第6話 今襲われたら負けそう……
三人が玄関を出ると清恵もどこからともなく出てきて、悲しげな顔と声で話し掛けてきた。
「晃さん、本当にもう帰ってしまうんですか。お泊まりになれるような支度もございますよ」
晃が首を横に振る。
「明日は平日ですから、祥子を学校に行かさないといけません」
「まあ……晃さんも立派な親になって」
涙ぐむ清恵に対して、晃はそっけなかった。祥子はちくりと胸が痛んだ。晃はさっき清恵は祥子が赤ちゃんの時に食事を差し入れてくれたことがあると言っていた。今でこそ完璧な主夫の晃だが、二十歳以前はむしろまったく生活力がなかったという。そんな晃を慮った清恵の愛を思うと、もう少し愛想よくしてもいいと思う。
「清恵さん、ありがとうございました」
晃の代わりに祥子がそう言った。うまく微笑むことができたかどうかはわからない。けれど清恵は破顔して「まあ、まあ」と喜んだ。
「祥子さんも素敵なお嬢さんに育って。清恵は嬉しいですよ」
照れた祥子は少しうつむいた。そんな祥子をなじる人間は誰もいなかった。
「じゃ」
晃が歩き出そうとした。
それを、瞳が呼び止めた。
「晃」
晃が振り向き、剣呑な目つきで瞳を見る。瞳は相変わらず無表情をしている。
「一歩こちらに来なさい」
目的のわからない命令だった。晃はいぶかしんでいる様子だったが、逆らわなかった。一歩瞳のほうに進む。
「もう一歩」
瞳が晃を手招く。晃がさらに一歩前に進む。
それを見ていた祥子は、晃が瞳にぶたれるのではないかとはらはらした。けれど、これはきっと今生の別れだ。去り際くらい母親の言うことを聞いてやってもいいと思っているのかもしれない。晃にはそういう甘いところがある。
瞳が、両腕を伸ばした。
祥子は驚いて言葉が出なかった。
瞳の着物の袂から出た細く白い腕が、晃の体を、抱き締めた。
強い、強い、華奢な彼女にとってはきっと渾身の力を込めているのであろうと思われるような、強い抱擁だった。
晃も驚いているようだった。彼は目を丸くして硬直していた。
「晃」
瞳が晃の耳元でささやいた。小さな声ではあったが、祥子もかろうじて聞き取れた。
「あなたが無事でよかったです」
それだけ言うと、瞳はさっさと晃から離れた。そして晃に背を向ける。
「もうおゆきなさい」
晃はしばらく母親を見つめていた。少し経ってから、踵を返して門のほうに歩き出した。無言だった。
祥子はしばらく晃と瞳を交互に見ていた。晃も瞳も何も言わない。互いに背を向けて別れようとしている。
「あの」
勇気を振り絞った。
「わたし、また来てもいいですか」
すると背中を向けたままの瞳が答えた。
「好きになさい」
祥子はほっと胸を撫で下ろした。
「じゃ、また」
晃の背中を追い掛けた。門の外には清恵が手配した黒塗りの高級車が止まっていて、晃はすぐにそれに乗り込んだ。祥子も晃に続いて車に乗り込む。すぐにドアが閉まって、車が走り出した。
熱海駅に戻った後の晃は、ずっとぼんやりしていた。二人で熱海駅近くの歴史のある喫茶店でランチを食べたが、特に感想を言わなかった。晃はオムライスを、祥子はマカロニグラタンを無言で平らげた。ちょっと気まずかったが、きっと晃にも心の整理をする時間が必要なのだろう。祥子もあれこれとうるさく言わずに晃についていった。
昼食を取り終わると、二人は帰りの東海道線に乗った。もともと混雑する前に帰りたいという話はしていたが、思っていたより早めの撤収となった。だが用事は全部済んでいるので、祥子には文句はない。そんなことより、早く自宅に帰って晃をゆっくり休ませてやりたかった。
熱海駅が始発だったので、難なく座れた。今度も二人は海が見えるほうの座席に腰をおろした。
窓の外に海が見える。晴れ男の晃が善行を積んでいるため、梅雨なのに晴れた空の下の相模湾がきらきら輝いていた。素晴らしい景色だ。
「また来ようね」
祥子は隣の晃にそうささやいた。晃はしばらく答えなかったが、ややあってこう呟いた。
「二人での旅行、楽しかったな」
瞳と清恵のことを思い出すと、少し胸が痛む。
しかし、晃はぽつりぽつりとこう続けた。
「俺、母さんは俺のことをまったく愛してないんだと思ってた」
祥子はちゃんと聞かなければと思い、姿勢を正し、膝の上のリュックサックを抱き締めた。
「藤牙家を継ぐための、妖魔を倒して家の格を保つための道具だと思ってると思ってた。だから糸織さんと暮らすことも大反対して、俺の将来を藤牙家にとって都合のいいように仕向けようと――」
だが、瞳はきっと晃の顔を見ずに暮らしていた十四年の間晃の無事を祈り続けていたのだろう。
「……だめだ。なんか気持ちの整理がつかない」
晃が自分の額に左手をやる。
「ごめんな。父親のこんな姿、見たくないよな。子供には見せないべきだ」
祥子は首を横に振った。それから、リュックを抱き締めている左手を離して、左隣にいる晃の右手を握り締めた。
「祥子、パパ大好き」
晃は自分の額から手を離して苦笑した。
「ごめん」
晃のほうから手を解いた。祥子は少し不安になったが、彼はその手をジャケットのポケットに突っ込んだ。そこから先ほどの紙が出てきた。瞳が差し出した、四つ折りになっている紙だ。
折り目を丁寧に開いて広げる。そして、反対側のポケットからスマホを取り出す。カメラを起動して、文面を撮影する。これで紙をなくしてもデータで残る。暗記が得意でない彼の生活の知恵だ。
撮影が終わると、彼はそれを祥子に差し出した。
「見てもいいの?」
「うん」
祥子はその紙を受け取り、改めて広げた。
紙は便箋のようだった。上質な白い紙に、シンプルな灰色の罫線がプリントされている。その罫線に沿って万年筆のブルーブラックの文字が書かれていた。几帳面そうな、線の細い文字だった。
書かれていたのは、七人分の人名だった。住所と電話番号、一部にはメールアドレスも書いてある。祥子のためにリストアップしてくれた、信頼のおける呪術師ならびに元退魔師のようである。祥子が知っている人名はなかった。
「お父さん、知り合いいる?」
そう訊ねると、晃は「ああ」と頷いた。
「全員知ってる。中には名前だけで直接対面したことはない人もいるけど、全員誰かはわかる」
「そっか」
「全員糸織さんと俺の結婚を明確に反対したわけじゃなかった人だ」
祥子は細く息を吐いた。
リュックのポケットからスマホを取り出した。晃に倣って、写真を撮る。これでいつでもこの一覧表が見られる。
「そのさあ、一番最後」
名前をたどって、最後の人を見た。ケストナー・小笠原・マルガレーテと書かれている。外国人女性のようだ。
「この人が、なに?」
「お前のひいおばあちゃんだ」
思わず目を丸くしてしまった。
糸織のドイツ人の祖母だ。
「連絡、取り合ってたんだな」
晃はそれ以上何も言わなかった。祥子は、嬉しいやら悲しいやらでどうしたらいいのかわからなくて、こっそり泣いた。
綺麗な海が見える。この景色を、祥子は一生忘れないだろう。




