に着せるのではない。偽薬のルートと隠し資産のデータを使い、膿である薬師組合の悪徳幹部だけを綺麗に切り離す。
結果、薬師組合の悪徳幹部たちは暴力ではなく、財務不正の罪によってその場で捕縛され、全財産を没収されたのだ。
一方で、彼ら以外の薬師組合員は、自ら内部の不正を摘発し、自浄作用を示した信頼できる組織員として、傷一つなく守られることとなった。
「……私は、追放されない、のか?」
呆然と立ち尽くす若い薬師に、監査役は穏やかに微笑みかけた。
「追放どころか、君の告発は組合の危機を救った英雄的行為である。今後は、健全に生まれ変わったこの組合で、大いに民のために腕を振るってくれたまえ」
大会堂に、若き薬師を称える拍手と、安堵の溜息が広がっていく。流血も、医療の崩壊も、民のパニックもない。あまりにも綺麗に片付けられた盤面を、影から見届けていた紫燕の配下、そして暗香衛の配下も、主のもとへ報告に走るのだった。
◇
数日後の宰相邸の茶室。
「……ふふ、お見事ですわ」
麗華は湯上がりの白い肌に白牡丹の湯気を浴びながら、算盤の最後の珠をパチリと弾いていた。
頭の中で弾き出された数式は、帝都の医療が完璧な調和を取り戻したことを示していた。
「さすがは陸様。毒を以て毒を制す……。最も綺麗で、最も誰も傷つかないお薬を、古狸たちに飲ませて差し上げましたわね」
麗華は、おっとりと微笑みながら白牡丹を一口啜る。
夜霧の毒蛇が古狸を噛み殺し、可憐な蝶はただその羽の美しさを朝陽に輝かせる。
残るは、この劇の本当の結び、お父様への最高の報告だけだった。




