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天香閣の偽り姫  作者: 鑫鑫


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湯霧の神霊と可憐な蝶 1/3

挿絵(By みてみん)


曜朝(ようちょう)朝廷の歴史において、これほど民の歓喜を呼ぶ計画があっただろうか。


「万病を癒やす南方の名湯・瑞穂湯(みずほのゆ)を、一部の独占から解き放ち、全人民が等しく療養できる官営の至福郷へと生まれ変わらせる――」


それは、曜朝のすべての民が健やかに暮らせる世を目指す、朝廷の壮大な慈悲の布告であった。この偉大なる新制度の検討にあたり、都の宮廷では盛大な宴(うたげ)が催された。

招かれたのは、これまで瑞穂湯の伝統を守り続けてきた現地の領主や、温泉の歴史を支えてきた温泉組合長たちである。

宴席は、国と地方が手を取り合い、理想の温泉郷を創り上げるための、どこまでも前向きで華やかな語らいの場であった。しかし、瑞穂湯の領主、温泉組合長たちは、自分たちが愛してきた瑞穂湯が官営となることに不審や疑問を抱いていた。


「これより、瑞穂湯はすべての民の拠り所となります。領主殿、組合長殿、どうか皆様の知恵を朝廷にお貸しいただきたい」


居並ぶ大臣たちが杯を掲げ、温かい拍手が沸き起こる。全人民の健康という大いなる理想のために、山のような書類を精査し、寝食を忘れてこの布告の準備に奔走していた人物こそ、他ならぬ麗華の父親――曜朝の優しき宰相(さいしょう)であった。彼のガチガチに凝り固まった肩は、まさにこの民を想う大事業の栄光の証でもあったのだ。


ここは帝宮の隠された神域と称される天香閣、視界のすべてが溶解した黄金と圧倒的な絢爛に呑み込まれる。

金碧輝煌(きんぺききこう)――の大広間。

世界の富と美の粋をすべて濃縮して塗りたくったかのような、暴力的なまでの光芒が空間を支配している。天上の穹窿(きゅうりゅう)からは無限の星屑をも凌駕する豪奢な黄金灯籠が幾重にも吊るされ、そこから放たれる狂おしいほどの閃光が、幻惑的な虹彩を放つ極上の絹衣を纏った、世の理を超越した名門貴族たちの群れを、神々しく、かつ妖しく灼きつけていた。


宰相の娘・麗華は、右手の箸で、冷えて固まった脂の浮く肉料理を、崩さぬよう美しく一切れだけ挟み持って口に運ぶ。

目の前には、透き通るような水晶餃子や、大輪の牡丹を模した冷菜の盛り合わせが美しく並んでいる。

しかし、宮殿の冷気の中で、最高級の鹿肉の煮込みの汁は白く固まり、せっかくの燕窩(えんか) (つばめの巣)のスープからも湯気は一切立ち上っていない。

いまはふやけた豆のスープを上品に口へ運んでいる麗華。その無防備でおっとりとした姿に、周囲の役人たちは完全に目を細めて油断していた。

次の瞬間、彼女の白い手首が、ほんの少し不自然な角度で豆のスープ皿の縁を捉える。

バシャリ、と派手な音が鳴り響いた。


「――まあっ! ごめんなさい!」


麗華が短い悲鳴を上げて飛び退く。

彼女が座っていた椅子が大きな音を立てて後ろに引かれ、その完璧な身のこなしによって、彼女の白磁のような肌にも、一織りの刺繍が施された美しいドレスにも、スープはただの一滴もかかってはいなかった。

しかし、テーブルの上は大惨事だった。

計算された放物線を描いて飛び散ったスープは、隣に座っていた瑞穂湯の領主の、上質な上着の袖口と、その前に置かれていた書類をピンポイントで直撃していた。


「大変、領主様の御高名なお召し物が……! 申し訳ありません、……わたくし、また手元を狂わせて……」


麗華は泣きそうな顔でハンカチを取り出し、大慌てで領主の袖を拭こうと身を乗り出す。

周囲の役人や給仕たちは「おい、早く雑巾を!」「領主様にお怪我は!?」と、汚された服と書類の片付けのために一斉に群がり、二人の手元への視線が完全に遮断された。

その喧騒の真っ只中。

涙目のままで視線を泳がせる麗華は、周囲に聞こえない蚊の鳴くような声で領主へ囁いた。


「――お可哀想に。お上のお偉様方は、現地のことを知らず、夢みたいな理想論ばかり語っておいでですのね」


麗華の言葉に領主の体が、ぴくりと硬直した。目の前で涙目のドジな宰相令嬢の瞳の奥に、一瞬だけ鋭い理(ことわり)の光が宿ったのを、彼は見逃さなかった。


「……令嬢。朝廷がこのまま力尽くで奪うというなら、我らは源泉を破壊してでも抗います。国が得るのは、湯の枯れた、ただの泥の穴だけです」


領主が吐き捨てるように殺気を込めて囁くと、麗華はふっとおっとりした笑みに戻り、大袈裟に声を張った。


「あら、大変、申し訳ございません」


「――お気になさらず、宰相令嬢。ただのスープです」


誰もがドジな令嬢が領主の服を汚したと呆れていた。いつもながら見事な演技である。


(瑞穂湯の御領主様、官営となることに相当不審を抱いておられる御様子。これはただ話し合っても絶対に決裂するわ)


