湯霧の神霊と可憐な蝶 3/3
これは、麗華たちが瑞穂湯へ湯治に来る数日前のこと。
湯煙が立ち上る温泉街の最奥、頑丈な閂で閉ざされた湯神神社の御神体蔵。
警備の衛兵もおらぬ闇の中、麗華の部下の暗香衛の密偵、一影が、鍵穴に細い針金を差し込み、息もつかせぬ速度で解錠した。
蔵の奥に安置された、数百年前の黄ばんだ古い巻物。
密偵は懐から、麗華にあらかじめ離れで手際よく煎じた薬草の汁と大根の水分をブレンドした無色の墨 (炙り出し)と、極細の筆を取り出す。
経典の質感や当時の筆跡を完璧に模倣しながら、麗華の指示通りに分湯の神託――『かつて湯を半分に分け合って民に施したことで神の怒りが収まり、街は十倍に栄えた』という偽の記述を書き加えていく。
乾けば月明かりの下でも完全な白紙に戻る、極秘伝の墨だ。
「――これで、数日後にこの書を開いた神主は、己の目が節穴であることにも気づかず、神の奇跡だと触れ回るだろう。俺もいい仕事するな」
一影は筆を収め、巻物を元の位置へ寸分の狂いもなく戻すと、夜風のように窓の隙間から滑らかに消え去っていった。
◇
瑞穂湯の夜が更けていく。
外湯からの帰り道、月明かりが石畳をのどかに照らしていた。麗華は湯上がりの火照った頬を夜風に休ませながら、お気に入りの傘をくるくると回し、どこか足元もおぼつかない様子で、おっとりとしずしずと歩いていた。
その隣を進む朝廷の医療高官や軍部の将校たちは、地元が抵抗するなら力ずくで源泉を没収すればいいと、依然として高圧的な態度で息巻いている。
そんな物々しい空気の中、麗華はふにゃりと抜けたような微笑みを浮かべ、まるで明日のご飯は何かしらとでも言うような軽さで口を開いた。
「ねえ、お役人様ぁ。温泉の湯の引き方や、枯らさないための管理は、何代も続いた地元の湯守にしか分からない秘伝の技なんですのよ? 官営にして、もし素人のお役人様たちが管理なさったら……一ヶ月でただの冷たい水溜まりになってしまいますわぁ。そしたら、お父様のお仕事も大失敗ですわね、わたし、困っちゃいますわ」
「は……? 水溜まり、ですか?」
医療高官が思わず足を止め、拍子抜けしたように振り返る。麗華の声音はどこまでも間が抜けていて緊張感など微塵もない。しかし、彼女が何気なく口にした湧出量の管理や湯脈の寿命という言葉は、現地を極限まで調べ上げた専門家でなければ絶対に出てこない、あまりにも的確すぎる指摘だった。
「お父様が言っておりましたわ、瑞穂湯が万病に効く名湯であり続けられるのは、一日の湧出量や温度の均衡を、彼らが命がけで休ませながら守ってきたからなんですって。朝廷の兵隊様たちが力ずくで源泉を奪って二十四時間いつでも入れるようにしてしまえば、湯脈は一瞬で死んでしまいますわ。そうなれば……お父様の、いえ、朝廷の掲げる全人民の療養という崇高な理想も、最初から存在しなかったことになってしまいますわよね? あら、私、何かおかしなことを言いましたかしら? ほほほ」
麗華は差した傘の柄に少し躓きそうになりながら、「てへ」と可愛らしく首を傾げた。
その姿はどこからどう見ても、ただのちょっと賢いことを言ってみたかった、人畜無害でおっとりしたお嬢様そのものである。だが、言われた高官たちの額からは、どっと冷や汗が流れ落ちていた。
(……令嬢の言う通りだ。我々は現場の実情を何も知らず、名湯をただの冷水に変えるところだったのか……!?)
麗華のあざとい演技のおかげで、役人たちはそれが彼女の知略だとは夢にも思わず、純粋に現場のリアルな危機としてその正論を骨身に染みて理解してしまったのだ。
「……確かに、令嬢の何気ない一言には一理ある。軍隊を動かして源泉を枯らしては、朝廷の面目丸潰れだ」
高圧的だった軍部の将校もすっかり毒気を抜かれ、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「地元の協力が不可欠であるならば、まずは高圧的な態度を改め、話し合いの席を設けるべきだな。よし、すぐに明日の段取りを変更しよう」
「あら、それは素敵ですわ! お互いに手を取り合えば、きっと誰もが幸せになれる素晴らしいお庭ができますものね」
麗華はパチパチと無邪気に手を叩いて喜んでみせた。
すべてをおっとりした世間話だけで完封した麗華は、再び鼻歌交じりで、傘をくるくる回しながら宿屋への夜道をのんびりと歩んでいくのだった。
◇
数日後、あの夜の世間話によって役人たちが強硬姿勢を撤回したことで、天香閣の会議室にて、ついに瑞穂湯の領主代行と医療高官による事前交渉が設けられたのだ。
だが、長年の不信感から互いに警戒し合い、室内には重苦しい緊張感が漂っている。
そこへ、何故だか大きなお盆を持った麗華がトコトコと現れた。
「みなさま、お話し合いの前に、まずはあたたかいお茶でも……あ、あらっ!?」
盛大につまずいた麗華は、領主代行と医療高官の真ん中にお茶をブチまける。
二人が「危ない!」「大丈夫か!」と同時に麗華の手を掴み、引き起こした瞬間、図らずも両陣営のトップの顔が至近距離でバチリと合わさった。
「まあ、申し訳ありません。わたくし、お父様が『みんなで温泉に入って、美味しいお茶を飲めば、お腹の痛みも治るのに』と仰っていたものですから、つい……」
