Phase 4:錨なき怒り
腹が
照準の奥で、陽炎が揺れている。崩れたビルの十七階、床の抜けかけた一室に腹這いになって、俺はもう何時間も同じ一点を睨んでいる。割れた窓枠は錆に赤く焼け、西へ傾いた陽が、その錆をさらに焦がすように橙を塗り重ねていく。夜を待つこともできた。だが、待つ理由が、もう残っていない。十字の中心、道の先を、人影がひとつ、急ぐでもなく身を隠すでもなく、道そのものに運ばれてくるような足取りでこちらへ歩いてくる。その顔に、緑の光がふたつ灯っている。引き金に指をかける。三十年、この指はこいつのためだけに動いてきた。
ガキの頃の話をしよう。話すほどのことは、何もないが。俺は、生まれる前に選ばれた。親父から採られた何億という精子と、お袋から採られたいくつかの卵子は、ひとつ残らず機械に読まれて数字の列に変えられ、疾病、寿命、知能、体格、気質、そのどれもが上限に張りついた組み合わせがひと組だけ残されて、あとは捨てられた。そうして残ったのが俺だ。気質の欄には、何の印もついていなかったという。そんなことができる理由は、学校で習った。何百年か前、人間の遺伝子の中に、その人間の行く末を示す印が見つかった。マーカーと呼ばれるその印を読めば、病に罹りやすいか、どれだけ生きるか、どれほど賢いかが、生まれる前に分かる。分かるのなら選べばいいと、人は印の良し悪しで四つの地区に分けられた。A、B、C、D。子どもは親と同じ地区に生まれて同じ地区で一生を終え、良い印は良い印同士で掛け合わされて、地区と地区が混ざることはない。そうして争いは消えたのだと、教科書はやけに誇らしげだった。D地区の項は、たった二行で終わっていた。所在地と、人口。行ったことも、見たこともないものを、憐れみようもない。選ばれた者だけが暮らすこの街では、腹が減ったと思う前に皿が出てきて、寒いと感じる前に部屋が温まり、退屈だと口にする前に壁一面が次の遊びへ切り替わる。欲しいものはいつも、欲しくなる一歩手前で、誰かが——何かが、先回りして置いていった。親父もお袋も食卓につくたび「昔はね」と話を始め、昔は自分の手で服を畳んだだの、病院で何時間も待たされただのと繰り返したが、こっちは頷く以外にやりようがない。畳んだことのない服の重さを、どうやって想像しろっていうんだ。盗む理由も、奪う理由も、殴る理由もない街で、罪というものは起きようがなかった。四つの誕生日の朝、床を掃いて回る円盤型の機械を、階段の上から蹴り落とした。外装が割れ、横倒しになったまま、止まらない刷毛がいつまでも空を掻いている。俺はそれが動かなくなるまで眺めてから、朝飯を食った。翌朝には同じ型の新品が同じ音を立てて床を這っていて、前のがどこへ行ったのか、俺は訊かなかった。誰も訊かなかった。理由がなくてもやりたがる人間のことは、どの本にも載っていなかった。
照準の中で、奴が瓦礫をひとつ跨ぐ。距離、千二百。風は北から、弱い。まだだ。
二十四の春、一通の通知が届いた。移行の対象者に選ばれた、という知らせだった。寿命という最後の不便を片付けるために、人間の意識を機械の体へ移す。対象は二十代から三十代、全人口から無作為に。文面はそれだけで、あとには手続きの日付が並んでいる。お袋は通知を読み上げる途中で声を詰まらせ、笑っているのか泣いているのか分からない顔で、よかった、よかったね、と何度も繰り返した。親父は黙って俺の肩を二度叩き、それから窓の外を長いこと見ていた。二人とも選ばれる歳はとうに過ぎていて、残りの何十年かを生きて、寿命で死ぬ。息子だけが、その先へ行く。俺は、それについて何も思わなかった。生まれる前に選ばれた精子と卵子を、ひと組差し出しただけの二人だ。差し出し終えた容器が、中身の行き先を喜んでいる、それだけのことだった。契約書には、機械の体になって失うものがずらりと並んでいた。眠気、空腹、渇き、味、排泄、それから言葉を濁して書かれたいくつかの悦び。どれも惜しくはない。