金杯の悲願と可憐な蝶 1/3
金碧輝煌――
視界のすべてが溶解した黄金と圧倒的な絢爛に呑み込まれる。ここは帝宮が隠された神域、天香閣の大広間。
世界の富と美の粋をすべて濃縮して塗りたくったかのような、暴力的なまでの光芒が空間を支配している。天上の穹窿からは無限の星屑をも凌駕する豪奢な黄金灯籠が幾重にも吊るされ、そこから放たれる狂おしいほどの閃光が、幻惑的な虹彩を放つ極上の絹衣を纏った、世の理を超越した名門貴族たちの群れを、神々しく、かつ妖しく灼きつけていた。
定期的に開催されるこの曜朝公認の大競売には、国境を越えた至宝や、朝廷から流出した逸品が集い、選ばれし富豪たちがその都度、桁違いの金貨を飛び交わせている。
きらびやかな衣装を纏った給仕たちが優雅に立ち回る中、その一人として完璧な所作でお盆を運ぶ青年がいた。
麗華の部下、暗香衛の密偵――あくまでも仮名、一影である。
「……総員、気を引き締めろ。前回の大競売での不覚を忘れたか」
大広間の陰、壁際に整列する甲冑姿の警備隊を前に、厳めしい髭を蓄えた警備隊長が低く殺気立った声を殺して命じていた。
「半年前の前回の大競売において、我々はあの忌々しい義賊どもにまんまと潜入を許し、貴重な競売品を一点盗み出されるという失態を演じた。公認大競売の誇りは潰え、朝廷の威信は地に落ちてしまったのだ!
だが……二度目はない。今夜出展されるのは、帝都の至宝『初代皇帝の純金杯』。万が一にもあの虫ケラどもに触れさせることなど、断じて許されんと思え! 怪しい者は、その場で斬り捨てて構わん!」
言葉を発することなく、ただ一斉に深く頷く兵士たち。警備隊長の目は、獲物を決して逃がさない猛禽のように鋭く光っていた。
(…… 隊長は完全に殺気立っているな。それも無理はないな。前回の失態を考えれば、今こうして首が繋がっていること自体、奇跡と言えるんだからな……)
一影は給仕の微笑みを崩さぬまま、心の中で溜息をついた。
警備は前回の三倍。防犯用のからくりも一新され、逃走経路はすべて封鎖されている。今夜もし義賊が侵入すれば、確実に血の雨が降る――そう確信していた。
張り詰めた空気の中、兵士たちがそれぞれの持ち場へと散り始める。その時、一影の横を通り過ぎた同僚の手が一瞬だけ触れ、彼の袖口にぬくもりのある小さな紙片がすっと忍び込んできた。宰相邸の離れにいる麗華お嬢様から、秘密の伝書鳥経由で届いたばかりの密書を、潜入させていた内通者が手渡してきたのだ。一影は表情一つ変えず、それを静かに懐へと滑り込ませた。
(……ふぅ。お嬢様もきっと危険だから深追いせず撤退しなさいと仰ってくださっているはず……)
一影は給仕のフリをして柱の陰に隠れ、期待を込めてそっと密書を開いた。
そこには、相変わらずのおっとりとした可愛らしい筆致で、悪魔のような指示が書かれていた。
『一影へ。
今夜の金杯、奪われても壊されても困りますの。
あなたが持ち帰りなさい。
それから、潜入している義賊の方々も、警備の隊長様も、どちらも我が国の尊い人材ですわ。
誰も殺さず、傷つけずに。
頼みましたわよ。お菓子を買って待っていますわね』
「………………」
一影の思考が数十秒間、完全に停止したのだ。
(誰も……殺さず? 傷つけず?? 金杯を持ち帰れ……!?)
