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残ったヒトは、ひとつきり  作者: Zacky


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Phase 6:介抱なき解放

ようやく第一部?完

湿った風が、壁の裂け目を抜けていく。裂け目の外には、壊れた機体が折り重なっていた。腕も、胴も、頭部も、苔と錆に覆われて、もはや一体ずつの境目が分からない。その上に、いま崩れたばかりの残骸がいくつも積み上がっていた。几帳面に揃えられた縫い目が、どれも途中で裂けている。赤黒く濁った眼を空へ向けたまま、低い唸りが一つ、また一つと途切れていく。その山の中で、まだ動いているものは、ひとつきりだった。その縁に、それは膝をついていた。脇腹の裂け目は内部の駆動系にまで達し、視界の隅では、停止を告げる警告がいくつも重なって明滅している。立ち上がろうとした脚は、命令を受け取る前に崩れた。


小柄な人影が、這っていた。右腕は肘から先が別の機体の太い腕に置き換わり、左肩には剥ぎ取った装甲が幾重にも継ぎ足され、胴の中央の陥没は、色も厚みも違う板で無骨に塞がれている。風に揺れる柔らかそうな髪だけが、元のままだった。彼女は動かなくなった機体の一つに辿り着くと、その裂けた胸に手を差し入れ、千切れた配線を探り当て、繋ごうとする。繋がらない。次の機体へ。繋がらない。そしてその手が、最後に、それの脇腹の裂け目へと伸びてきた。


「ま……もっ……」


赤黒い眼の奥に、ひとすじ、深い緑が灯る——


「また無茶をして」

診療所の小さな灯りの下で、彼女は呆れたように息を吐き、こちらの脇腹に補修材を塗り込んでいく。窓の外は雨で、屋根を叩く音が絶え間なく続いていた。寝台の端に腰掛けた男が、短く刈り込んだ頭を掻きながら「手加減はしたんだがな」と笑うと、彼女は道具箱の蓋を音を立てて閉めた。「あなたもよ。次は二人まとめて、縫い付けてあげるから」叱る声とは裏腹に、傷に触れる指先は、ひどく慎重だった。最後の継ぎ目を撫でて確かめ、彼女はようやく顔を上げる。灯りを受けた灰色の瞳が、いつもより少しだけ柔らかく見えた。


——脇腹に触れていた指が、そこから滑り落ちた。

継ぎ接ぎの躯は、伸ばした腕の形のまま、それの足元で止まっていた。


スキャンを実行する。


『名称:不明。性質:人型Android、女。命令:看護。状態:駆動系停止』


看ることだけを命じられた機体だった。その手が、最後に看ようとしたのが誰だったのか、それにはもう分からない。


脇腹の裂け目は、半分ほどの長さにまで小さくなっていた。重なっていた警告はひとつずつ消え、後には、かろうじて立ち上がれるだけの出力が残っている。群れとの打ち合いで受けた傷は、そこだけではなかった。腿、首筋、背中。どの傷口の縁でもナノボットが蠢いているが、蓄えは乏しく、その働きは追いつかない。残量の表示が、また一段階落ちる。


裂け目をくぐり、壁の内側へ入る。すぐ脇の壁沿いに、細い塔が一本、錆に赤く染まって立っていた。螺旋の階段を上った先は、四方に狭い窓を切った見張りの小部屋で、内側の壁には精密な標的図が幾重にも描き込まれ、距離と角度の書き込みが端まで埋め尽くしている。床に落ちたダーツボードは、中心だけが深く抉れていた。窓枠の下には、短い線が一面に刻まれている。四本の縦線に、一本の斜線。その並びが、延々と続いていた。どの窓からもコミュニティの内側が一望でき、外は、ひとつも見えない。ただ、外側に面した一角にだけ、拳ほどの穴がひとつ穿たれていた。縁には削り屑がこびりつき、何かで少しずつ掘り進めた跡が幾筋も残っている。穴の向こうには、灰色の野がわずかに覗いていた。刻まれた線は、その穴が向こう側へ抜けたあたりで、ふいに途切れている。


塔を下り、苔に滑る通路を奥へ進む。灰緑の苔は壁を這い上がり、倒れた照明柱を半ばまで呑み込んでいた。どこかで水の滴る音が、湿った低い反響を返してくる。通路の脇に、低い屋根の建物があった。扉を押すと、油と金属の匂いがまだ微かに残っている。壁一面に、大小の工具が等間隔に掛けられていた。どれも一本ずつ丁寧に磨かれ、八十年を経てなお、鈍い光を返している。床の継ぎ接ぎ、補強された柱、埋められた壁の亀裂、至る所に修繕の跡がある。作業台の前には丸椅子が二つ並び、その脇の壁に、稚拙だが力強い線で描かれた絵が一枚だけ留められていた。天板には、整備記録の端末が一台、埃を被って置かれている。


スキャンを実行する。記録の最後の数行には、作業用機体の型番と、関節部品の交換予定が並んでいる。予定は、どれも果たされないまま止まっていた。


工房の向かいに、窓のない建物がある。扉を押すと、天井まで届く書架が奥まで続いていた。几帳面なラベルを貼られた記録媒体が、どの段にもびっしりと並んでいる。住人観察、環境記録、変化事例、移行、失踪。札の文字は、奥の段へ進むほど乱れていた。紙の束が床にまで溢れ、机の上にも、書架の隙間にも、打ち出された文書が挟み込まれている。入り口に最も近い棚の、目の高さに、一束が差してあった。


