金杯の悲願と可憐な蝶 2/3
一影は給仕の微笑みを保ちつつ、滑らかな足取りで落札手続きが進む大広間から消え、地下へ続く暗い螺旋階段を駆け下りていく――。
(……今なら間に合う! 義賊が偽金庫室に侵入する前に、罠を潰して偽物の金杯を仕掛けなきゃ……!)
地下へと続く重厚な螺旋階段を下りるにつれ、上の大広間の喧騒が遠のき、ひんやりとした湿った空気が肌を刺す。
天香閣の最深部――厳重な鉄門に閉ざされた宝物庫。
(……くそっ、やっぱりか!)
天井の梁の暗闇に潜んだ一影は、冷や汗を流しながら眼下の光景を見下ろしていた。
鉄門の先にある金庫室。一見すると無人に見えるが、壁の隙間や天井には、前回の失態に激怒した警備隊長が新設した必殺の仕掛け弓や毒煙のからくりが所狭しと仕掛けられている。さらに、通路の角には抜刀した警備隊が息を潜めて待ち構えていた。
あの金庫室は、義賊を一網打尽にして殺すための完璧な偽金庫室だ。本物の金杯は、さらに奥の極秘大金庫へと移されている。
(上での呉氏の時間稼ぎに合わせ、義賊の潜入部隊がもうすぐここに到達する……! だが、あいつらがこの部屋に足を踏み入れた瞬間に罠が発動し、全員蜂の巣にされてその場で即死だ。捕まったとしても死罪は免れない……!)
お嬢様からの密書が頭をよぎる。
『誰も殺さず、傷つけず――』
(無茶を言う……! だが、やるしかない!)
一影は意を決すると、影のように素早く暗闇を滑り出した。警備隊が上の競り市の喧騒や通路の警戒に気を取られている隙を突き、偽金庫室へ潜入した。
驚異的な手さばきで、壁や床に仕掛けられた毒矢の導火線を小刀で切断し、毒煙のからくりに粘土を詰めて無力化していく。
一影は手早く終わらせて奥の極秘大金庫へ。
あらかじめ麗華から渡されていた重い小箱を開く。
中に入っていたのは、職人が泣いて嫌がるほど精巧に作られた初代皇帝の純金杯の偽物。
薄暗い大金庫の奥、魔法の光に照らされた豪華な台座の上に、帝都の至宝『初代皇帝の純金杯』が鎮座していた。
一影は本物と寸分違わぬ輝きを放つ偽物の純金杯の底部にある、隠し隙間へ麗華お嬢様からあらかじめ預かっていた密書と書類を小さく折りたたんで手際よく仕込む。
(よし……これで舞台は整った。あとは頼むから無事に盗んで逃げてくれよ……!)
一影が再び天井の梁へ身を躍らせた直後――カタリ、と不自然な風が吹いた。
「よし……手筈通りだ。競り会場の呉の旦那が時間を稼いでくれている内に、純金杯をいただくぞ!」
黒装束に身を包んだ西巌領の義賊たちが、息を殺して偽金庫室へ入って来た。義賊たちは仕掛けられた罠がすべて無力化済みであることに歓喜し、その奥の極秘大金庫へと滑り込む。彼らは台座に鎮座する燦然と輝く偽物の純金杯を目にすると、興奮に震える手でそれを抱え上げた。
「あった……! これだ、朝廷の至宝純金杯! これさえあれば、西巌領の餓死寸前の民たちが救える……!」
義賊たちは警備隊の包囲網をかいくぐり、闇の中へと鮮やかに姿を消していった。
◇
大競売の会場の壇上では、すでに二点目の出品物――暗闇で青く光る至高の美術品、翡翠の鳳凰簪の競りが始まっていた。溺愛する愛妾のために、前列の老貴族が「金貨三百枚!」と意気揚々と声を上げる。
もはや落札は確実かと思われた。だが、最前列に座る謎の富豪・呉氏は、やはり優雅に茶をすすりながら、気だるげにセリ札を上げた。
「……三百一枚」
またしても、一枚刻みの不自然極まりない上乗せ。先ほど厳重に注意されたはずの規則を平然と踏みにじる暴挙に、大広間は再び妙な空気に包まれる。面目を潰された老貴族は顔を真っ赤に染め、椅子を蹴立てんばかりに立ち上がって怒号を上げた。
「貴様ッ、またしてもそのような端数を! 司会、何をしている! 色呆けの田舎者が朝廷の神聖なる競売を愚弄しておるのだぞ、即刻つまみ出せ!」
狂ったように怒り狂う老貴族に対し、呉氏はやはり、視線すら合わせず静かに茶をすするだけだった。
老貴族の怒号が響き渡る中、司会者は額の汗を滝のように流しながら、呉氏に向かって必死に声を張り上げた。
「ご、呉様……! 度重なる規則違反は、いかに富豪の方であれ見過ごせません! ただいまの三百一枚は無効、これ以上の端数上乗せが続くようであれば、警備隊の手によって即刻退場とさせていただきます!」
会場の隅で、警備隊長の手がいつでも刀を抜けるよう柄にかかる。一触即発の空気が流れた。
だが、呉氏はふっと小さく笑うと、おもむろに茶杯を置いた。
「おっと、これは失礼した。郷に入っては郷に従え、ですな。……結構、先の入札は引き下げよう」
実にあっさりと引き下がる呉氏。その拍子抜けするほど素直な態度に、司会者は安堵の息を漏らし、すぐさま木槌を構えて声を張り上げた。
「ご、ご理解いただき感謝いたします!
