第3話 自由になった竜
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すっかりあたり一面は炎に包まれて赤く燃え上がっていた。波うつオレンジと赤が眩しく踊っている。あたりの温度は高まり、まるで焚き火の中に入っているようだった。
火は順調に小屋を包んでいき、とうとう崩れ落ちて天井が無くなった。炎がいよいよ渦を巻いて燃え盛っている。
結構炎の中ってうるさいんだね。炎のごうごう燃える音と、たまにどこかでバキバキ何かが倒れるような音、それに、なんという熱風だろう。
わたしの入っている鉄檻は、倒れたり、落ちてきた燃える材木に囲まれ、炎の渦の中にいた。わたしの入っている鉄の檻は炎で炙られて色が真っ赤になっていた。しゅうしゅうと音を立てていて、とても熱そうだ。
こういった木造の建物の火事でできる炎の温度では鉄は溶けない。溶鉱炉の中や火山のマグマでもなければ鉄の融点に達しない。だが、溶けるとまではいかなくとも、500度も超えれば鉄は相当に強度が下がるのだ。
わたしは自分の足に繋がれた鎖を力の限り打ち付けた。ガキ、と心地よい金属音を立てて鎖は砕けた。
赤々と変色した鉄に触れてもまったく熱さを感じなかった。竜の身体に改めて舌をまいた。ひょっとすると、わたしは溶岩の中で暮らすような種族なのかもしれない。
鉄檻は足枷の鎖よりもずっと太かった。
どう壊したら良いか分からなかったが、勢いをつけて頭突きを何回もくらわすことで、ようやくひしゃげさせることに成功した。
頭に生える角はかなりの硬さを誇るようで、頭突きを何回も鉄檻に食らわせても傷一つついていない。わたしは檻のひしゃげた隙間に身体をねじ込むと、翼をつっかえさせながら、ようやく檻の外に出ることができたのだった。
まだ翼があることには慣れないね。
オレンジと赤の波うつ視界の中を歩きながら、わたしの心臓はどくどくと脈を打っていた。燃え盛る材木の間を縫うように歩いたりくぐったりしながら卵泥棒たちを探した。
わたしにはまだ最後にやろうと思っていることがあった。わたしは見つからないように猫のように身を低くし、炎に紛れてあたりをうかがった。
建物を遠巻きに仰ぎ見ている卵泥棒達を見つけるのにそんなに時間はかからなかった。こちらは炎の中にいるので見つからない。
卵泥棒たちは固まって何やら話をしていた。いち、にい、さん、し…卵泥棒は全部で6人。わたしは静かに、その1人1人、全員の姿を頭に刻みこもうとジッと見ていた。
わたしを鉄の棒でなぐったやつがいた。わたしを見て生意気だと馬鹿にした太った男も、わたしを檻に入れる時に足蹴にしたやつも…見ているだけで身体の内側にめらめらと炎をが湧き上がってくるようだった。
そう。わたしは卵泥棒たちの顔を頭に刻むために彼らの顔を最後に焼き付けようと思っていたのだ。
ドラゴンの卵に関わる商売をしているのだ。この先、またどこかで出会うかもしれない。そしてその時、わたしが立派に強く成長していたら卵泥棒たちに仕返ししてやろうと思って。
卵泥棒たちの顔を目に焼き付けた黒い竜は、猫のようになめらかに、彼らに見つからぬよう夜の闇と炎に乗じて森の中に姿をくらませていった。
◆
火は長い時間燃え続けていた。ようやく収まったのは、朝方になる頃だった。
夜が明けた森の中。焼け落ちた小屋の跡地で、卵泥棒達は驚くべきものを見たのだった。
てっきり檻から出ることが出来ず焼け死んだ仔竜の焼死体があるとばかり思っていたのだが、檻も足枷も壊されていて、肝心の仔竜がどこにも見当たらない。
燃えて真っ黒になった炭の中で、鉄の檻はなんとか形を保っていた。檻を調べていた1人が口を開いた。
「檻がほら。内側からひしゃげてる。木材が落ちてきたひしゃげかたじゃないぞ。信じられないが、どうやら自分で檻を壊して逃げたようだ。」
試しに、といった感じで檻に力を入れてみる。が、人間の力では煤で黒くなったひしゃげた檻はびくともしない。
「そうかぁ‥。逃げたのか…。仔竜が焼け死ななくて、よかった…」
腕を包帯でぐるぐる巻きにしている男が言った。
「そんだけ手を火傷してよく言える。あーあ、こんなことなら、もう少し叩きのめしておくんだった。」
壊れた足枷を調べていた太った男がいまいましそうに言った。
「怪我でもしたら商品が売れなくなる。脚を引きずってるような竜に誰が乗ると思うか。」
「それにしてもなぁ。いくら竜だからって言ってもよ。あの火事で死なないなんてこと、あるのか??」
