第5話 祥子のためだったら、俺の傷をほじくり返すことぐらい 3
瞳が部屋を出ていった。障子がするすると閉まっていく。
ややあって、縁側を歩く瞳の足音が消えた。奥のほうに入っていったらしい。
ようやく、晃が足を崩した。
「はあー」
背中を少しだけ後ろに倒し、両手を背後につき、足を前に投げ出す。
「つっかれたー! 疲れた疲れた疲れたあ」
幼子が駄々をこねるように疲労を訴える今のこの晃の姿こそ、祥子にとって見慣れた父親の姿だった。祥子はやっと安心して大きく息を吐いた。祥子も背中を丸めて、正座を崩して横座りになる。
「あのクソババア、マジで嫌い」
ジャケットにスラックスで秀麗な見た目から出してはいけないような言葉遣いで、晃が言う。
「くっそ。こういう時龍平は煙草を吸うんだろうな」
「お父さんも吸いたい?」
「子供の頃は吸ってみたいと思ってたけど、二十歳になる前に祥子が生まれて、副流煙とかいろいろ気になって結局今の今まで一回も吸ったことないや。煙草を吸いたいという衝動より祥子に臭いと言われる恐怖のほうが強いし」
「お父さん自身の健康にも良くないから、それがいいよ」
晃が片手を伸ばして、祥子の頬にこぼれ落ちていた髪を耳に掛けた。
「祥子、ハグして。お父さん好きって言いながら抱きついてきて」
なんだこいつ、と思ったが、今日は祥子のために頭まで下げてくれたので逆らえない。それが晃へのご褒美になるのなら、と思った祥子は、すぐに晃に抱きついた。晃の背中に腕を回し、できる限り力を込める。
「パパ、祥子パパのこと大好き。今日は本当にありがとう」
十年前のようにそう言ってやると、晃が祥子を強く抱き締め返しながら「元気出た」と言った。
どちらからともなく体を離す。
「ねえ、お父さん、お父さんは渋谷区育ちなんじゃなかったの? ここ、なに?」
十六歳の祥子に戻って、静かにそう問い掛けた。じゃっかんなじるようなニュアンスも入ってしまったが、実際に祥子は困っているので許されたい。
「ここはお父さんのお父さんが死んだ時にあのババアが第一線から離脱して買った移住先だよ。お父さんが子供の頃住んでたわけじゃない。お父さんの弟が、母さんが引っ越したから、と言って連絡してきたのを思い出してさ」
「お父さんに弟がいたことも知らなかったよ」
「お父さんは三兄弟の長男だよ。だからしっかり者で真面目な感じするでしょ」
どこの口が言ってるんだ、と思ったが言わなかった。
「お父さんの上の弟は今京都に住んでて、下の弟が松濤の本家に住んでるはず。詳しくは知らない。そのうち弟たちの間で血みどろの相続争いが始まると思うんだけど、あのババアはそこにお前が割って入って当主の座を奪い取れって言ってるの」
「なるほど……」
あの祖母にどれだけ肉親への愛情があるかはちょっと気になるところだが、普通の親だったら息子たちが相争うところは見たくないだろう。小説に出てくる旧家の奥様のように家系の存続に執着しているようなら、なおのこと長男に跡を継いでほしいはずだ。そして、祥子が見た感じ、瞳はおそらく後者の気がする。
自分たち親子がミステリかホラーに出てくるキャラになる日が来ようとは、祥子はまったく思っていなかった。松濤は都会でセレブの街だが、藤牙家が実質因習村であることは理解した。
「なんだよ、祥子が生まれた時には魔女の血を継ぐ混血の子供なんて汚らわしいなんて言ってたくせによ。俺は一生忘れないからな、糸織さんのことも祥子のことも侮辱しやがって。なのに今になって、祥子に婿取らせて継がせるなんて。何様だよ」
糸織の祖母が本場ドイツの魔女であったことを言いたいのだろう。祥子には八分の一ドイツ人の血が流れている。確かに糸織は少し白人っぽい顔立ちをしていた。しかし晃そっくりの黒髪黒目に生まれた祥子には実感がない。
「あの人、お母さんのこと嫌いだったんだね」
「本当に嫌いだったみたい。ババア、俺が糸織さんにたぶらかされて騙されたと思ってるみたいだから。大事に管理して育てた跡取りが知らない女を好きだの愛してるだの言ってるのが気に食わなかったんだな。俺のほうが先に糸織さんに告白したんだけどな」
お茶を飲みつつ、ぽつりとこぼす。
「俺に感情があるとは思ってなかったんだろうな」
多くの十代の少年がするように異性に恋をするとは、想定していなかったのだ。
「まあ、でも、あの人の人脈は本物だから。対魔協を引退した大御所たちとつながってる。大御所たちも、現役でまだ呪術師をやってる人もいるだろうし、そのまた子供とか孫とかに強い力を持った人間がいると思う」