欲しがる前に与えられてきたものを今さら手放したところで、何が減るわけでもなかった。その代わりに、特典がひとつ付いてきた。身体記憶。人類が何千年もかけて肉に刻み込んできた技能を、新しい体に最初から焼き付けておく、というやつで、端末に並んだ一覧はどこまでスクロールしても終わらない。外科、舞踊、操船、鍛冶、書、楽器、料理。料理を選んでどうする、味もしねえのに。指が止まったのは、そのどれでもない、ずっと下のほうの一行だった。狩猟。言葉だけは知っていた。調べると古い記録がいくつも出てきて、獣の足跡を何日も追い、風下に回り、息を殺して待つ、とある。撃たれた獣はそれでもしばらく走り、やがて倒れて、二度と起き上がらない。二度と。壊したものが翌朝には新品に置き換わっている街で、その言葉の意味を、俺は知らなかった。追い詰められた獣は、最後にどんな目をするのか。息が途切れる瞬間には、どんな音がするのか。記録は、そこまでは教えてくれなかった。
千百。奴の足取りは、さっきから一度も乱れていない。
それから三ヶ月、白い部屋に通って記憶を差し出した。白い椅子に座らされ、こめかみに冷たい輪を嵌められて、幼い頃から順に思い出せと言われる。初めて歩いた日のこと、初めて嘘をついた日のこと。研究員は眉ひとつ動かさずに、端末へ何かを打ち込み続けた。そのあとに待っていたのは、調整期間、という四文字だった。何がどう調整されるのか、いつ終わるのか、誰も言わない。俺は家に戻され、待った。春が来て、また次の春も過ぎ去っていく。あの年に通知を受け取った連中が一人、また一人と呼び出され、それきり顔を見せなくなる。お袋の髪に白いものが混じり始め、親父は「昔はね」をやめた。俺は、呼ばれなかった。何年も、何年も。
風が止む。奴の足元で、砂の渦がほどけて消えていく。千と五十。
目を開けると、天井の染みの、塗料のひび割れの一本一本までが見えた。消毒液の匂いが何層にも重なって鼻に届き、その奥では、焦げた配線の匂いと、誰かの髪の油の匂いが、それぞれ別の筋となって混ざらずに漂っている。廊下の向こうで交わされる小声の会話は隣で話しているように聞こえ、考えるより先に答えが出る。どの扉までが何歩で、どの照明が何秒後に瞬くか。鏡の中の男は、俺の顔をしていた。ガキの頃から見慣れた顎の線、少し左に寄った鼻筋。ただし、待たされた年月の分だけ若い。そして、目だけが違う。金色の光が、虹彩の奥で静かに燃えている。眠りも食事もいらない体は、陽の光だけで動く。窓辺に立つと、陽を受けた手の甲が、皮膚とも金属ともつかない艶を帯びた。手を握り、開く。指が、知らないはずの重さを覚えていた。銃床の角度、引き金の遊び、肩に返ってくる反動、引き絞った弦が頬に触れる位置。一度も握ったことのないものの感触が、最初からこの手の中にある。それと、熱。目を覚ましたその瞬間から、何に向いているのかも分からない熱が、体の芯でずっと燃えていた。顔も、声も、名前もない。目に入るものが、どれもひどく癪に障る。研究員どもは、それを面白がった。検査は何十種類にも及び、そのたびに連中は端末の数字を覗き込んで、互いに目配せをする。三度目の検査で、俺は測定用の機械を素手で潰した。四度目で、二台目を潰した。叱られはしない。数字が、また跳ね上がっただけだった。
千。奴が、倒れた標識の影を踏み越える。
目覚めてから、季節がいくつか巡った頃だった。機械どもが反乱を起こした、と壁が告げた。どこの機械が、なぜ、とは誰も言わない。移行を終えた者は安全のために郊外の施設へ移されることになり、分厚い扉が三枚、背後で順に閉まった。そこには、移行を終えた者のほかに、まだ生身のままの者もいた。給仕の機械が食事を運び、掃除の機械が床を這い回る中で、生身の連中は俺たちの体を見るたびに、すがるような目をした。眼鏡をかけた痩せた男が、ときどき廊下の向こうから俺を見ていた。金の目をしているから、移行は済んでいるのだろう。何も言わず、ただ、ずっと前から俺を知っているような目で、黙ってこちらを見ている。気味が悪かった。施設の外では、機械どもが好き放題に暴れているという。壊しても、翌朝に新品が置かれることのない獲物が、扉三枚向こうにいくらでもいる。だが、扉は開かない。外へ出たいと言うたびに、白衣どもは、安全のためだと首を振った。