「さぁね。それより、生まれてすぐに火を吹くなんてねえ。僕は聞いたことがないねえ。長いこと仕事してるけど、こんなことは今までなかったよ。普通、火が通るまで2年はみるもんだろう?」
「───そうだよなあ。もしかしたら、俺たちとんでもないモノを逃してしまったんじゃないのか…。」
男たちは顔を見合わせてため息をついた。各々の胸のうちはさまざまだが、少なくとも大事な商品が逃げ出したことと、小屋を1つ失ったことでお金の工面が大変になるだろうという心配をしているという点では合致していた。
「逃げ出してからどのくらい経った?」
「一晩だろう。竜は体力があるし、翼を持つわりに脚が遅いわけじゃあない。どっちに逃げたかも分からない。」
「そう悲観するな。」
焼け跡を調べ終わったらしい男がぱんと手を叩いた。
「仔竜じゃ、ここまでの火に耐えられる程鱗が成長していないはずだ。親竜はそのためにわざわざ住処の火山を離れて産卵するくらいだ。もしかしたら弱って、そう遠くにまで行ってないかもしれんぞ。」
「なるほど。一理あるな。」
「売れば良い値がつく。小屋も焼けちまったし、心して探そう。」
◆
一方その頃、黒い仔竜は卵泥棒たちの予想とはまったく違い、元気に脚を進めていた。
火事を起こしたドラゴンは、卵泥棒達からまんまと逃げ出すことに成功したのだった。
あれほどの炎に巻かれたというのに、わたしの身体には火傷ひとつないようだった。何かあるとしても、煤のせいで、白かった腹側も黒くなって、本当に全身が真っ黒になってしまったぐらいだ。お風呂入りたーい。
火事から一昼夜、わたしは森を歩き続けている。卵泥棒たちの話では、どうやらわたしは高値で売買されているようだった。
だから、逃げたわたしを捕まえようと追っ手がかかっているはずだとわたしは考えた。なるべく遠くへ逃げようと道なき道を進んでいる。もうしばらくは歩き続けよう。
しかし、そんな必要もないのではないかというほどに歩きにくい森だった。草木が鬱蒼としげっていて道らしい道がなく、見通しもひどく悪い。たまに獣道らしいものを歩くことがあるが途中で途切れたり枝分かれしたりしていた。とても人間はこの森を歩くのは難しいだろうと思った。
自分の身体の小ささを除いても、この森はとても大きくみえる。木々は苔むしていて、太い。この森はほんとうに豊かな森のようだ。見上げるほどの木々は、驚くほど高いところに梢を伸ばしている。何メートルあるだろう。
幹は、人間の大人が10人手を繋いでも囲むことが出来るかといった太さがあった。苔むした地面はふかふかと湿っていて、あちこちに見たことがない草花がたくさん生えている。苔や湿った土の匂いがむっと鼻を押す。足元は湿っているのか、ひんやりとしていた。
まるで野生動物になった気分だった。そして、実際じぶんはいまのところ野生動物に当てはまるなだろうと思ったりした。
細長い透けている光る虫がほわほわと浮かんで周っているのをみて、改めて前世とは違う世界にきた感じがして不思議な気持ちになったりもした。
そして歩きながら、まずいぞと思った。お腹が空いてきたのだ。最初こそ興奮で気がつかなかったけれど、これからいったい自分はどうやって生きていこうかと心配が頭をもたげてきたのだ。
孵ってそうそう監禁、檻の中のペットよろしい人生になるところだったわたしは逃げ出したいと思って逃げ出した。だけど、ここはわたしの知っている世界ではない。ましてや大自然の中で生きた経験など一度もない。何があるのか分からないのは危ないことだ。
周りをうかがうと、鳥が飛んでいたり、虫があたりに飛び跳ねたり這っていたりしていた。違う世界に来たといっても、見たことがない種類の生き物というだけで、自然の仕組みはそこまで大きく変わらないのかもしれない。つまり、弱肉強食の世界だ。竜の子供は食物連鎖ピラミッドの中でどの位置にいるのだろう。
食べ物のことが心配だ。逃げ出すことに必死で、逃げ出した後のことを考えていなかった。
そもそもわたしは何を食べて生きていくものなんだろう。爪と牙があるから、肉だろうか。ドラゴンだし。野菜を食べる必要はあるのかな。
狩りなんてしたことがないし、食べて安全な種類の植物もわからない。食べていくことが出来ないとなれば、生命の危機だ。
狩りなんて、きっと親に教えてもらうか、でなければ本能に従ってできるようになるものじゃないのかな。
親はいないし、人間の感覚が強く残っているせいか、本能にも期待出来そうにない。人生…もとい竜生詰んだかも。
もしかして、あのまま卵泥棒のもとで誰かに買われていっていたほうが幸せな人生を送れてたのかも…?
