黒檀の古狸と可憐な蝶 2/4
「……お嬢様。本気でおっしゃっているのですか?」
夜の気配が深まる宰相邸の離れで、麗華の部下、一影は血の気の引いた顔で手に待った命令書を見つめていた。
麗華は優雅にジャスミンの花が開いた工芸茶をすすりながら、ふんわりと微笑む。
「ええ。黎国大使館の最深部――陸紫燕様の執務机の上に、その密書をそっと置いてきてちょうだい。誰にも気づかれずに、ね。一影」
「黎国大使館といえば、あの『夜霧の毒蛇』のお膝元ですよ!? 刺客と罠が目白押しの鬼門に忍び込めと……!? もし捕まったら黎国との外交問題どころか即座に消されます!」
「大丈夫ですわ、一影。あなたなら見事にやり遂げてくださいますもの。……あ、陸様が仕掛けた音鳴らしのからくり糸と、天井の毒針には気をつけてくださいね。当たったら痛いどころではすみませんわ」
「お嬢様、知ってるなら自分で外しに行ってくださいよ……!!」
胃を押さえて絶望の溜息をつく一影を余所に、麗華はお気に入りの干し果物をひと口頬張り、もぐもぐと愛らしく口を動かした。
◇
「天香閣の偽り姫……あの可憐な蝶は、どこからこちらを覗いている?」
黎国大使・陸紫燕。
彼は今、帝都の闇に溶ける大使館の自室で、深く思考を巡らせながら、細い指先で机を叩いていた。
その瞳は、夜霧の毒蛇の如く冷徹に澄んでいる。
彼は今、宰相令嬢・麗華への警戒を限界まで高めていた。
一度でも自らが表に出れば、あの人畜無害の皮を被った暗香衛の主である偽り姫に尻尾を掴まれる。
それを熟知している紫燕は、徹底して影に潜み、薬師組合の裏会計データと偽薬ルートを掌握してのだった。
狙うは、腐敗した古狸たちが囲い込む莫大な利権。そう、裏から総取りをする気でいたのだ。
そして鼠一匹通さぬよう、室内の梁や床下には、重量の変化で矢が放たれる独自のからくり罠と、微風でも鈴が鳴る極細の鋼糸が張り巡らされている。陸紫燕が敷いたそれは、まさに一点の隙もない網――のはずだった。
だが、如何に完璧な城塞とて、主が部屋を外せば、そこには必ず僅かな空白が生まれる。
用足しのために席を外し、数分後、陸紫燕が再び自室の重い扉を開けて戻ってきた、その時のことだった。
カチリ。
部屋の主である彼が、からくりを一時的に解除して室内に足を踏み入れた、まさにその瞬間。紫燕の背筋に、氷を押し当てられたような冷たい戦慄が走った。
「……ッ!?」
(なっ……!? 誰も入った気配などなかったぞ……!?)
部屋全体の空気の、ほんの僅かな密度の違い。夜風に混じる、微かな、しかし聞き覚えのある上質な絹の匂い。
即座に袖から暗器を構え、警戒の視線を鋭く机の上へと走らせる。
ーーさっきまで何もなかったはずの卓上に、小さな、しかし見覚えのある上質な絹布の欠片が、静かに鎮座していた。窓は閉ざされ、床や天井のからくりは一つとして作動していない。主が部屋を外していたあの短い時間、警備の巡回ルートの隙を突き、この厳重な仕掛けの安全な動線だけを正確に見極めて侵入し、この書状を置いて煙のように立ち去った者がいる。
紫燕が部屋を空ける一瞬の隙、そしてこの部屋の防犯の仕組みを完全に解読されたのだという冷厳な事実に、改めて暗香衛の凄さをヒシヒシと感じた。
「天香閣の偽り姫……。私が席を外すタイミングさえ、お前は外の蝶に測らせていたというわけか」
紫燕は不敵な笑みを張り付かせたまま、警戒を解かぬようゆっくりと、その絹布の欠片へと手を伸ばすのだった。
紫燕は冷や汗を拭い、震える手でその絹布を広げた。
そこに記されていたのは、紫燕ですら完全に掴みきれていなかった偽薬の原料の真の流通経路と、古狸たちが秘匿していた組合の裏隠し資産の決定的な情報――そして、明朝の大会堂で古狸を追い詰めるための、完璧な手順だった。
「……っ」
数秒の沈黙の後、紫燕の唇から、低く、愉悦に満ちた笑いが漏れ出た。
「……見事なものだ。私が見落としていた最後のピースを簡単に渡し、さらには私を実働部隊として踊らせるおつもりか」
紫燕は、麗華に直接会うこともなく、この絹布一枚で提示してきた言外の局面を瞬時に読み解いていた。
(『この情報で腐った幹部だけを綺麗に潰し、健全な流通網をこの陸紫燕が引き取れ』というお答えですかね、偽り姫)
それは、これ以上ない極上の取引だった。
麗華は手を汚さず、朝廷の権力をうまく使い、毒蛇である紫燕の手によって薬師組合の腐った幹部と古狸だけを正確に処罰させる。
そして幹部が空席になった健全な医療流通網を、紫燕が合法的に買い取ることで、紫燕はリスク無く莫大な実利を得られ、黎国にも多少メリットがあり、曜朝の医療崩壊も完璧に防がれる。
「よかろう。偽り姫がそこまで完璧なお膳立てをしてくれたのなら、その誘い、乗らないわけにはいかないな」
紫燕は絹布を指先で弄びながら、夜霧の向こうで優雅に羽ばたく蝶の幻影を見た気がした。
◇
その翌朝、宰相邸の中庭ではーー。
「まあ、綺麗に咲いたお花に、可愛い蝶々が止まっていますわ。ふふ、ごきげんよう」
麗華は縁側に腰掛け、朝陽を浴びながらおっとりと微笑んでいた。
庭の隅では、昨夜の潜入工作で全身煤まみれ・擦り傷だらけになった一影が、死んだような目でそこに突っ伏している。
「……お嬢様。置いてまいりましたが陸紫燕は……間違いなく乗ってくるのでしょうか」
「ええ、もちろんですわ。陸様ほど賢いお方が、ご自身にとって一番美味しくて、まったくリスクのないあの局面を捨てるはずがありませんもの」
もぐもぐ、と再び干し果物を口に運びながら、麗華は人畜無害な少女を演じたまま、一影に向かって可憐に微笑んだ。
「さあ、古狸の巣穴を毒蛇が暴く時間ですわよ。わざわざ泥仕合に足を運ぶ必要はありませんわ。この対局の結末は、ここで静かに耳を澄ませていれば分かりますもの、一影」
「……俺はここで耳をすますより、帰って温かい布団で寝たいです……」
盤上の駒が完璧に動き出すのを、少女はただ穏やかに待つのであった。




