Phase 8: 帰還なき機関
この時間軸は短いので描写に無理くり肉付けしてる感は否めない
彼女はまだ、動いていた。床に伏した四肢が、不規則な間隔で小さな火花を散らしている。半ば開いたままの眼球センサーは焦点を失い、白く濁った光が、意味もなく天井の亀裂をなぞっていた。駆動音はすでに途絶え、末端の回路だけがかすかに震えている。そして前脚が一本、何かを求めるように、ゆっくりとこちらへ伸びる。その眼の奥に、ひとすじ、深い緑が宿る——
窓から午後の陽が差し込むリビングは、どこもかしこも色に満ちていた。板張りの床は蜂蜜のような光沢を帯び、窓際の鉢では青々とした葉が重なり合って、その影が床の上で小さく揺れている。壁の時計が規則正しく刻む音に、テーブルのほうから、本のページをめくる音が重なった。少し引いた椅子に腰掛けた誰かが、逆光の中でこちらを見て笑っている。その首元で、小さな首飾りが陽を受けて光った。ソファの右側には、座り続けたぶんだけの柔らかな窪みができている。その窪みに腰を下ろすと、足元で丸まっていた小さな体が身じろぎした。「サニー」と、テーブルのほうから柔らかな声が呼ぶ。深い緑色の眼がゆっくりと開き、一度、二度、尻尾が床を叩く音がして、やがて温かな重みが膝の上へと這い上がり、陽だまりの匂いのする毛並みが、手のひらの下で呼吸に合わせて上下した。
——その前脚が届くことはなかった。左手がわずかに持ち上がり、それに応えるように差し出されかけていたが、その理由は、手が届くより先に消えていた。宙で止まった手は、何事もなかったように下ろされる。床に落ちた前脚の先端は、それの足元からわずかに離れたところで止まり、緑の光も、火花も、震えも、それきり途絶えた。
スキャンを実行する。
『名称:不明。性質:犬型Android。命令:住居警護。状態:駆動系停止』
足元の残骸からは、もう何の信号も返ってこない。視線を落とすと、自らの右手が、握られた形のままそこにあった。一度も振るわれることのなかった拳だった。指をひとつずつ開いていく。開いた手のひらには、何も残っていなかった。手の甲には小さな牙の跡が幾筋も残り、その下の繊維が覗いている。本来なら閉じていく縁は、ぱっくりと開いたままだ。どの損傷も機能にまでは及んでいない。動けなくなったのは、足元の残骸だけだった。その躯は玄関ホールの中央に横たわり、奥へ続く通り道を塞いでいたので、片足で押しやり、扉の手前の、光の届かない隅へと寄せる。金属の擦れる音がしばらく床を這い、やがて止んだ。振り返ることはなかった。
ホールは闇に沈んでいた。月は厚い雲に隠れ、窓から差し込む光はひとすじもない。動き続けていたあいだ使い続けた暗視は、いまも世界を濃淡だけに置き換えたまま、残量を削り、四肢の動きを少しずつ鈍らせていく。
ホールの壁には、埃に曇った姿見が掛かっていた。その前を通り過ぎようとしたとき、自動で働くセンサーが人型の反応を捉えて足が止まり、それが自分自身の像であると判定されるまでに、わずかな時間がかかった。その程度の処理にさえ遅れが出るまでに、回路は消耗しきっている。濃淡の中に浮かび上がったのは、人と見分けのつかない、細身で背の高い若い男の姿だった。くすんだ外套は裾が擦り切れ、その下から覗く頬にも首筋にも、塞がりきらない裂け目がいくつも走っている。新しいものもあれば、とうに閉じかけたまま止まっているものもあった。唯一、人間味を欠いたその瞳だけが、自ら放つ鈍い光で、鏡の向こうからこちらを見返している。
玄関から続くリビングもまた、暗視の濃淡の中にあった。壁の時計は針を止めたまま掛かり、窓際の鉢には、乾ききった茎が一本、折れ曲がったまま残っている。棚の一冊だけが、半ばまで引き出されたまま止まっていた。ソファは右側だけが深く沈み込み、テーブルを挟んだ二脚の椅子のうち、一方だけが少し引かれたままになっている。色と呼べるものは、もうどこにもなかった。
ソファの前で、脚がわずかに向きを変えかけた。右側の窪みへ、腰を下ろすための角度へ。だがその動作は途中で止まり、何のための動きであったのかを問い直す前に、それはもう階段へ向かっていた。床を叩く音はどこからも聞こえず、静まり返った家の中には、それ自身の足音だけが響いていた。
階段を上る脚は、一段ごとに出力を絞られ、ひどく緩慢にしか動かない。板は軋んだが、それの重みにはまだ耐えた。二階の廊下の左手には、閉ざされた扉がひとつある。その前を素通りし、突き当たりへ向かう。
最後の扉は、蝶番を軋ませながら開いた。ベッドと机と窓、それだけの部屋で、机の上には薄い長方形の何かが伏せられたまま置かれている。スキャン実行に必要なエネルギーは、もうない。机の脇を抜け、窓の前に立つ。
『命令:帰還。状態:完了』
その一行が書き込まれてから、八十年が過ぎていた。
新しい命令が、書き込まれることはないはずだ。ここが始まりであり、終わりなのだから。窓の外では、崩れた建物の輪郭が、雲に塞がれた夜の底に沈んでいた。夜明けまでは、まだ何時間もかかる。それまで持ちこたえるだけの残量はなく、目覚めることのない眠りに就くことになるはずだった。わずかな蓄えを守るように、不要と判断された機能から、ひとつずつ順に落ちていく。まず聴覚が沈黙し、次いで暗視が途切れて、視界は元の闇へと帰っていく。瞼がゆっくりと下り、瞳の光が、その裏に閉ざされた。最後に残されたのは、それがそこにいるという事実だけだった。
さあて読み方のカラクリに気づいてくれると嬉しいです。
とは家わかるのは次の章からかな