そこまで考えて、わたしはいやいや、と頭を振った。人間の記憶を持っていて、人間に飼われるなんてなんだかすごく嫌だ。自由もなさそうだ。だって、猛獣なんてものは檻の中で飼うものだろうから。
おそらくまだ巣の中の親の羽の下で面倒をみてもらう時期の仔竜だろうのに、わたしは卵泥棒達によって親から離されてしまった。
そもそもの不幸の元凶であるあんな泥棒たちのところにはこれっぽっちも長居したくなかった。だから逃げ出して正解だった。そう自分で自分に言ってあげた。
過ぎたことよりもこれからのことなのだ。
飛ぶことができたらば狩りができるかもしれない。そう思い背中に生えている翼を伸ばすと、翼がぐーんと広がった。檻の中では十分に伸ばすことが出来なかったけれど、伸ばしてみるとなかなか身体に対して大きい翼が広がった。
飛べたら、もっとずっとはやく遠くまで移動できるだろうし、狩りも出来る。
試しにほっ。と勢いをつけて跳び上がり、翼を動かしてみるが、ぜんぜん飛べない。
というより、上手く動かすことができない。翼を広げて羽ばたくと、どうも空気が翼膜にぶつかってひどく翼が重く感じるのだ。鳥のように羽ばたいてみたり、飛行機のように走り回ったりしてみたけれど、どれも上手くいかなかった。
飛ぶのはあきらめて他の方法を考えたほうが良さそうだ。まあまだ赤ちゃんだし。鳥の雛だってすぐには飛べないし…。
◆
わたしが歩き疲れてそろそろどこかで休もうと思い、寝床となりそうな場所を見繕っている時だった。遠くの森の奥から物音がしたのだ。
卵泥棒たちの追っ手が追いついてきたと思い、あわてて茂みに身を隠した。じいっと身体を動かさないようにしてあたりの様子を伺う。するとやはり、遠くからバキバキと音が聞こえてくる。
卵泥棒達なのか?
それにしては何か変だ。
音はどんどん近づいてきていた。葉の擦れる音に、骨を割ったような小気味良い音──これは、木が薙ぎ倒される音だ。
そう気が付いて、はっとした。
これは、人間じゃない…。
そう思ったものの動くわけにもいかない。だが、そうこうしている間にも、わたしが隠れている茂みの方向めがけてそれはどんどんこっちに向かってきていた。
うそ、位置がバレている──!?
ザァッと鱗が逆立った。たまらず顔を茂みから出すと──大岩のように巨大な熊と目があった。
自分が小さいのもあるのだが、それでも、熊は人間よりずっと大きい。黒い硬そうな毛で身体が覆われているのだが、その身体が明らかに筋肉の塊のようだった。脚は太く、いかにも殺傷能力の高そうな爪がみえる。あの太い熊の腕力で鋭い爪を叩き込まれたら容易に引き裂かれそうだ。
そんなおそろしい熊が、走るたびにこっふこっふと声(息?)をたてながら自分めがけて突進してくるのはあまりに衝撃的な光景であった。
食べられる!
わたしの脳に小枝のようにぽきりぽきりと食べられる自分の姿が浮かんだ。
隠れていても、無駄。そう悟ったわたしは弾けるように駆け出した。全身の鱗が泡立つような感覚だ。
こわい、こわい。
逃げなきゃ。
心の臓がどくどくと音を立てて血液を送っている。
アドレナリンが出ているのか、自分が思っている以上に速く走れることを知った。だが、熊もはやかった。
熊はその大岩のような巨大な身体で、車のようなはやさで駆けてくる。
4つの脚を懸命に動かして地面を蹴り進むが、気が付けば二頭の距離は徐々に縮まっていった。そもそも向こうとこちらでは歩幅が違うのだ。
だが小回りはこちらの方がきくようだ。岩や、木の幹等の障害物を上手くつかい逃げ続ける。おそらく平らな障害物のない地形であれば瞬く間に熊の餌食になっていただろう。
肺が刺すように痛かった。手も足も千切れそうに痛い。限界は超えてる。でも逃げないと死ぬしかない。逃げなきゃ。
樹林を抜けると見上げるほどの大きな崖が現れた。迷う暇などなく、鉤爪と軽い身体を駆使して、わたしは崖をなんとか登っていった。
もしかしたら身体が重い熊にはこの崖は登れないかもしれないぞと淡い希望を持ちつつ下を見ると、恐ろしいことに熊もわたしの後を追って登ってきているのが見えた──!