目の前では、今にも義賊を切り捨てようと剣の柄に手をかけているガチガチの警備隊長。
裏では、死を覚悟して金庫に忍び込もうとしている義賊たち。
そして、宰相邸の離れでお菓子を食べながら「頼みましたわよ」と微笑んでいる我が主君。
絢爛たる大広間の影で、一影は誰にも気づかれぬよう、密書の内容に激しい眩暈を覚えていた。
お嬢様のあまりにも優雅で、あまりにも無慈悲な無理難題。
彼は深く、深く胃を押さえ、危うくその場にうずくまりそうになるのを必死に耐えるのだった。
(……お嬢様。いくらなんでも、無茶が過ぎます……!!!)
◇
「皆様、長らくお待たせいたしました。
これより、天香閣が誇る最高峰の宴、朝廷公認大競売の幕を開けさせていただきます。
競売を始めるにあたり、本夜限りの厳格なる三つの規則をご案内いたします。
第一に、入札の刻み値について。すべてのお品は、提示された開始価格より金貨十枚単位での競り上げといたします。木札が掲げられぬまま三声数えましたら、その時点で落札とさせていただきます。
第二に、お支払いについて。落札されたお品は、すべてこの場にて朝廷の金庫番立ち会いのもと、現物の金貨にて全額お支払いいただきます。手形や後日支払いは一切認められません。そして最後に――」
司会者は一瞬言葉を切り、きらびやかな会場の四方に配置された警備兵、そして殺気を放つ隊長の姿を見渡した。
「――今夜は帝都の至宝が出展されております。万が一にも不審な挙動、あるいは場を乱す行為のあった者は、朝廷の命によりその場で即刻、斬首といたします。お大人の皆様方におかれましても、どうか節度ある競りをお楽しみいただけますよう、よろしくお願い申し上げます」
司会者は警備隊長に目配せしてから話し出した。
「――それでは皆様、大変長らくお待たせいたしました! 今宵を彩る記念すべき第一の至宝をお披露目いたしましょう!出展番号一番。
前朝の伝説的宮廷画師、呉道子が遺した至高の掛け軸――『百財招福図』でございます!」
司会者の合図とともに、舞台中央の美しい絹布が払われ、見事な掛け軸が姿を現した。会場の参加者たちから、一斉に「おお……」と熱い吐息が漏れる。
「ご覧ください、この生き生きと躍動する鯉の鱗、そして泥中から気高く咲き誇る蓮の花を! 商人の皆様方におかれましては、もはや説明の必要もございませんね。これぞ『床の間に飾れば客足が絶えず、代々の家業が永劫に繁栄する』と謳われる、究極の商売繁盛のお守りにございます!今年一番の運気と、莫大なる富をその手に掴むのはどなたか!それでは『百財招福図』、開始価格は金貨百枚から参ります! ……さあ、いかがでしょうか!?」
司会者の威勢の良い声が大広間に響き渡ると、富豪たちの目が一斉にギラついた。
「すでに、そちらの旦那様から金貨百枚の声をいただきました!」
「百五十枚!」
「百五十枚がでました!……さあ、いかがでしょうか!?」
豪商・朱萬富が勢いよく扇子を掲げる。
「百六十枚!」
間髪入れずに御簾の奥から、涼やかな声が響いた。貴族の若旦那だ。
「百七十枚! 若様から百七十枚! 他にいらっしゃいませんか!?」
「ふん、百八十枚だ!」
豪商が身を乗り出し、顔を真っ赤にして声を荒らげる。会場がどよめいた。掛け軸一枚に、家が一軒も建つ大金が動いている。
(ふむ、この勢いなら金貨二百枚の手前で落ちるな……)
壁際でお盆を抱える一影は、冷ややかな目で相場を弾いていた。
商人たちが激しい競り合いを繰り広げ、価格が金貨百八十枚まで跳ね上がった、その時だった。会場の喧騒を切り裂くように、見慣れぬ男――呉氏と名乗る謎の富豪が、優雅に茶をすすりながら、ぽつりとセリ札を上げた。
「……百八十一枚」
その場の時間が止まったかのように、大広間が水を打ったように静まり返る。商人たちは顔を見合わせ、司会者は一瞬、自分の耳を疑ったように目を丸くした。
「……ご、呉様。恐れ入りますが、今宵の大競売は先ほど申し上げた通り、前価格より金貨十枚単位での競り上げが鉄則にございます。大変恐縮ながら、ただいまの百八十一枚という一枚上げの入札は、規則違反……。最低でも金貨百九十枚からでなければ、お受けすることは叶いません」
司会者は額の汗をぬぐいながら、毅然としつつも、困惑した視線で謎の富豪を見つめた。
しかし、呉氏はふっと口元を綻ばせるだけで、全く動じる様子はない。豪商の朱萬富が「なんだと!?」と激昂して睨みつけても、呉氏は優雅に茶杯を傾けたまま、沈黙を貫いている。
呉氏に入札を訂正する意思がないと見た司会者は、喉をゴクリと鳴らし、素早く場を仕切り直した。
「――ゴホン。ただいまの入札は規則に満たないため、無効とさせていただきます! したがって、現在の最高価格は、朱萬富様ご提示の金貨百八十枚!