「あの人も対魔協関係者だったんだ」
「ていうかお父さんのお父さんが対魔協の代表理事だったからな」
祥子は目を真ん丸にした。
「え……なに?」
「言わなかったっけ」
晃もきょとんとする。
「お父さんのお父さん、対魔協のトップだったの……? 企業で言うと、社長ってこと?」
「あれ? 説明してなかった? お父さん、藤牙家のこと、なんにも説明してなかったんだな。あはは」
「あははじゃないよ!」
祥子が晃の腕を叩くと、晃が「ごめんごめん」と言った。
「逆に、なんで対魔協の人間に俺が晃って呼ばれてるか疑問に思わなかったの? 藤牙さんが複数いるから、周りは下の名前で呼んで区別してたんだよ。代表理事がお父さんの父親、理事に父親の弟――俺にとっては叔父さん、お前にとって大叔父さんだな、俺の後輩に今京都にいる弟がいたんだよ。このへんがみんな藤牙さんだったから、俺が職場で晃って呼ばれるようになったんだ」
「ふおお……ぜんぜん知らなかった……教えてよ……」
「めんどくせえ」
「それで、お父さんのお父さん……、おじいちゃん? は、亡くなってるんだ?」
「そう」
晃がまた、お茶を飲む。
「妖魔に負けてな」
祥子は唾を飲み込んだ。
「五年くらい前。代表が勝てない相手に勝てる人間は晃しかいない、とかなんとか言われて呼び出されて、退治した。A級だった。その程度に負けちゃうんだ、代表理事までやってた人が、と思うと、むなしかった。俺が子供の頃は最強だと思ってた人が、俺が簡単に倒せる程度の雑魚に負けちゃったんだ。そう思ったら、なんか悔しくて、認めたくない気持ちがあって、葬式に出れなかった。当時は俺もまだ二十代で若かったからなあ」
どことなくあっけらかんとしている晃の言葉に、祥子がうつむく。
「五年前じゃ、わたし、もういたじゃん……」
「知らない人の葬式なんて、小学生にはつまらないだろ。父親の俺も行かないのにさ」
祖父が亡くなったことにも気づかずにのうのうと暮らしていた自分が悲しいが、知っても小学生の祥子には何もできなかっただろう。小学校五年生の子供が、この世で唯一の保護者である父親に背いて祖父の葬式に出る、というのは、難しそうだった。
しかし、晃にもそんな子供っぽい感情があったのだ。そうと知ることができたのは、ちょっとだけ嬉しい。普段はへらへらしている父親だが、やはりどこかにこの人は鋼メンタルで押しても引いても何も思わないのだ、という印象があったのかもしれない。どっしり構えた、安定感のある親だ。それは晃自身が努力して作った祥子のための父親像なのかもしれなかった。
「おじいちゃんのことは、好きだった?」
「わからない。少なくとも母親よりはマシだった。まったくもって腹を割って話すような関係じゃなかったし、やっぱり家を継げ継げってうるせえなとは思ってたけど、武道を習わせてくれたことにだけは感謝してる」
縁側から足音が聞こえてきた。瞳が戻ってきたのだろう。晃も祥子も急いで座布団に戻って姿勢を正した。
案の定、瞳が障子を開けて顔を出した。足袋で畳の上を滑るようにして歩き、卓を挟んで晃と祥子の向かいに座る。
瞳が卓の上に一枚の紙を置いた。B5くらいのサイズの白い紙だ。丁寧に四つ折りにされている。
「心当たりのある人間をリストアップしました。みんな一線を退いた老人ですが、いずれも一年以内に連絡を取り合ったことがあるしまだ葬式に呼ばれていないので、元気でやっているはずです」
晃がその紙を受け取り、開いた。ひとが読んでいるものを覗き込むのは失礼かと思い、祥子はその隣で目を伏せて次の反応を待った。
「片っ端から連絡すれば、何人かは力を貸してくれるはずです」
「わかりました」
ふたたび紙を四つ折りにして、ジャケットのポケットにしまう。
「ありがとうございます。連絡します」
「あなたのことだからそこまで気を回すことはないでしょうが、念のため。これ以上私の許可はいりません。好きになさい。万が一死んでいて遺された家族が藤牙家に一報入れてほしいと言ってきたら頼みますよ」
「自分で入れろとお返事します」
そこまで言うと、晃は「では」と言って立ち上がった。
「これで失礼します。都内の自宅に帰ります」
瞳はそんな晃の様子を目で追った。
「都内に住んでいるのですね。具体的に、どこですか」
「俺の口から教えたくありません。対魔協の持っている物件のひとつなので、調べようと思えば調べられますよ」
祥子は晃と瞳のやり取りにはらはらしていたが、晃が部屋を出ていったので、慌ててその後を追い掛けた。瞳はさらにその後をついてきて、部屋の障子戸を閉めた。