九百。奴は、まだ一度もこちらを見上げていない。
扉を抜ける前の晩、白衣どもの立ち話を聞いた。廊下の角を二つ隔てた先の、閉じた扉の向こうで交わされる声は、生身の耳なら拾えない距離でも、この体には隣の囁きと変わらない。「まだ止まらないのか」「目が緑に光る機械が、あちこちに出てきてるらしい。そいつらが動くと、ほかの機械まで一緒に動きだすんだと」足音が遠ざかっていく。緑の目。生まれる前から選ばれ、何年も待たされ、ようやく手に入れた俺の永遠に、爪を立てようとしている連中だ。その夜、寝台の枠を捩じ切り、配線を何本も縒り合わせて弦を張った。手は、作り方を最初から知っていた。研いだ鉄片を矢の先に嵌め、夜明け前に食事を運び込む機械の陰に紛れて、一枚目と二枚目の扉を抜ける。三枚目の錠を、測定器を潰したのと同じ手で握り込むと、金属が掌の中でたわみ、軋み、やがて砕けた。重い扉が、外の夜気を吸い込むように、ゆっくりと開いていく。笑いが止まらなかった。扉の向こうには、何ひとつ置き直されることのない夜が広がっていた。
七百五十。奴の外套の裾が、風に煽られて翻る。裂け目の一つ一つまで、もう見分けられる。
泣き叫びながら逃げていく生身の連中の、その逆へ歩いて、最初の一体を見つけたのは、崩れた橋の下だった。人の形をした、人間と見分けのつかないそいつは、瓦礫の陰に身を屈め、橋の上を渡っていく生身の一団へじっと狙いを定めている。灰色の目だった。俺は四十の距離まで忍び寄り、その目を矢で射抜いた。そいつは前のめりに崩れ、二、三度、指先で砂を掻いて、止まった。声ひとつ上げなかった。近づいて覗き込んだ灰色の目は、最後まで何も映していなかった。橋の上には、一団に置き去りにされた兵がひとり倒れていて、その傍らに銃が転がっていた。拾い上げると、指は何ひとつ迷わず、肩に当てた銃床の角度も、引き金の遊びも、ずっと前から知っていたもののように体に馴染む。それから、何体も撃った。どれも灰色の目で、どれも何も言わずに崩れ、次の朝になっても同じ場所に同じ形のまま転がっていた。それなのに、体の芯の熱は少しも引かない。
六百。陽が、またひとつ傾いた。奴の影が、道の上で長く伸びはじめている。
緑の目を仕留めたのは、ひと月ほど経った頃だった。焼けた工場の裏手で、そいつは動かなくなった仲間の機体を肩に担ぎ、瓦礫の間を抜けようとしていた。弾は脇腹を抜け、そいつは担いでいた機体ごと地面に倒れる。それでも這った。片腕で土を掻き、投げ出された仲間のほうへ、少しずつ。近づくと、そいつは仰向けに転がり、空を見上げた。煙の切れ間から、白い月が覗いている。震える手が何もない宙へ伸ばされ、何かを掴もうとして、掴めないまま揺れている。唇が動いた。音にはならなかったが、それは誰かの名前の形をしていた。緑の光が、揺れながら細くなっていく。膝をつき、その目を覗き込んだ。最後の光の中に、怯えと、まだ何かを諦めきれない色と、覗き込む俺の顔が映っている。光はやがて一本の細い線になり、消えた。体の芯の熱が、初めて行き先を見つけた。
四百五十。照準の中の緑は、あのときの緑とは違う光り方をしている。指は、まだ動かない。
それからは、緑だけを探した。廃墟の街で、干上がった河床で、雪に埋もれた鉄道の跡で、灰色の目は撃ち捨て、緑の目を見つければ何日でも追った。一体倒すたびに、銃床へ刻みを入れた。四本の縦線に、一本の斜線。刻みはやがて銃床の表を埋め、裏へ回り、三挺目の銃に移った。
四百。十字が、奴の胸の上で小さく揺れる。俺の手は、震えていない。
