湯霧の神霊と可憐な蝶 2/3
帝都の喧騒を離れ、馬車は瑞穂湯が佇む南方へとひた走っていた。
宰相家が誇る極上のサスペンション付き馬車は、悪路の揺れすらも、ゆりかごのような心地よいリズムへと変えてしまう。その贅沢なビロードの座席に腰を下ろした麗華は、窓の外を流れるのどかな田園風景を、薄衣のカーテン越しに眺めていた。
「ふふ、お父様、今頃ちゃんとお休みになれているかしら……」
麗華の頭にあるのは、あの優しくも不器用な父親のことだ。曜朝全人民のための大温泉郷計画という、あまりに壮大でピュアな善政の準備のために、岩のように肩をガチガチに凝らせていた父。
宰相はその激務の裏で、現地の領主や組合長たちが「一銭も儲からなくなる!」とガタガタ震え、朝廷への不信感を募らせていることなど、夢にも思っていない。
「でも、私が最高の湯の花を持ち帰れば、お父様の肩もきっと一発で軽くなりますわね」
そう一人ごちると、麗華はふんわりとおっとりした微笑みを浮かべた。そして、手元に用意された漆塗りの器へと、そっと白い指を伸ばす。中に入っているのは、昨夜、父の傍らでもぐもぐと頬張ったのと同じ、出来立てから少し時間がたった最高級点心だ。道中の退屈を紛らわせるためにと、父親がわざわざ持たせてくれたものである。
「やっぱり、お父様の手配してくださる点心は、いつ食べても絶品ですわ」
馬車の小さな揺れに合わせるように、麗華は再び点心を口へと運び、もぐもぐと幸せそうに頬を膨らませた。
馬車が揺れる。漆器に並んだ点心を愛らしくもぐもぐと頬張っていた麗華は、ふと、咀嚼を止めた。
ハンカチでそっと唇を拭うと、先ほどまでの無邪気で父親思いな娘の表情が、霧が晴れるように消え失せる。その瞳に宿ったのは、曜朝の闇を統べる者にふさわしい、底知れない冴えだ。麗華は少し前に諜報機関「暗香衛」を率いる事実上のトップになっていた。
「……さて、先に行かせた暗香衛の部下は、うまく仕込んでくれたかしら」
誰もいない車内に、低く、しかし凛とした声が響く。その言葉に応じるように、馬車と並走する足音に混じって、御者台の近くから微かな、だが規則正しい衣擦れの音が聞こえた。馬車の窓の遮光カーテンの隙間から、音もなく小さな文箱が差し込まれる。それは、一般の者には決して見破れない、暗香衛の特殊な暗号で封印された定期報告の書状であった。麗華は白い指先で手際よく封を解き、中にある薄紙へと目を走らせる。
『湯神神社への潜入、完了。無色の墨にて、古巻物への「分湯の神託」の追加、滞りなく仕込み終えたり』
完璧な仕事が報告されたのだった。
「ふふ、よくやってくれましたわ」
手元の書状を小さな魔導の火で一瞬にして灰に帰すと、麗華の顔に、再びあのおっとりとした、どこまでも優しい微笑みが戻り、馬車は瑞穂湯の地へと、のんびりと、しかし確実に近づいていくのだった。
◇
「はあ……いいお湯ですわね」
昼の間、瑞穂湯の湯船に浸かっていた麗華は、どこからどう見ても、のんびりと療養に訪れたおっとり令嬢そのものだった。
しかし、湯煙の向こうから透けて見える現地の空気は、あまりにも重く、張り詰めていた。湯守たちの目は血走り、行き交う領民たちの表情には悲壮な覚悟が滲んでいる。
官営化によって一銭も儲からなくなると怯えきった彼らは、すでに引き返せない一線を越えようとしていた。
彼らは密かに、瑞穂湯の命脈である源泉を巨大な岩で封鎖し、手製の武器をかき集めて立てこもる構えを見せていたのだ。
朝廷の善政が、現地にとっては故郷を踏みにじる侵略に他ならないという、文字通りの決死の抵抗だった。
(朝廷の理想のために、ここまで追い詰められているのね……。おいたわしいけれど、朝廷の方針は曲げられませんわ)
肌を刺すような地元の殺気を湯浴みとともに受け止めながら、麗華の心は、すでに夜の作戦へと切り替わっていた。
◇
夜陰が瑞穂湯を包み込む。
昼間の可憐な湯治客は消え、そこには漆黒の装束に身を包んだ暗香衛を統べるものとしての麗華がいた。音もなく宿場町の管理所に潜入すると、地元の湯元が厳重に隠蔽していた秘匿室の仕掛けを瞬時に解除した。
狙いは、現地が朝廷に隠し立てしている二つの決定的な嘘の証拠――源泉の湧出量記録と過去十年の宿泊帳簿である。
暗がりのなか、月明かりだけを頼りに麗華は分厚い巻物と帳簿を開いた。その瞳が、恐るべき速度で紙面を走る。
彼女の能力には見たものをそのまま脳裏に焼き付ける絶対記憶がある。ページをめくる微かな音だけが室内に響く。
過去十年分に及ぶ膨大な数字、人名、金額の羅列が、滝のように彼女の意識へ吸い込まれていく。
(……っ! これは――どういうことですの……!?)
