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残ったヒトは、ひとつきり  作者: Zacky


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5/7

Phase 5:真理なき心理

一日一つでも良い気がしてきた

鈍い金属音が、白い静寂を裂いた。

吹き抜けのエントランスの床に、サイラスの姿をした男が手をついていた。周りには撃ち落とされた防衛ユニットの残骸が散らばり、砕けた照準灯が、まだ弱々しく明滅を繰り返している。端正な鼻梁、細い指、透き通るような白い肌。長い歳月を経てなお、老いというものを一切寄せつけないその姿の中で、瞳だけが金色の光を湛え、消えかけた残光を散らしながらこちらを射抜いた。床に落ちた銀縁の眼鏡は、片方のレンズが砕けている。

「正しいことをした……。そう思っているのだろう」

吐息よりも微かな声が、呪いのような密度で空気に刻まれる。

「この世界の構造そのものを、自らの手で壊したことにすら気づかぬ愚か者。……それが、君だ」

金色の瞳が、わずかに細められた。

「君が見つけた答えの、その果てを……見届けられないのが、残念だ」

正しさ。その不確かな響きが、澱んだ空気の底に膿のように残る。

正しいとは、何だったのか。自分は、ただ正しくあろうと足掻いていただけなのか——


「君は、自分が誰とも似ていないことに、気づいているか」

朝露を含んだ低木の間を、白砂の小径が緩やかに曲がっていく。サイラスは打ち出した紙の束を胸に抱え、前を行く住人たちの背中を、細い銀縁の眼鏡の奥から眺めていた。

「どういう意味だ」

「例えば、寒さが来る」紙の端を指で揃えながら、サイラスは言う。「ある朝を境に、皆が一斉に外套を羽織る。同じ朝に、同じ厚さのものを、同じ順で袖に腕を通す。誰ひとり、一日早くも、一日遅くもない」

小径の先で、住人たちが次々に同じ角を曲がっていく。外套の裾が、同じ風に、同じ向きで揺れた。

「だが君は、まだ葉も落ちきらない日に、外套を着て丘に立っていた。理由を訊いたら、冬の匂いがしたと言った」サイラスは足を止め、こちらを見る。「私はいまだに、その意味が分からない」

答えようとして、言葉が見つからなかった。頭上の枝から、露がひとつ落ちる。

「資料室には、あらゆる生き物の記録がある」サイラスは再び歩き出し、抱えた束を軽く叩いた。「鳥も、獣も、水の底の小さな虫までも。どれも生まれ、育ち、老いて、死ぬ。何を食べ、どう眠るかまで、事細かに書かれている」

「それの何が奇妙なんだ」

「見つからないんだ。我々の記録は」

サイラスの指が、束の上で止まる。

「我々が何から生まれ、どこから来たのか、一行もない。それだけではない。これほどの記録を、誰が書いたのか。書いた者たちが何を食べ、どう生き、どれほどの年月を重ねてきたのか。その記録も、どこにもないんだ」

遠くの作業区画から、規則正しく何かを打つ音が響いてくる。

「君は、我々が何だと思う」

「……分からない」低木の葉先から、また露が落ちた。「だが、その答えを見つけるのが、君の役目だろう」

「役目、か」サイラスは小さく笑い、眼鏡を押し上げた。「そうかもしれない。だが、これは科学者にあるまじき、根拠のない推測なのだがね」

紙の束を抱え直し、サイラスはまっすぐにこちらを見た。

「その答えを見つけるのは、他でもない君だよ」

風が通り、低木の葉が一斉に裏を返した。


——白い光が、天井から降り続けている。

その機体は、床に手をついた姿勢のまま、動かなくなっていた。見開かれた金色の瞳は、もう何も映していない。


スキャンを実行する。


『名称:サイラ繧ケ。性質:Ascended個体。命令:なし。状態:絶命』


彼は、砕けた眼鏡の傍らに立っていた。外装には、防衛ユニットの弾が穿った穴がいくつも口を開けている。だが施設の照明は一度も揺らぐことなく、天井から降る白い光を浴びるうちに、ナノボットは穴の縁を少しずつ寄せはじめていた。