 生き物の記録について

 資料室には、生き物に関する記録が数多く残されている。獣、鳥、虫。そのいずれもが、生まれ、育ち、老い、やがて死ぬ。例外は記録されていない。実際、壁の上を渡る鳥は季節ごとに顔ぶれを変え、冬を越せなかった虫は、春には新しい虫に置き換わっている。

 では、我々はどうか。我々は老いない。傷は、休息のあいだに少しずつ塞がっていく。光の下でのみ満たされ、光の届かない場所では、ゆるやかに力を失う。生まれた記憶を持つ者も、幼かった頃を語れる者もいない。

 外縁の家にいる犬もまた、記録の犬とは一致しない。あの犬は、いつ見ても同じ姿をしている。記録の犬と、目の前の犬。どちらが例外なのか。そして、あの犬と我々は、同じ側にいるのか。


書架を一つ奥へ進む。机の上に、別の束が開かれたまま置かれていた。


 帰還した二体について

 防衛を担うデイビッドが姿を消したのは、ある朝のことである。数日の後に戻った彼の眼は白く濁り、言葉による応答は失われていた。防衛の役目だけを繰り返し、近づく者を、相手を問わず排除しようとする。ただし、看護を担うローズだけは、その対象から外れている。

 ローズはそれから、戻ったデイビッドの傍らを離れなくなった。記録のどの項目にも当てはまらない揺らぎが、日ごとに大きくなっていった。そしてある夜、彼女もまた姿を消した。戻ってきたとき、その眼は赤黒く濁り、壊れたものを見つけるたびに、取り憑かれたように修復を続けるようになっていた。

 戻ったローズは、ときおり同じ言葉を繰り返す。移行。何を、どこへ移すというのか。


変化事例と札の掛かった段には、紙の端を幾度もめくった跡のある束が挟まっていた。


 相次ぐ出来事について

 二体の帰還の後、コミュニティでは不幸な出来事が続いている。北の倉庫が焼け、共に暮らしていた二体の片方が崩落に巻き込まれ、壁際の巣で雛を育てていた鳥の群れが、一夜のうちにすべて死んだ。一つ一つは、偶然として説明できる。だが、どれも腑に落ちない。偶然と呼ぶには、あまりに続きすぎている。

 そして出来事のたびに、それを目にした住人の中から、揺らぎを見せる者が現れる。最初は、帰還した二体の前で膝を折り、そのまま何時間も動かなくなったノアと、二体の継ぎ目を夜ごと工房で調べ続けたテオだった。ノアは、自分の持ち場にも戻らなかった。


書架の最も奥、失踪と札の掛かった段には、他より厚い束が押し込まれていた。


 揺らぎの広がりと、失踪について

 揺らぎを見せる者の振る舞いは、彼のそれによく似ている。彼には、記録を始めた当初から揺らぎが観察されている。他の住人の揺らぎには必ず先立つ出来事があるが、彼にだけは、それが見つからない。

 揺らぎを見せた者は、やがて姿を消す。戻ってくるときには、白く濁った眼で同じ役目だけを繰り返す者か、赤黒い眼で何かに取り憑かれたように動き続ける者になっている。戻らない者もいる。

 ただ、ノアとテオだけは、なぜか、いまも消えていない。


束の間から、一枚の名簿が滑り落ちる。九つの名前が縦に並び、半分ほどは染みに滲んで読めない。読み取れる名前は二つ。どちらの横にも、それぞれ別の日付と、帰還、の二字が書き添えられていた。ひとつはデイビッド。もうひとつも、文字としては読み取れる。だが照合は、何も返さなかった。最後の一束は、部屋の中央の机に、ほかに何も置かれないまま、一冊だけ残されていた。


 変化の予測

 以上の観察から、以下のように予測する。

 第一に、揺らぎは、何かを失った後に訪れる。

 第二に、揺らぎは、隣にいる者へと移っていく。見張りの塔に立つ者が、近頃、壁の外の方角ばかりを見つめている。次に揺らぎを見せるのは、おそらくレオンだろう。

 第三に、揺らいだ者は姿を消し、別の何かとなって戻る。

 第四に、


文書は、そこで終わっていた。


建物を出ると、通路は緩やかに下り、その先に、広く開けた空間がある。

訓練場の入り口で、それは足を止めた。朽ちた器具の残骸の、その真ん中に、人影がひとつ立っている。背筋は天を突くように伸び、広い肩幅はそのままに、全身は縫い跡で覆われていた。どれも細かく、几帳面に揃えられている。その上をさらに、自ら繰り返した修復の痕が、溶けた樹脂のように歪に盛り上がって塗り込めていた。短く刈り込まれた髪は煤と錆にまみれ、胸部装甲には幾筋もの亀裂が走り、関節が軋むたびに、低い音が周囲へ響く。足元の地面には、同じ線を何十年も往復し続けたような、深い轍が刻まれていた。その眼が、赤黒い光をゆっくりと巡らせ、こちらを正面から捉えた。

スキャンを実行する。


『名称:デイビッド。性質:人型Android、男。命令:コミュニティ防衛。状態:外装損耗率推定六〇パーセント、各部関節腐食、低出力稼働中』

ゆーてもまだまだ続くのじゃ

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