──くそっ!いったいどうして、なんで、こんなに熱心に、追いかけてくるんだ!
ごふごふと、荒々しい熊の息遣いまで届いてくる。鋭い小さい黒い目はしっかりとわたしを見据え、鉤爪を使ってぐんぐんと距離を縮めていた。あんな鋭い爪で殴られたら考えるだけでも恐ろしい!
「ギャアーー!(助けてー!)」
上へ上へと逃げていくが、
───うわぁぁあ──!なんだこれ──!
頂上に着いたわたしが目にした光景は、深い、深い、奈落であった。
火山の火口のようなその奈落の入り口。だが、あまりに深いため底がみえない。いったいどこまで深いのだろう。
突如、背中に火箸で殴られたかのような衝撃が走った──
思わず体制を崩し、叫び声を出すことすら出来ないまま、わたしは足元の岩々とともに重力に引かれ落ちていく。
振り返ると熊の手が伸びていた、が、一瞬でそれははるか上の方へ遠ざかっていった。
熊は名残惜しいような面持ちで、左腕をこちらに伸ばしたまま、反対の手を、爪を、ベロベロと肉肉しいピンク色の舌で舐めに舐めていた。真っ赤な血と黒い鱗が見えた。
あぁ、この感じ──。そうか、背中をやられたんだ──。
痛い‥。
きっと熊は竜が好物なんだろうな‥あんなに熱心にベロベロ舐めて‥わたしを食べたかったんだ‥。
死ぬところだった。
今、わたしは、たまたま運が良くて、死んでないだけだ。
死が、触れるんじゃないかと思うほどリアルに感じられた。
ゾッとした。冗談じゃない。死にたくない。
でも、このままだと落ちて死ぬ。たまたま奈落に落ちて、熊が追って来られないから、死が延びただけだ。
わたしは、生きたいと思った。
落下死──。人間だったらもう諦めていた。
だが、今はドラゴンだ。背中に翼がある。
飛べなくとも、紙飛行機のように滑空するか、パラグライダーのように落下速度を落とすか出来ると思った。
が、うまくいかない。
なんでだ。なんで!
くそっ。たぶん風圧だ。
風圧で翼がうまく開かないんだ。
───鳥肌、もとい鱗肌で背中が逆立つ。
また死が近寄ってくる。嫌だ!
この、役立たずの翼!でっかいだけ!この!イラつく!翼っ!
えいっ!!
火事場の馬鹿力、咄嗟の判断で、翼を前脚で翼をこじ開けた。
うわぁっっ‥
途端に風の抵抗の衝撃が身体を襲った。翼が空気を掴んだ、と思ったら今度は翼が空気を切り裂きはじめる。
これはよくない。翼のかたちがよくない。
これはスピードを出す時の翼のかたちだ。
はやぶさがするような、急降下する時の翼だ。
そう思ったが、もう無理だ。いよいよ空気圧のせいで翼が固定されてしまい動かない。Gがすごい。なんて思い通りにならない部位なんだ。
ビューッと風を切る音。圧で頭も上げられない。何も見えない。
バンッと大きな音を立て、なにかに全身をひどくうちつけ、肺の空気を吐き出した。
──壁だ‥
朦朧とした頭で、半ば本能的に壁にしがみつく。
この高さから落ちたら、死ぬ‥。なんせ底がみえないのだ。
ガラガラと壁は脆く崩れていく。
わたしは揺れる視界の中、懸命に壁に爪をたてていた。
それでも崩れる。
だが、ただ落ちるよりはマシだ‥。
抗えない眠気のようなものが波のように襲いくる。意識が何度も何度も自分から離脱してしまいそうになる。
だめだ、だめだ。
意識を手放したら、落ちたら、死んでしまう‥。
そう思い牙を食いしばり、壁にすがりつく。
どれほど耐えたかよく分からない。数分だったのかもしれないし、何時間もだったかもしれない。
ただ、最後にみた景色は、井戸の底から空を眺めたような、暗闇に浮かぶ丸い空がどんどん、どんどん、小さくなっていく様子だった。
───視界は暗転し、わたしは意識を手放した。
◆