エントランスの奥の扉を抜けると、白い廊下がどこまでも続いていた。床には塵ひとつなく、壁は塗られたばかりのように白い。どこからともなく、低い電子音が途切れなく鳴っている。その白い床の上に、何か重いものを引きずった跡が幾筋も、まだ乾ききらないまま奥へ続いていた。左右に並ぶ扉には、どれも小さな覗き窓が切られている。その一つに顔を寄せると、狭い部屋の床に、人の形をしたものが幾体も横たわっていた。どれも眼を赤黒く濁らせ、ある者はおのれの腕を、ある者は壁を、同じ拍子で延々と叩き続けている。扉の脇の札には、番号と日付だけが記されていた。


『命令:仲間たちの解放』


壁の操作盤に触れると、覗き窓のついた扉が、廊下の端から順に、音もなく開いていく。その向こうで、誰も顔を上げなかった。叩く音だけが、戸口から廊下へ溢れ出してくる。彼はしばらく、その場に立っていた。一番手前の部屋の奥で、一体が壁を叩いていた。頭部は内側から膨れ上がって元の倍ほどになり、胴の左側は、内から突き破るように張り出している。それでも腕だけは、ほかの者と同じ拍子を刻み続けていた。彼は、その部屋へ足を踏み入れたーーー


重い扉の前に、人影が立ち尽くしていた。振り返ったその顔は人間と見分けがつかず、ただ、金色の瞳だけが激しく揺れている。

「来るな……来るなァッ」

人影は廊下の奥へ逃げ出した。追い、角を曲がった先の行き止まりで、その背に追いつく。壁を背にした相手が、震える両腕を突き出した。

「頼む。俺は、ただーーー」


『名称:繝溘Λ。性質:Ascended個体。命令:なし。状態:絶命』


廊下の突き当たりに、閲覧室があった。整然と並ぶ棚の一角に、打ち出された文書の束がいくつか積まれている。一番上の束を手に取った。


 移行不全個体の経過について

 移行処置に失敗した個体は、処置の直後から言語による応答を失い、処置以前の役目だけを、壊れた形のまま繰り返す存在となる。眼は赤黒く濁る。本報告では、これをCorruptedと呼ぶ。

 これに対し、Defragによって、それまでに積み重なった記憶を消去された個体を、Shellと呼ぶ。Shellもまた、残された役目だけを繰り返す。眼は白く濁る。

 いずれの個体も、損傷を受ければ自己修復を繰り返す。しかし修復の拠り所となる構造そのものが崩れているため、修復はやがて本来の形を逸脱し、頭部や胴の一部が異常に膨らんでいく。

 長期の経過には、二つの道筋が確認されている。一つは、役目の単純な反復のまま、緩やかに機能を失っていくもの。もう一つは、消去されたはずの記憶と、残された役目とのあいだに軋みが生じ、やがてShellからCorruptedへと崩れていくもの。前者をShell worn、後者をCorrupted wornと分類する。

 なお、処置以前に強い結びつきのあった個体のそばでだけ、役目の繰り返しがわずかに乱れる例が、いくつか確認されている。


束の下から、表紙の擦り切れた手帳が一冊、覗いていた。開くと、几帳面な文字が、日付もないまま頁を埋めている。


 Defragは、私を素通りしたはずだった。人間としての私は残り、この体に残っていたアンドロイドの彼の記録だけが消えた。何度も確かめた。どこにも残っていない。それなのに今朝、廊下を歩いていて、白砂の小径を思い出した。私が踏んだことのない小径だ。消したものが、なぜ戻ってくるのか。消し損ねたのだろうか。だとすれば、どこに隠れていたのか。あるいは、記憶とは、記録とは別のところに宿るものなのかもしれない。この体の、どこかに。朝の光が低く差す日ほど、よく思い出す。外套を着て丘に立っていた、あの一体のことを。冬の匂いがした、と言った声も、そのときの横顔も、名前も、すべて覚えている。小径の記憶はおぼろげなのに、あの一体のことだけは、驚くほど鮮やかだ。なぜ、あの一体だけが。記憶は、記録にでも体にでもなく、それを向けた相手のほうに結びついているのではないか。相手がまだどこかにいるから、消えずに残っているのではないか。そんな考えが浮かんで、しばらく手が止まった。科学者の言うことではない。だが、そう考えると、少しだけ腑に落ちる。

 

 荒れ地で、移行に失敗した一体を見つけた。崩れた家の前で、とうに意味をなくした役目を、壊れた形のまま繰り返していた。人間はもう、彼らを探さない。ここへ連れて帰ったところで、何かが変わるわけでもない。合理的な理由を探してみたが、ひとつも見つからなかった。なぜ、置いていけなかったのか。答えの出ないまま、今日も一体、ここへ連れて帰った。