恥ずかしそうに涙目でうつむく麗華。
しかし、彼女がひっくり返したお盆の裏からは、事前に作成されていた緻密な書面が、誰の目にも明らかなようにテーブルの上へバァンと鮮やかに散らばっていたのだ。
富裕層のブランド価値を維持しつつ、朝廷の医療目的を完遂する分湯と年間買い取りの官民共同管理の驚くべきシミュレーションである。
① 正義の分配:
源泉の独占権を国が「剥奪」するのではなく、権利は地元のものとしたまま湯の一部を朝廷が買い取る。半分は従来の「高級リゾート」として富裕層から高い対価を得て雇用と経済を守り、もう半分に朝廷の予算で「国営療養所」を建設する。
② 誰もが納得するお金の循環:
朝廷は傷病兵や労働者のための医療費(宿泊・入湯費)を国家予算から地元組合へ正規に支払う。地元にとっては国という「超大口の安定顧客」ができ、朝廷にとっても膨大な維持費を払わずに現場のプロに管理を委託できるため、結果的に最も安上がりに全人民の療養施設を確保できる。
「「……なんだ、この緻密な計算書は!?」」
驚く医療高官と瑞穂湯の領主代行。
お互いに相手が私欲で動いていると思っていた二人は、散らばった書面に並ぶ傷病兵の救済数と地元業者の雇用数が完璧に両立された数字を見て、初めて相手もまた国や地域のために命をかけているのだと気づかされたのだ。
◇
さらに数日後のこと。
麗華のお膳立てによって下地が完璧に整った瑞穂湯の話し合いの場に、ついに麗華の父である宰相自らが現地へと赴いた。
立てこもりの武器を手に今にも火花を散らしそうだった領主や温泉組合長たちの前に、宰相は修正された新たな布告案を提示した。
「温泉の半分は、これまで通り地元の伝統と誇りとして残す。そして残りの半分を国が年間買い取りで分湯し、医療費はすべて朝廷が支払う四合院形式で国営療養所を設ける――」
その分湯案が語られた瞬間、現地の空気が激震した。
領主も、組合長も、湯守たちも、一様に目を見開いて絶句している。なぜならそれは、数日前に湯神神社で発見されたばかりの、あの古き巻物に記されていた「神託」の文言と、驚くほど近かったからだ。
「し、神託の通りだ……! 湯の神様は、朝廷の、いえ宰相様の無私の慈悲をあらかじめ予言しておられたのだ!」
「おおお……! 我らはなんと浅はかな誤解をしていたのだろう!」
地元の人々は一斉に驚喜し、持っていた武器をその場に投げ捨てた。彼らは朝廷の神がかった新たな布告案に深く感動し、涙を流してこの提案を快諾したのである。
一触即発だった瑞穂湯の危機は、一瞬にして歓喜と和解の渦に包まれた。
一方、当の宰相は、地元のあまりの豹変ぶりに目を丸くしていた。
(まさか、私のひらめいた政策が、地元の古い神託とこんな近いとは……!)
じわじわと込み上げる万能感に、宰相の胸が大きく膨らむ。
(……私は、天に守られているのかもしれない。やはり私の政策方針に間違いはなかったのだ!)
数日前まで瑞穂湯の地元を苦しめるのではないかと胃をキリキリ痛め、肩を岩のようにガチガチに凝らせていたのが嘘のようだった。
すっかり失われていた自信を取り戻した宰相は、瑞穂湯につかり、一気に威厳と活力を取り戻したのだった。
そして長年彼を苦しめていた胃痛までもが、すっかり完治してしまったのである。
「まあ、お父様ったら……ふふっ」
着いて来ていた麗華は物陰から父の誇らしげな姿を見つめ、満足そうに目を細めていた。
◇
数ヶ月後の宰相邸。
麗華は、現地からわざわざ早馬で取り寄せた、瑞穂湯の霊験あらたかな源泉をなみなみと湛えた足湯の桶であった。
湯気がふんわりと立ち上る中、宰相は裾を捲り上げ、至福の表情で足を浸している。
「まあ、お父様、お肌がツルツルになってよろしかったですわね」
麗華がお気に入りの点心をもぐもぐと頬張りながら、どこまでもおっとりと、嬉しそうに微笑みかける。すると、お湯の温かさと愛娘の優しさに顔をふにゃふにゃに緩ませた宰相は、大層嬉しそうに胸を張ってこう返した。
「おお、麗華! 本当に素晴らしい湯だ。見ておくれ、あんなに岩のようだった私の肩も今ではすっかり軽くなり、胃の痛みも霧の彼方へ消え去ってしまったよ! 地元の古い神託に導かれ、分湯案で全人民が救われるのだと思うと、肌だけでなく、宰相としての私の魂までツルツルに生まれ変わったような気分だ。これも全て、天が私を、そして我が曜朝を守ってくださっている証拠だね!」
「ええ、本当に。お父様は天に愛されていらっしゃいますのね」
さらに数日後の朝。
トントン。
部屋の扉が気配もなく小さく叩かれた。
麗華の影として従う暗香衛が音もなく部屋に入り、新たな命令書を机の上にそっと置く。そして一瞬で影のように消え去った。
「今回はお相手がいませんでしたわね。……さて、次のお仕事は?」
その密書には、また別の場所、朝廷の闇で蠢く新たな「世界の歪み」が記されている。
麗華は滑らかな手つきで書面を開き、ざっと目を落とすと、それを蝋燭の赤い炎にかざした。揺らめく火線が秘密の文面を静かに呑み込んでいく。
彼女は最後の一口まで優雅にお茶を飲み干すと、ふっと小さく微笑んだ。
煙となって消える紙片を見つめながら呟き、天才令嬢はいつもの穏やかな日常へと戻っていくのだった。