金貨百八十枚、一回……! 他に、百九十枚でのご入札はございませんでしょうか!?」
(な、なんだあの客は……!?)
一影は思わず眉をひそめた。
一枚、あえて相手の神経を逆撫でするように値を吊り上げる。買い叩くでもなく、司会者へ返事もしない、セリの時間を不自然に引き延ばしているとしか考えられない。
「金貨百八十枚、二回……! 他に、百九十枚でのご入札はございませんでしょうか!?」
その異常な光景を見つめながら、一影の脳裏に電撃が走った。
(……待てよ。あの謎の富豪、品物が欲しいんじゃない。時間を稼いでいるんだ……! まさか、競りの裏で仲間の義賊が地下金庫へ潜入する時間を……!?)
カァン! と木槌の音が大広間に響き渡る。
「金貨百八十枚、三回! 朱萬富様の落札でございます――っ!?」
司会者の宣言とともに、会場からはどっと大きな拍手と、呉氏の奇行に対する安堵の混じったため息が漏れた。
朱萬富は満足げに鼻を鳴らし、周囲の富豪たちへ見せつけるようにふんぞり返る。
ハッと気づいて壁側に視線を向けると、警備隊長が「ふむ、今夜の大競売はいつも以上に盛り上がっておるな」と、満足そうに腕を組んでセリを眺めている。
(あいつら、隊長が大競売に夢中になっている隙を狙ってるんだ! だがマズいぞ……! 前回の失態がある警備隊長は、金庫の仕掛けを全部入れ替えているはずだ。そんな罠だらけの地下に侵入したら、義賊どもは一網打尽にされて殺される……!)
お嬢様からの密書が頭をよぎる。
『誰も殺さず、傷つけず――』
一影は給仕のお盆をぎゅっと握りしめ、冷や汗を流した。
(クソッ……! 義賊のバカどもめ、余計な時間稼ぎをしてないで早く逃げろ! いや、俺が警備隊に気づかれる前に、地下で鉢合わせする双方を止めなきゃいけないのか……!?)
競り市が熱気に包まれる中、一影は影のようにそっと大広間を抜け出し、暗い地下通路へと走り出すのだった。
大広間ではすぐさま、舞台袖から白手袋をはめた美しい給仕が二人、極上の塗箱に収められた『百財招福図』を恭しく捧げ持ち、朱萬富の席へと運んでいく。
それと同時に、大広間の影から、厳重な警備に守られた朝廷の金庫番たちが姿を現した。
彼らは朱萬富の手下が差し出した、ずっしりと重い革袋――金貨百八十枚が詰まった袋をその場で器械のように手早く検め、帳簿に筆を走らせる。
「確かに。これより朝廷の裏金庫へと搬入いたします」
冷淡な声で告げた金庫番たちは、金貨の袋を頑丈な鉄箱へと収め、再び警備兵に守られながら広間の奥へと消えていった。