◇


燕居之室(えんきょのしつ)の柔らかな灯りの中、麗華の父である宰相はゆったりとした寝着姿(ねまきすがた)で、厚手のクッションに深く背を預けていた。まだ顔色は優れず、時折、胃のあたりをさすっている。

その正面、一段高くなった木製の座床の上で、麗華は足を崩して座り、色とりどりの点心を小さな口で美味しそうにもぐもぐと頬張っていた。


「お父様、無事のご復帰、本当に嬉しゅうございます。でも、あまりご無理をなさらないでね?そういえば、むかし読んだ古い本に書いてありましたわ。温泉というものは、神様がみんなで分けて浸かりなさいと、エリアごとに湯を切り分けてくださったからこそ、枯れずに長く湧き出たそうですの。もし大国が力尽くで独占しようとしたら、温泉の神様が怒って、一晩で湯を枯らしてしまうかもしれませんわね。おっとり、怖いお話ですわ」


「ははは、麗華は相変わらず可愛いことを言うね。神様の祟りか……」


宰相はふっと目元を緩めたが、その直後、手にした茶杯をピタリと止めた。麗華の言葉が、彼の脳裏で最悪のシナリオとして形を結んだからだ。


「……いや、待てよ。神の祟りは迷信だとしても、軍部が力尽くで源泉を奪えば、地元の湯守業者どもは絶望して自ら源泉を破壊するか、あるいは湯を引き込む技術を隠して逃げ出すやもしれん。そうなれば……結果は同じだ。国が手に入れるのは、ただの枯れた穴となるのだな」


宰相はゴクリと喉を鳴らし、我が身の傲慢さを戒めるように呟いた。


「一晩で湯が枯れる……。麗華、お前の言う通り、それはおっとりどころか、一番恐ろしい話だな」


「まあ、お父様って本当に物知りですのね。わたくし、よく分かりませんけれど、お父様ならきっと神様とも仲直りできますわ」


麗華は、父親の前で心からくつろぎ、おっとりとした微笑みを浮かべていた。おいしいですわねと目で語りかけるように、ほかほかと湯気を立てる点心を、さらに一口、小さな口でもぐもぐと幸せそうに頬張るのだった。


明くる朝、麗華の出立を待つ宰相家の前庭には、一輌の馬車が静かに据えられていた。漆黒に磨き上げられた車体には、宰相家の気品ある家紋が金細工で刻まれ、朝陽を浴びて鈍く輝いている。

艶やかな毛並みの四頭立ての駿馬が、出発を促すように小さく蹄(ひづめ)を鳴らした。馭者(ぎょしゃ)が恭(うやうや)しく開いた扉の先、馬車の内部は、外の喧騒を一切遮断する最高級のビロード張りの空間が広がっている。

麗華は現地・瑞穂湯へ向かうため馬車に乗り込もうとしている。見送る家族に振り返り、彼女は朗らかな笑みを浮かべる。


「お父様のあの岩のように頑固なガチガチの肩のため、私が瑞穂湯の湯の花を持ち帰ってまいりますね。お留守番、よろしくね」


昨夜、父の傍らで点心をもぐもぐと頬張っていたおっとりとした少女は、今は気品ある旅装に身を包み、その贅沢な座席へと腰を下ろした。


「では、お父様、行ってまいりますね」


窓からそっと差し伸べられた白い手が合図を送ると、馭者(ぎょしゃ)の鞭の音が響き、麗華を乗せた馬車は滑るように瑞穂湯の現地へと走り出すのだった。


◇


曜朝朝廷が掲げた瑞穂湯の官営化は、文字通り曜朝全人民の福祉を謳った、一点の曇りもない大善政――のはずだった。宰相は、本気で民の喜ぶ顔を夢見ていた。彼の岩のような肩凝りは、純粋な正義感と優しさの結晶だったのである。


(……全人民の療養? 無料化だと? 冗談ではない!)


(官営になるということは、これまで我々が汗水垂らして守ってきた瑞穂湯の利益が、すべて帝都に吸い上げられるということではないか!)


彼らが抱いたのは、崇高な理念への感動ではなく、もっと切実で、生々しい恐怖だった。つまり地元にとっては、このままでは一銭も儲からなくなるという死活問題だったのである。


「組合長、朝廷は本気だ。我々の独占権を奪う気だぞ」


「領主様、これでは湯守たちや地元の宿屋は路頭に迷います。官営化などと言いながら、我々からすべてを毟り取るつもりなのでは……」


朝廷側が「素晴らしい未来の計画」を熱弁すればするほど、彼らの心には不審と疑問、そして暗い怯えが募っていく。差し出された極上の点心も、彼らにとっては喉を通らない恐怖の毒饅頭にしか見えなかった。

そんな地元の、腹の底に渦巻く冷たい危機感など露知らず。おっとりとした宰相令嬢・麗華を乗せた豪華な馬車は、お父様のための湯の花を求めて、この今にも爆発しそうな不安を抱える瑞穂湯へと、のんびり向かっているのだった。

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