では、現在の最高値は、先ほどの老貴族様がご提示の金貨三百枚!
金貨三百枚、一回…… 金貨三百枚、二回……、金貨三百十枚は、ございませんか!金貨三百枚、……三回! 鳳凰簪、落札でございます!」
カァン! と小気味よい音が響き、老貴族は勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
その競りの喧騒に紛れ、何食わぬ顔でお盆を抱えた一影が大広間へと戻って来ていた。
(よし……本物の金杯が搬出される『青磁水注』の競りまでに地下の仕掛けは完了した。あとは義賊どもが逃げ切るだけだ……)
「な、なんだと!? 金杯が盗まれただと!?」
直後、地下から駆け上がってきた兵の報告を受け、警備隊長が青ざめた顔で叫んだ。
隊長率いる兵たちが雪崩のように地下の罠部屋へとなだれ込み、空になった台座を見て血の気が引いた顔で立ち尽くす。
「馬鹿な! 罠は発動しなかったのか!? 追え! ネズミどもを絶対に逃がすな!!」
足音と怒号が地下通路に響き渡る。
壁際でその様子を見送った一影は、そっと小さな溜息をついた。
(ふぅ……なんとか第一関門は突破か。だが、本当の勝負はここからだ……)
◇
深夜――帝都の郊外にある壊れかけた廃寺。
警備隊の猛追を振り切り、命からがら逃げ延びた義賊たちが、息を荒らしながら集まっていた。
「やった……やったぞ! 俺たちはやり遂げたんだ!」
頭領は感極まった面持ちで、奪い取ってきた黄金の杯を焚き火の光にかざした。
「これさえ闇市で金に変えれば、大量の救援米が買える! 西巌領の数万の民が助かるんだ!」
「頭領、早くその金杯の重みを確かめさせてくれ!」
仲間の義賊が興奮気味に金杯を受け取り、底を撫でまわしたその時――カチリ、と小さな金属音が響いた。
「ん……? なんだこれ……底が二重になっている……?」
義賊たちが固唾を呑んで見守る中、金杯の台座部分がスライドし、中から固く結ばれた上質な絹の紙片と、朝廷の公印が押された極秘書類が転がり出た。
「な、なんだこれは……? 手紙……?」
頭領が震える手でその紙を広げると、そこには達筆で、どこか優雅なおっとりとした文章が綴られていた。
『西巌領の勇敢なる義士の方々へ。
命を賭して民を救おうとするそのお心意気、実に見事ですわ。
ですが、その金杯は精巧な偽物。わざわざ盗む必要など最初からありませんでしたのよ』
「な……偽物だと!?」
絶望に顔を歪める義賊たち。しかし、手紙の続きを目にした頭領の目が丸くなった。
『同封いたしました書類をお改めなさい。
それは西巌領の過去五十年の税収データと、財務官が面倒がって放置していた曜朝朝廷緊急災害支援基金の存在を示す証拠です。
朝廷には元々、お困りの領地へ正規の手続きで支援金を出す法的手続きが存在いたします。
本日未明、宰相閣下の判が押された正式な通達により、金貨五千枚分の緊急救援米が西巌領へ向けて出荷されました。明後日には届くはずですわ。
ですから……無駄に命を捨てるのはおやめなさい。あなた方もまた、我が国の尊い民なのですから』
「救援米が……明後日に届くだと……!?」
手紙の最後には、可憐な蝶の小さな印が押されていた。
義賊たちは呆然と立ち尽くし、やがて涙をボロボロとこぼしながら、偽物の金杯と救援米の書類を抱きしめた。
「盗む必要なんて……最初からなかったんだ……。俺たちは、生かされたんだ……!」
◇
一方その頃、天香閣の警備本部。
失態に青ざめ、切腹覚悟で顔を強張らせていた警備隊長のもとへ、給仕に扮した一影がさりげなく「落ちておりました」と一通の密書を手渡していた。
警備隊長が震える手でそれを開くと、そこには麗華の父である宰相の直筆の署名と印章があった。
『警備隊長へ。
本物の『純金杯』は密かに別ルートにて回収・保護させた。貴殿の忠義に感謝する。
なお、西巌領の大飢饉を放置すれば、遠からず大規模な暴動へと発展し、帝都の警備コストおよび鎮圧費用は金貨一万枚以上に跳ね上がる。
よって、放置されていた曜朝朝廷緊急災害支援基金より金貨五千枚を西巌領へ手配した。これは暴動を未然に防ぎ、帝都の法と予算を守るための正当かつ最も安上がりな安保上の法的措置である。
貴殿は至宝を守り抜き、帝都の威信と法を死守したものとする』
「……! ざ、宰相閣下……!」
警備隊長は膝を折り、書類を両手で掲げた。
至宝は守られた。法も曲げられていない。事前に暴動を防ぐための予算執行という完璧な大義名分の下に、警備隊長の面目と首の皮は完璧に繋がったのだ。
「全隊……撤収だ! 我々は……法と至宝を守り切ったのだ!」
隊長の誇らしげな声が、夜の天香閣の庭に響き渡った。




