金杯の悲願と可憐な蝶 3/3
翌朝――朝靄に包まれた麗華の屋敷の離れ。
小鳥のさえずりが心地よく響く庭園を臨む縁側で、麗華はお気に入りのジャスミン茶を嗜みながら、焼きたての桃山菓子を美味しそうに口へ運んでいた。
麗華の傍で宰相家の看板猫、真っ白で丸々とした尺玉ねこのチャピ子は、丸まって毛づくろいしていた。
「ふふ、今朝のお菓子は一段と美味ですわね」
そこへ、夜通しの裏工作と終わらない胃の激痛からようやく解放された一影が、まるで魂の抜けた幽鬼のような足取りで姿を現した。いつもは隙のない精悍な顔立ちの目の下には、隠しようもないほどうっすらと黒いクマが浮かんでいる。
「……お嬢様。ただいま戻りました」
「あら、一影。お帰りなさい」
麗華は桃山菓子を乗せた懐紙を置き、ふんわりとした笑顔で振り返った。
「昨夜はとても良いお天気でしたけれど、天香閣の大競売はいかがでしたの?」
「いかがでしたの、ではありません……!」
一影は大きく深呼吸をし、痛む胃をなだめるように一度腹を押さえると、懐からシワの寄った昨夜の密書を取り出してお嬢様に見せた。
「誰も殺さず傷つけず、義賊を逃がし、警備隊長の面目を保ち、その上で金杯を持ち帰れ……。お嬢様、現場の私がどれほどの綱渡りをさせられたか、お分かりですか!?」
一影の必死の訴えにも、麗華はぱちぱちと愛らしく瞬きをするだけだった。
「ですが一影、あなたは見事にやり遂げてくださったのでしょう? 偽物の金杯にからくりと手紙を仕込み、西巌領の過去の税収データと隠し基金の存在を教え……。今頃、西巌領へ向かって大量の救援米が出発し、義賊の方々も涙を流して感謝しているはずですわ」
「……お嬢様は、最初からすべてお見通しだったのですか」
お嬢様の底知れぬ知略と、自分への絶対的な信頼。
その両方に完敗した一影は、深いため息をつくと同時に肩の力を抜き、その場に静かに膝をついた。
「西巌領の飢饉も、義賊が天香閣の金杯を狙うことも、警備隊長が罠部屋を用意することも……。だからこそ、私にあの精巧な偽物の金杯を持たせたのですね」
「ええ。ですが、一番大切なのは誰も損をしていないということですのよ」
麗華は嬉しそうに微笑みながら、そっと茶杯を置いた。
「警備隊長様は至宝を守り抜き、暴動を未然に防いだ功績で近日中に朝廷から表彰されますわ。義賊の方々は命を散らすことなく民を救えました。そして朝廷も、後々大きな暴動になって膨大な鎮圧費を払うより、たった金貨五千枚の支援金で済んだのですから、実にお買い得な投資でしたでしょう?」
「……相変わらず、恐ろしいほど完璧な計算です」
呆れつつも、一影の表情から緊張が抜け落ちる。
どれほど無茶苦茶に見える指示であっても、お嬢様の企みの先には必ず誰も傷つかない美しい結末が待っているのだ。
「さあ一影、あなたも座って桃山菓子をおあがりなさい。昨夜の素晴らしい働きへの、わたくしからのご褒美ですわ」
「……はあ。いただきます」
一影が桃山菓子を一口かじると、上品な甘さが疲れ切った身体と胃にじわじわと染み渡っていく。
「……お嬢様。美味しゅうございます」
「でしょう? ふふ、次のお仕事の前に、しっかり栄養を蓄えておいてくださいね」
「……はい?え、 次の……?」
一影の手がピタリと止まる。
(……俺の胃が休まる日は、一体いつ来るんだ……!?)
「……お嬢様。次はもう少し、手加減したご指示をお願いいたします」
深々と溜息をつく部下をよそに、麗華は優雅にジャスミン茶を飲み干し、静かな日常へと戻っていく。
◇
数日後の朝。
トントン。
部屋の扉が気配もなく小さく叩かれた。
麗華の部下、暗香衛の密偵の一人が音もなく部屋に入り、絹布に認められた新たな報告書を机の上にそっと置く。
彼女は一影ではない。
そして一瞬で影のように消え去った。
尺玉ねこのチャピ子が「にゃあー」と鳴く。
「……あら、次のお仕事の報告ね」
その絹布には、また別の場所、朝廷の闇で蠢く新たな世界の歪みが記されている。
麗華は滑らかな手つきで絹布を開き、ざっと目を落とすと、それを蝋燭の赤い炎にかざした。揺らめく火線が秘密の文面を静かに呑み込んでいく。
彼女は最後の一口まで優雅に祁門紅茶を飲み干すと、ふっと小さく微笑んだ。
「今度のお相手は……」
煙となって消える絹布を見つめながら呟き、おっとり令嬢に扮するいつもの穏やかな日常へと戻っていくのだった。




