黒檀の古狸と可憐な蝶 1/4
黄金の瓦が輝く宮殿の真下、張り巡らされた下水溝のその先に広がる悪所。帝都の片隅、陽の当たらない貧民街。
密造された安酒と怪しい紫煙が街を煙らせ、物乞いと行き場を失った刺客たちが身を潜める。極彩色の中華提灯が不気味に揺れる夜の底で、今日もまた名前のない者が泥水へと静かに沈んでいった。
その貧民街に、いま不穏な咳の音が満ちていた。市井で出回る、効き目のない偽薬。
病を治すはずの白粉や丸薬が、富なき民の身体をじわじわと蝕んでいく。
「偽薬で民が苦しんでいる! 悪徳薬房だけでなく、これを見て見ぬふりをする薬師組合全体を公に告発し、潰すべきだ!」
薬師組合に所属する真面目な若き薬師は、声を荒らげて拳を握りしめていた。その瞳は純粋な義憤に燃えている。
組合の不正を突き止めた若き薬師は、単身で組合本部に直訴するが、対する薬師組合の幹部たちは冷徹な一言でそれを撥ね退けた。
「医療は民の信頼で成り立っているのだ。組合の重鎮の関与が公になれば、民は医療そのものを信じなくなり、怪しい祈祷に頼って病状が悪化する者が増える。組織を守るため、あの小僧を虚言罪で追放しろ」
組合の面子と利害を守ろうとする幹部たちによって、逆に営業妨害と虚言の罪で秘密裏に監禁されてしまったのだ。
薬師組合の建物の骨組みを支えるのは、組合長の異名の由来でもある、漆黒に磨き上げられた最高級の黒檀の巨木。
柱や梁のいたるところには、不老不死の霊獣や、薬草を司る古代の神獣の姿が極めて緻密な透かし彫りで刻まれており、百年の歴史が放つ重厚な艶を鈍く放っている。
大会堂の中央には、何世代もの薬師たちが守り続けてきた巨大な奉納薬炉 (白磁の大香炉)が据えられ、そこから細く青い煙が絶え間なく天井へと立ち上っていた。
しかし、その神聖な設えのすぐ裏側には、この組織の歪んだ富の象徴が隠されている。祭壇の脇に並ぶのは、名だたる大富豪や朝廷の高官たちから贈られた、金銀の象嵌が施された秘蔵の薬箱や、翡翠でできた薬研。壁には、全国の薬草の流通網を独占していることを示す、絹織りの巨大な帝都周辺地図が掲げられている。それは民を救う医療の殿堂であると同時に、一部の幹部たちが莫大な利権を囲い込み、誰の立ち入りも許さない古狸の強固な城塞そのものであった。若き薬師の叫びが響くこの広間は、美しくも、どこか息の詰まるような隠蔽の闇に満たされている。
医療崩壊を恐れる、彼らなりの歪んだ正義――それもまた、本物の恐怖だった。この二つの正義が激しく衝突し、泥沼の隠蔽劇が始まろうとしているその渦中。
薬師組合の最高権力者にして、黒檀の如き重厚さと頑固さを誇る組合長は、腹の底を見せない古狸の如く、帳簿の裏でじっと事態を静観していた。
◇
麗華の父である宰相のもとに、監禁された若き薬師の婚約者から、若き薬師が組合に消されると涙の訴えが届く。
朝廷の医療を牛耳る薬師組合に不用意に踏み込めば、薬の供給を止められ、国全体の医療が麻痺するリスクがあり、宰相は頭を抱えたのだ。
「お父様、聞いてください。今日のお昼頃、薬師組合の前を通り過ぎたところで薬師様たち、あんなに真っ赤なお顔をして怒鳴り合って……。お喉が枯れてしまわないかしらと心配になりしたのよ。はい、お父様、お茶のお代わりに、この甘い干し果物はいかが?」
「ああ、ありがとう、麗華。ちょうど市井の薬師組合の件で頭を痛めていて、口の中が苦くなっていたところだったのだよ。……ふぅ、この甘みが疲れた頭に染み渡るようだ。本当に我が家には、お前という最高の癒やしがいてくれて救われるよ。お前は世間の泥沼のような争いごとなど気にせず、いつでもそうやって健やかに、美味しいものを食べておくれ。それだけが私の願いだよ」
宰相邸の燕居之室の柔らかな灯りの中、麗華はおっとりと微笑みながら、卓の上の皿から干し果物をひとつ、小さな口でもぐもぐと幸せそうに頬張っていた。激務の合間にそれを受け取る父親の目には、麗華はただの世間の深刻な争いごとに心を痛める、人畜無害で可憐な愛娘にしか見えていないのだ。しかし、麗華の脳内――暗香衛の主としての領域では、すでにすべての情報が冷徹に処理されていた。
(告発者の純粋な正義も、古狸たちの医療崩壊を防ぐという恐怖も、どちらも本物。ですが、組合の裏データを調べると……不思議な数字が浮き彫りになりますわね)
もぐもぐ、と愛らしく口を動かしながら、麗華の思考は鋭く闇を切り裂く。薬師組合が必死に隠蔽しようとしている偽薬の仕入れルート。
その複雑に絡み合った糸の最奥に、うっすらと、しかし確実に染み出すあの男の気配があった。
(あの件の後、我が曜朝へ赴任されました黎国大使、陸紫燕様。やはり、あなた様が裏で動いておられましたのね)
帝都の闇を這う、夜霧の毒蛇。
その冷徹な毒蛇が、この薬師組合という巨大な古狸の巣に、すでに牙を突き立てて利権を吸い上げ始めている。普通であれば、毒蛇の影を見ただけで誰もが身をすくめるだろう。だが、麗華の唇は、おっとりとした笑みの形のまま、その裏で静かに歓喜に歪んだ。
(ふふ、相変わらずお目が高いことですわ。古狸がどれほど老獪に化けようとも、毒蛇の牙からは逃れられませんもの。……では、今回は陸様のその鋭い牙を、少しお借りいたしましょうか)
正義に燃える若者は、ただ猪突猛進するのみ。
組織を守ろうとする古狸は、巣穴に籠って怯えるのみ。
そして闇に潜む毒蛇は、獲物をじっと値踏みしている。
その全ての思惑の真上を、羽を休めるかのように優雅に、そして誰よりも人畜無害な顔をして、可憐な蝶――麗華がひらひらと舞い降りる。毒蛇の力を利用し、古狸の巣を根底から揺るがす、可憐な蝶の知略戦の幕が、静かに切って落とされた。