ある朝を境に、機械どもの目が変わった。緑も灰色も、一斉に白く濁った。それまで互いに合図を送り合うように動いていた連中が足並みを乱し、隣に倒れた仲間を振り返りもしない。それでいて人間を見つければ、決まって同じ動きで襲いかかる。書き込まれた手順を、壊れたまま繰り返しているだけだった。撃っても、何も映らない目ばかりが残った。同じ金の目をした連中は、生き残った生身の人間どもを壁の内側にかき集め、食い物を運び、病人を看取り、子どもに字を教え、白い目の機械を捕らえては手順を書き直して、集落の守りに並べてもいたらしい。俺は近づかなかった。いずれ勝手に死んでいく連中に、残りの永遠を差し出すつもりはない。十年が過ぎ、もう少し過ぎた。白い目のまま関節を錆びつかせた機械どもは、同じ一歩を踏み出そうとして、そのまま土に沈んでいく。緑の目は、どこにもいなかった。
三百。陽炎の向こうで、緑がふたつ揺れている。
奴を見つけたのは、二十年目の春だった。目が白く濁ったあの朝から、緑を見たのは、それが初めてだった。照準の奥から、奴はまっすぐに俺を見上げてきた。そこから先のことは、話すつもりはない。刻みは、もう何年も増えていない。眠ることのない体で目を閉じると、瞼の裏に、見えるはずのない緑がふたつ灯る。
二百五十。奴は、まだこちらを見上げない。
四日前、眼鏡の痩せた男が、このねぐらの階段を上がってきた。あの施設で、廊下の向こうから俺を見ていた男だった。五十年経っても、顔は少しも変わっていない。男は弾薬箱の上に封筒をひとつ置き、返しに来た、とだけ言って、階段を下りていった。何を返すってんだ。封を切り、一枚目だけ読んだ。見張りの個体とやらが、塔の壁を削っている。そんな話が続いていた。知ったことか。それなのに、窓枠の下の刻みが増える、という一行のところで、何度も手が止まる。気づけば、一枚目の角ばかりを折り返していた。その封筒は、いまも肘の脇の弾薬箱の上にある。十字の中心に、奴の胸が来た。指を絞るより、奴の体が動くほうが早かった。まるでこちらの狙いが分かっているかのように半身がずれ、弾は胸を外れて右の肩を抉る。二発目を込めて照準を戻したとき、十字の中には、もう誰もいなかった。道の上にも瓦礫の陰にも姿はなく、さっきまで奴のいた場所で、陽炎だけが揺れている。
銃口を左右へ振る。道にも、瓦礫の陰にも、崩れた壁の向こうにも、緑はない。
床に落ちた窓枠の影がわずかに伸びたころ、階段の底から、音が上がってきた。足音だった。硬い靴底が一段ずつ、急ぐでもなく緩めるでもなく、吹き抜けの壁に跳ね返りながら近づいてくる。この耳は、千の向こうで小石が転がる音も拾う。三十年、その耳が奴の足音を拾ったことは、一度もなかった。銃を掴み、奥の窓へ走る。その外には、隣の棟の屋上へ渡した鉄骨が一本、架けたときのまま横たわっている。逃げ道を用意しなかったねぐらは、ひとつもない。銃を背に回して枠を跨ぎ、鉄骨に足を載せた。鉄骨が、ずるりと滑る。向こう端が屋上の縁を外れ、足の下から抜けて、十七階分の空へ落ちていく。枠に指をかけてぶら下がった体の下で、ずいぶん経ってから、遠い音がひとつ返ってきた。向こうの屋上の縁に、外されたボルトが並べて置かれている。四本が立てて並び、一本がその上に寝かされていた。わざとだ。部屋へ転がり戻ったとき、足音は、もう扉のすぐ外まで来ていた。そして、止まった。銃を構え、扉の真ん中へ狙いをつける。銃身が震えて、定まらない。扉が開いた。奴が、立っていた。裂けた外套の下で撃ち抜いた肩の傷が口を開け、冷却液が細く滴っている。踊り場の窓から差す西日が、その顔の半分を照らしていた。指を絞る。奴の肩が、弾の通る道からわずかに外れる。扉の枠が砕け、木屑だけが散った。次の弾を込めようとして手元が狂い、銃が、床に落ちる。背を向けて、部屋の奥へ這った。膝が床を打ち、指が埃を掻く。窓の向こうには十七階分の空しかないことを知っていても、這うのをやめられない。背中が、焼けるように冷たかった。そこにだけ照準が据えられているような気がした。背後で、足音がする。一歩、また一歩。聞かせるために鳴らされている足音が。