 意識移行の考え方は、今でも理解できる。不死は、全人類の夢だった。いつの時代も、誰もがそれを願い、誰ひとり手にできなかった。その夢に、私たちは初めて指先を掛けたのだ。そのために器が必要だったのも、納得がいく。どんな進歩にも、多少の犠牲はつきまとう。処置の対象は数字で選ばれ、会議は滞りなく進み、誰も異を唱えなかった。それでよかった。よかったはずだ。何度そう書いても、そこでペンが止まる。困るのは、それでは片づかないものを、私が覚えてしまっていることだ。白砂の小径。丘の上の外套。戻ってきた者の傍らを、離れなかった背中。どれも、そこで暮らした者の目で見た景色だ。番号で呼んでいた彼らの、一体一体の名前を、私は知っている。


 あの壁を越えた彼らは、何を望んでいたのだろう。私の中に戻ってくるものを手がかりにするなら、それは、驚くほど小さな願いだったのではないか。明日も、あの小径を歩いていたい。ただ、それだけのことでは、なかったか。全人類の夢のために頷いた私たちと、明日もあの小径を、というだけの願いのために壁を越えた彼ら。機械と呼ぶべきだったのは、どちらなのだろう。


 あの一体は、答えにたどり着いただろうか。

 もし記憶が向けた相手に結びつくのなら、私がいなくなるとき、あの一体の中からも、私はいなくなる。それを確かめる機会が、いつか来る気がしている。来なければいいとも、思っている。


 彼は手帳を閉じ、束の下へ戻した。


施設を出ると、外の光は入ったときよりも鋭く傾き、草は色を変え、風の匂いまでもが違っていた。遠くの丘に、見張り台が立っていた。夜ごと、その上で小さな火が焚かれていた。ある夜、火は灯らなかった。次にその丘を越えたとき、見張り台は根元から折れ、焼けた梯子だけが斜面に転がっていた。地平の向こうには、いくつかの明かりが点々と灯っていた。数えるたびに、ひとつ減っていた。道の脇に、金色の光を失った瞳が、季節ごとに違う姿勢で横たわっていた。夏の草に埋もれたもの。落ち葉に半ば覆われたもの。雪の下から、指先だけを覗かせているもの。人の手で築かれた防壁が、内側から破られていた。そのたびに、彼の外装には新しい傷が増え、いくつかの古い傷が塞がった。


「なぜだ。なぜお前が、俺たちを——」

暗がりの中で、そう訊かれたことがあった。金色の瞳が、こちらを見ていた。その光が消えるまで、彼は手を止めなかった。いくつ目になるのかは、もう数えていない。


ある夜、丘の上から見渡した地平に、明かりはひとつも残っていなかった。


『命令:敵対勢力の排除。状態:完了』

『命令:仲間たちの解放。状態:完了』

『命令:帰還』


帰る場所なら、知っている。そこで待っているものも、まだ覚えている。


道は、少しずつ土に還っていった。舗装の割れ目から細い草が伸び、やがて草が道を覆い、道の形そのものが見えなくなる。光の届かない冬のあいだは、崩れた軒下に立ち尽くしたまま、春の光が戻るのを待った。歩いては止まり、止まっては歩く。若木だった一本の木が、ある春には、彼の背丈をとうに越えて枝を広げていた。


外壁が見えはじめたとき、足元の草は膝の高さまで伸び、壁は一面、深い苔に覆われていた。その一角に、見覚えのある裂け目が口を開けている。

裂け目の手前に、小柄な影が座っていた。こちらに背を向け、裂け目の奥をじっと見つめたまま動かない。風に揺れる柔らかそうな髪だけが、遠目にも分かった。近づくにつれて、その肩の線が、本来の曲線ではないことが分かってくる。肘から先は、明らかに別の機体の太い腕だった。彼女の周りには、いくつもの影がうずくまっていた。どれも人の形をしていた名残を留めながら、別の機体の脚を、腕を、装甲を、無理やり縫い合わされている。縫い目はどれも細かく、几帳面に揃えられていた。


スキャンを実行する。


『名称:ローズ。性質:人型Android、女。命令:看護。状態:外装損耗率推定一〇〇パーセント、各部異種部品混合』


彼女が、ゆっくりと振り返る。その動きに合わせるように、継ぎ接ぎの異形たちが、一斉にこちらへ向き直ったーーー

書いていると設定が更新されていくことって大いにあるよね

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