迷える蒼狼と可憐な蝶 2/4
北方の峻厳なる天狼山脈。
その山肌に隠された、蒼狼族が数百年にわたり守り続けてきた絶対の聖域――伝承の洞窟の前に、一輌の豪奢な馬車ともう一輌が止まっていた。
「まあ、お長老様。お父様の胃薬になるという聖なるお水は、この洞窟の奥にあるのですのね。お父様が毎日健やかに笑えるよう、私、心を込めて汲んでまいりますわ」
もこもことした宰相家特製の最高級の毛皮に身を包んだ麗華は、おっとりと手を合わせ、どこまでも無垢な微笑みを長老たちに向けていた。
本来であれば、部外者の立ち入りなど決して許されない聖なる洞窟である。
だが、目の前にいるのは、お父様の健康のために、はるばる帝都からやってきた人畜無害な、ちょっと抜けたお嬢様だ。
「道に迷いなさらぬよう、我らがお供いたしましょう」
長老たちもすっかり目尻を下げて、嬉々として彼女を案内してしまった。
ひんやりとした洞窟の奥へと進む。松明の炎が、岩壁を赤々と照らし出した。そこには、何世代もの長老たちが、部族の飢饉や危機の歴史を記録し遺してきた、無数の古い壁画や口伝の碑文が刻まれていた。
「あらぁ、綺麗な絵ですわねぇ……。あの青い狼さんが、太陽を隠して凍えているのかしら」
麗華は、ふにゃりと抜けた声を上げながら壁画を眺めている。
「それは我らの祖先が残した、神話にございますよ。麗華お嬢様」
長老は優しく微笑んで麗華に答えた。
だが。そのおっとりとした瞳の奥で、暗香衛の主としての頭脳は、凄まじい速度で稼働していた。
彼女の眼光は、衣服の擦れる僅かな音の間に、岩壁に刻まれた記号の数々、太陽の数、狼の配置の規則性を絶対記憶の領域へと完璧に焼き付け、暗記し終えていたのだ。
◇
その日の夜。現地の宿舎の一室。
湯浴みを終えた麗華は、湯上がりの火照った身体に薄絹の寝衣を纏い、窓の外の雪景色を眺めていた。
机の上には、携帯用の保温点心箱から取り出した、甘く香る白茶――白牡丹が温かい湯気を立てている。おっとりと一口お茶を啜り、麗華は暗記した洞窟の壁画を狂いなく絹布へ記入していく。
そして、麗華は黒檀の算盤に白い指先を添えてはじき始めた。
パチ、パチ、パチ……。
静寂のなかに、のんびりとした、しかし一点の狂いもない珠の音が響き始める。
麗華は、昼間に洞窟の壁画から暗記した青い狼が飢え、六度の太陽隠れ――つまり、祖先が記録した六度の大寒波。それぞれの間隔を拾う……、影子が書き写してきた朝廷の気候観測記録と、照らし合わせていた。
しかし――ある瞬間、算盤の珠を弾く麗華の指が、ぴたりと止まる。
「あらぁ……? おかしいですわね」
麗華はふにゃりと眉を下げ、おっとりと首を傾げた。
いかにも計算が合わなくて困ってしまったドジなお嬢様の演技のまま、誰も気づいていない驚愕の真実を完全に看破していた。
(おかしいですわ……。若者たちは老人の経験は時代遅れのゴミだと誤解し、長老たちは若者の改革は自分たちの存在否定だと怯えていますけれど……。この二つの記録を徹底的に整理して照らし合わせれば、両者は全く矛盾せず、むしろ互いを必要としていることが証明できますわ)
長老たちの言う山の怒りとは、迷信などではない。
実に六十年の周期で確実に訪れる大寒波と干魃の、血の滲むようなサバイバルの記憶だったのだ。
若者たちの過去二十年しか知らない浅い経験による農業計画では、この大寒波が来た瞬間に作物が全滅し、部族が滅びる地質の限界があった。
(……ですが、朝廷の気候観測記録を見れば、まさに今年から、その六十年周期の大寒波の予兆が始まっていますわ。従来の放牧のままでも、どのみち部族は飢える……。
つまり、長老たちの持つ大寒波への防衛知識を活かしつつ、若者たちの言う新しい温室技術を導入しなければ、どちらにせよ生き残れないのですわね)
若者の理想と、老人の経験。そのどちらが欠けても、蒼狼族は凍土と共に自滅する。
「うーん、どうしても計算が合わないのですわぁ……。これではお父様のお仕事が大失敗になっておしまいですわよね?」
てへ、と可愛らしく呟いた麗華は、すぐに手許の絹布へ、その両者を完璧に融和させるシミュレーション数値を、淀みのない筆致で書き殴った。