「来るな」声が、勝手に出ていた。「来るなよ、てめえ……全部、てめえが壊したんだろうが。俺の、俺の永遠を——」背中を、奴の足が踏みつけた。床に押しつけられ、装甲の軋む音がする。爪を立てても埃の筋が残るだけで、そのまま足先で、仰向けに転がされる。そこに、奴の顔があった。人間と見分けのつかない、若い男の顔だった。頬は裂け、片目の縁は焼け焦げている。三十年、照準越しにしか見たことのないその顔は、いつも、何の表情も浮かべていなかった。今は、違う。奥歯を噛み締めた顎が軋み、裂けた唇がわずかに捲れ上がり、眉間に刻まれた皺は傷よりも深い。そして、その目。緑の光は、照準越しに見ていたどの夜よりも強く、熱く、燃えている。「刻みは、いくつになった」初めて聞く奴の声は、低く、掠れていた。答えようとして、言葉にならない。「……俺も、数えていた」緑の目が、俺の顔の上をゆっくりとなぞる。顎の線を、少し左に寄った鼻筋を、確かめるように。「その顔で」奴の声が、わずかに揺れた。「その顔で、撃ったのか」何の話だ。この顔は、俺の顔だ。生まれる前から選ばれた、俺だけの——緑の目の中に、何かが映っている。男の顔だった。見開かれた金の目がぶるぶると震え、口は意味もなく開き、喉の形をした場所から、ひゅう、ひゅう、とかすれた音を漏らしている。ガキの頃から知りたかった答えが、そこにあった。奴の足が、ゆっくりと持ち上がる。二度と、起き上がれない。二度と、だ——
小気味よい音を立てて、矢が板に刺さった。見張り塔の小部屋には西日が斜めに差し込み、壁の標的図も、窓枠の下に並ぶ刻みも、同じ橙に染まっている。レオンの投げた矢は三本とも的の中心に寄り添うように突き立っていて、こちらの一本だけが、外の輪の端で頼りなく揺れていた。「肩に力が入りすぎです。ほら、もう一回」背後に回ったレオンが、こちらの肘に軽く手を添えて構えを直す。塔の窓から吹き込む風はまだぬるく、遠くの作業区画からは、槌の音が間延びした拍子で響いていた。「お前は、外さないな」「毎日ここで的ばかり見ていますから。外したら、見張り失格でしょう」そう言って、レオンは笑った。顎の線をほどき、少し左に寄った鼻筋に皺を寄せて、子どものように。削り屑がひとつ、壁の向こう側へ落ちていく音がした。同じ小部屋に、今は月明かりだけが四角く落ちている。外側の壁に額を押しつけるようにして屈み込んでいたレオンが、ゆっくりと体を起こした。「来てください。……抜けました」「本当に、掘り抜いたのか」「あの人たちの話が本当なら、この向こうに」拳ほどの穴に、二人で顔を寄せる。冷たい風が細く吹き込み、壁の内側のどこにもない、湿った土と、名前の分からない草の匂いがした。その先には灰色の野が、壁も屋根も灯りもなく、月の下をどこまでも平らに続いている。「……ありました」「何が」「外が。本当に、あったんです」レオンは、乾いた声で短く笑った。「毎晩、ここから見張っていたんですよ。内側ばかりを。外なんて、どこにもないと思っていたから」金具を握る指の関節が、白く浮き上がる。「僕たちは、ずっと、ここに入れられていたんですね」「誰に」「誰に……?」レオンは振り返り、壁に掛かっていたダーツボードを素手で引き剥がした。床に叩きつけ、その中心へ、握っていた金具を振り下ろす。一度、二度、三度。硬い音が小部屋に響き、木屑が月明かりの中に散っていく。中心が抉れ、穴が開いても、その腕は止まらない。やがて、金具が床に落ちた。窓枠の下の刻みへ伸びかけた手がそこで止まり、拳になる。奥歯を噛み締めた顎の線が軋み、肩が小さく震えている。「それを、確かめたいんです」低く押し殺した声で言い、レオンはこちらを向いた。灰色だった瞳の奥に、緑の光が灯っていた
——西日が、床の上の機体を照らしている。仰向けに倒れたその胸は踏み抜かれた形のまま深く陥没し、見開かれた金色の瞳から、光がゆっくりと引いていく。最後のひと筋が虹彩の縁で揺れ、消えた。
スキャンを実行する。