暗闇の中、宿泊帳簿と湧出量記録を脳内で重ね合わせた瞬間、麗華の背筋に冷たい戦慄が走った。暴かれたのは、地元の貪欲さではなかった。
その真逆――彼らが命がけで隠し、そして命がけで守ろうとしていた瑞穂湯の限界という、あまりにも脆い真実だった。
(……なるほど。そういうことですのね)
すべてのデータを暗記し終えた麗華は手元に一切の痕跡を残さず、帳簿を元通りに収めると、再び夜の湯煙の中へと姿を消すのだった。
◇
瑞穂湯に、清々しい翌朝の光が差し込んでいた。
前夜の秘密裏の潜入調査を無事に終えた麗華は、すっきりと朝風呂を浴び、湯上がりの火照った肌に薄絹の寝衣をゆるやかに纏っていた。
朝の澄んだ空気の中、麗華は瑞穂湯の名水で、朝の最初の一杯となる白茶――白牡丹を優雅に淹れる。蓋椀の中でふわりと開いた茶葉は、朝陽を浴びてまるで白い花のように可憐に揺れ、部屋には蜜のような甘い香りが優雅に漂い始めた。
湯上がりに優雅にお茶を飲みながら、机に向かう麗華。
昨夜暗記した内容を思い起こしながら、白紙に源泉の湧出量記録と過去十年の宿泊帳簿を完璧に再現していく。さらに、暗香衛の部下から手渡されていた朝廷の医療高官たちの計画書をその横に並べた。
その瞬間、彼女の瞳の奥で、無数の数字が冷徹に噛み合い始めた。
「――計算が合いませんわ」
麗華はぽつりと呟いた。朝廷の計画では、国境を守る数万人の傷病兵や領民を無制限にこの温泉地へ送り込むことになっている。
「一日の湧出量は、最大で四百石(約七万二千リットル)……。温度は常に摂氏四十二度を維持。ですが、これは地元の組合が湯を休ませる期間を厳格に管理しているからこそ保たれている均衡ですわね」
だが、一度に入浴させれば瑞穂湯のキャパシティを遥かに超える。大量の人間が冷えた体を湯船に沈めるたびに熱量は奪われ、わずか三日で湯の温度は三十度以下にまで下がり、ただのぬるい泥水と化してしまうのだ。朝廷の言う全人民のための官営化は、自然の恵みの限界を知らない素人が、理想で宝の山を食いつぶす自滅の脚本に過ぎなかった。
「そして、これが二つ目の驚愕の事実ということですわね。――夏と冬の、空室率が七割。地元は、この二つの季節の赤字を、春と秋の稼ぎで必死に埋めていたのですわね」
思わず小さく溜息をついた。この宿場町は、一見すれば名湯の恩恵で潤っているように見えて、その実情はあまりにも危うい綱渡りだったのだ。
気候の厳しい夏と冬は、客足が途絶える。宿を維持するだけでも赤字が膨らむその地獄の期間を、気候の良い春と秋の繁忙期に、高い宿泊料を課すことでどうにか埋め合わせ、一年を生き延びていたのだ。それがこの瑞穂湯の隠された血流だった。
「地元の湯守たちが武装してまで拒絶したのは、利権のためだけではありませんでしたのね。朝廷の無知によって瑞穂湯が永遠に死ぬのを恐れ、そして春と秋の命綱まで奪われて町が経済崩壊するのを防ぐための……防衛本能だったのですわ」
麗華はふっとため息をつくと、団扇を置いてお茶を一口啜った。朝廷の暴挙を止めるには、双方の正義を生かす第三の答えが必要だった。
「だったら、奪い合わずに、時間を分ければよろしいのよ」
彼女の頭脳の中で、すべてのパズルのピースが綺麗に噛み合っていく。
「春と秋は、地元の領主たちにこれまで通り高級リゾートとして商いをさせ、富裕層からたっぷり湯銭をむしり取らせます。……そして、宿も湯も余って赤字になる夏と冬だけ、お父様に朝廷の予算でその空室をすべて買い取らせるか一括借り上げるのですわ。朝廷の予算が地元を潤し、地元の湯守の技術が国の兵を癒やす。……これならお父様も、もう胃を痛めて倒れる必要はありませんわね」
麗華の筆が、絹紙の図面の上でさらに緻密な軌跡を描いていく。――それは、ただの医療施設ではなく、訪れる民の心をも潤す至高の建築美、四合院スタイルの国営療養所であった。
「曜朝の伝統建築をベースにするならば、四方を平屋の棟で囲み、中央に大きな庭園と湯引きの池を配置する形が、最も自然で風情がありますわね」
さらさらと筆が走るたび、図面の上に美しい中庭を囲む四方の平屋が立体的に立ち上がっていく。四方を壁と棟で囲む四合院の構造は南方の気まぐれな風雨を遮断し、内部の温度を一定に保つ。そして中央の広大な庭園には、瑞穂湯の源泉から計算され尽くした湯量が分湯として引き込まれ、湯煙の立ち上る美しい湯壺となるのだ。
「ここを、重症者や専門治療を必要とする方々のための、特別な国営療養所といたしますわ」
重い病を患う者たちが階段の上り下りに苦しまぬよう、一切の段差を排した構造。四方の棟から中央の湯壺へと直接繋がる回廊。最大四百石という限界のある湧出量を、この一画にだけ医療目的として計画的に分湯して誘導する。これならば、瑞穂湯が誇る富裕層向けのブランド価値を損なうこともない。
「朝廷の体面、地元の利権、そして民の命……。この四合の庭が、そのすべてを優雅に包み込んでみせますわ」
墨が乾き、完成した図面を見つめながら、麗華はおっとりと、しかし絶対の勝利を確信した微笑みを浮かべた。
「さあ、この図面を見れば、武装して立てこもろうとしている現地の湯守たちも、己の浅はかさに赤面するしかありませんわね」