「一影。……これを、黎国大使館の陸様の手元へ」
「御意」
闇の中から音もなく現れた一影が、その密書を受け取り、再び夜の雪煙の中へと消えていく。
白牡丹の優雅な甘みで喉を潤しながら、麗華はおっとりと微笑んだ。すべてを救うための完璧な青写真は、いま、夜霧の毒蛇が待つ盤面へと放たれた。
同じ夜。天狼山脈の麓に佇む、黎国大使館天狼出張所。
「天香閣の偽り姫……。ヤギの乳と山のお水を求めて、わざわざこんな最果ての聖域まで乗り込んでくるとは、相変わらずだ」
暖炉の炎が赤々と燃える出張所長室にて、黎国大使・陸紫燕は、細い指先で机を叩いていた。
その瞳は、夜霧の毒蛇の如く冷徹に澄んでいる。
紫燕は、蒼狼族の集落に到着したという麗華への警戒をいつものように最大まで高めていた。
蒼狼族の若者たちを裏から支援し、国境を自らの制御下のもとで安全な交易拠点に塗り替えようとしていたのだ。
一つでも違えれば、あの人畜無害の皮を被った暗香衛の主によって、全ての利権を曜朝朝廷へ毟り取られかねない。だからこそ、彼は徹底して影に潜み、淀みない防犯体制を敷いていた。
不正な侵入に対して部屋の梁や床下には、重量の変化で矢が放たれる独自のからくり罠と、微風でも鈴が鳴る極細の鋼糸が張り巡らされている。まさに鼠一匹通さぬ完璧な網――のはずだった。
だが。
突如として、その静寂が破られる。バァン、と重々しい扉が開き、紫燕の懐刀の密偵が息を切らせて飛び込んできた。
「旦那様! 緊急事態にございます! 天狼山脈の向こう側――羅国軍の偵察部隊が、国境線に向かって南下を始めました!」
「……何だと?」
紫燕の細い眉が、ピクリと跳ね上がる。
彼にとって、戦争による衝突は大赤字となるのだ。
ここで蒼狼族の内紛に乗じて羅国が攻め込んできたら、黎国が投資した莫大な費用が消えてなくなるのだ。
「麗華お嬢様の来訪と、羅国の動き……どちらも一歩間違えれば戦争だな。チッ、仕方のない」
紫燕は即座に立ち上がった。
「出張所の防衛強度を最大まで引き上げる。私が直接、中央司令部へ行って国境の最新情報を確認する。お前はそのまま前線の動向を追うよう部下を動かせ」
紫燕は慌ただしく自室の重い扉を閉めて出て行った――。
◇
カチリ。
部屋の主である陸紫燕が、中央制御室での指示を終え、再び自室に足を踏み入れた、まさにその瞬間。
紫燕の背筋に、氷を押し当てられたような冷たい戦慄が走った。
「……ッ!?」
部屋全体の空気、いや、夜風に混じる微かな上質な絹の匂い。
即座に袖から暗器を構え、警戒の視線を鋭く机の上へと走らせる。
――さっきまで何もなかったはずの卓上に、小さな、しかし見覚えのある上質な絹布が、置かれていた。
窓は閉ざされ、床や天井のからくりは一つとして作動していない。自分が部屋を空けていた間、この厳重な仕掛けを正確に見極めて侵入し、この絹布を置いて立ち去った者がいる。
「……一本、取られたか」
紫燕は、警戒を解かぬようゆっくりと、その絹布へと手を伸ばした。
封を解き、そこに記された天才的な分析に目を走らせた瞬間――紫燕の唇が、不敵な、しかし至福の笑みへと歪んでいく。
そこには、紫燕が持ち得なかった長老たちの口伝と朝廷の気候観測記録を照らし合わせて算出された、シミュレーション数が並んでいた。
天狼山脈の地質の限界、そして今年から始まる大寒波の猛威。
若者の温室技術と老人の知識を融合させなければ、自分の投資した交易ルートすら凍土の藻屑と消えるという、驚愕の真実がそこにあった。
「……見事だ、偽り姫。私に長老の知識を保護させつつ、若者へ温室技術を合法的に買い取れ……というわけですか。これなら安定するから羅国を防ぐ壁になると」
それは、戦争を嫌う紫燕にとっても、最も安全、かつ莫大な実利を得られる最高の提案だった。
「よかろう。貴女がそこまで完璧な盤面を用意してくれたのなら、その誘い、今回も乗らないわけにはいかないな」
紫燕は絹布を指先で弄びながら、夜霧の向こうで優雅に羽を広げた蝶の幻影に向かって、深く、楽しげに杯を掲げるのだった。