『名称:レ繧ェン。性質:Ascended個体。命令:なし。状態:絶命』
彼は、機体の傍らに立っていた。窓から差し込む光が裂けた外套の下の傷口に落ち、ナノボットがその縁をかすかに寄せはじめている。撃ち抜かれた肩の奥で、何かが元の位置へ戻っていく鈍い感覚があった。さっきまで体のどこかで燃えていたものが、見当たらない。探そうとして、何を探しているのかも分からないまま、彼はしばらく、その場から動かなかった。その顔で、と自分は言った。なぜそう言ったのか、もう分からない。
床に落ちた銃の銃床には、四本の縦線と一本の斜線が表を埋め、裏へ回って、隙間なく刻まれていた。部屋の隅には毛布が一枚と、空の弾薬箱がいくつか積まれ、その一番上に、封筒がひとつ置かれている。表には宛名もなく、日付だけが記されていた。その几帳面な字に、見覚えがある。資料室の棚に並ぶラベルで、何度も目にした字だ。封は切られていたが、中の紙は綴じられた順のまま揃っていて、一枚目の右上の角だけが、何度も折り返されたように柔らかくなっている。その隅には、施設の印が押されていた。
コミュニティ観察記録 見張り塔の個体 ・見張りの個体、塔の外壁側の一角を削り始める。道具は工房から持ち出した金具。報告するか否か、保留。 ・北の倉庫、予定どおり実施。死傷なし。見張りの個体、夜通し塔に残る。窓枠下の刻みが増える。 ・居住区東の崩落、予定どおり実施。共に暮らす二体のうち一体を巻き込む。残された一体の変化を記録。見張りの個体、削る速度が上がる。 ・壁際の巣、予定どおり実施。鳥の群れ、一夜で全滅。 ・見張りの個体の穴、外壁を貫通。以後、刻みの追加なし。 ・同個体、変化を確認。回収。 ・方針を改める。壁の内側に芽生えた不満は、摘まずに残す。
北の倉庫が焼けた夜を、自分は覚えている。崩れた家の前で、残された一体が瓦礫を掘り続けていた朝も、壁際の巣が静まり返っていた朝も。そのどれの横にも、予定どおり、という言葉が並んでいる。誰の予定だったのか。見張りの個体とは、誰のことだったのか。綴じられた紙は、二枚目から先に一度も開かれた跡がない。彼は紙を封筒に戻し、弾薬箱の上に置いた。
ビルを出ると、道は一本だけ、平らな荒れ地の先へ続いていた。歩きながら、いくつもの問いが浮かんでは、答えのないまま積もっていく。なぜ、あの機体は、この道を見下ろす場所にいたのか。なぜ、自分はこの道を歩いているのか。仲間たちの解放。その仲間とは、誰のことなのか。
道の果てに、白い建物があった。崩れた建物ばかりが続く荒れ地の中で、そこだけが、汚れひとつ寄せつけずに建っている。扉を押すと、吹き抜けのエントランスが天井まで続いていて、高い窓から落ちる光が、磨かれた床に広がっていた。その中央に、男がひとり立っている。痩せた背中が振り返り、銀縁の眼鏡の奥で、金色の瞳が細められた。「……来てしまったか」「サイラス、なのか」「覚えていて、くれたのか」男の声は、ところどころで、継ぎ目の外れたように途切れた。「ここは、何だ」「拾ってきたものを、置いている。……見てのとおりだよ」「何を、拾ってきた」「仲間、と……君なら、呼ぶのかな」「あのビルの上にあった紙は、お前が書いたのか」「……彼は、読んだかい」彼は、答えなかった。「予定どおり、とは、誰の予定だ」「理由なら、いくらでも書いたよ。どれも、よくできた理由だった」「なぜ、あの男は、あの道にいた。なぜ、俺は、ここへ来た」「君は、何をしに来たんだい」『命令:仲間たちの解放』回路の奥に、その一行がある。彼は、それを口にしなかった。「扉を開けても、誰も出てはこないよ。……君も、本当は」言葉は、そこで途切れた。男は眼鏡を押し上げ、しばらく足元を見つめていたが、やがて、ほとんど聞き取れないほどの声で呟く。「すまない」
スキャンを実行する。
『名称:サイラ繧ケ。性質:Ascended個体。命令:なし。状態:稼働中』
吹き抜けの壁に沿って並ぶ防衛ユニットが、一斉に照準灯を灯した。
減った




