第9話 風の向こうの蹄
バヤルたちの野営地へ着いたころには、朝の冷たさはすっかり薄れ、草原へ降り注ぐ陽射しが馬の背をじわりと温め始めていた。
湖から吹いてくる風には水の湿り気がわずかに混じっていたが、草原を渡るうちに乾いた草と土の匂いをまとい、サランの頬へ触れるころにはいつもの風へ変わっている。サルヒの首筋にも薄く汗が浮かび、青毛を撫でると、陽に温められた毛の下から生き物らしい熱が掌へ伝わってきた。
鞍の上から眺めた野営地は、一見すると普段と変わらない。ゲルの間では女たちが乳を扱い、離れた場所では羊が草を食み、子どもたちの声も聞こえている。ただ、馬をまとめている男たちの周囲だけは落ち着きがなく、何人かが繰り返し西の草原へ目を向けていた。
「まだ見つかってないみたいだな」
バヤルが呟くと、オルハンは近づいてきた男から、南側にも湖沿いにも三頭の姿がなかったことを聞き、険しい顔で頷いた。
「ここから先は俺とサランで行く。バヤルは残ってくれ。昨日の話し合いにいたお前が近づけば、遠くからでも気づかれるかもしれん」
「分かってる。サラン、無理はするなよ」
「分かってるよ。危ないと思ったら戻るし、馬がいても取り返そうとはしない。それでいいんでしょ?」
「ああ。それだけ守ってくれればいい」
サランがサルヒの腹へ軽く脚を当てると、青毛の牝馬は西へ向かって歩き出し、オルハンもその後へ続いた。
野営地が背後へ遠ざかるにつれて人の声は薄れ、代わりに風へ擦れる草と二頭の蹄音がはっきり聞こえてくる。サランは何度も地面へ目を落としたが、日常的に使われている場所だけに蹄跡は多く、昨日のものも今朝のものも入り交じっていた。
「三頭の跡を追えそうか?」
「これだけ馬が通ってたら無理だと思う。でも、向こうの群れにいるなら見れば分かるよ」
やがて草原が緩やかに盛り上がり、その先が見えなくなると、サランは手綱を短く持ち直した。サルヒも変化を感じ取ったのか耳を前へ向け、歩調を落としていく。
二人は丘の頂へそのまま姿を出さず、南へ回り込んで地形の陰を使った。高い場所へ人馬の姿を晒せば、それだけ遠くから見つかりやすくなる。草の間から先を見通せる場所まで進んだところで、オルハンが手を上げた。
「ここまでだ。あの先にいるのが昨日の連中だ。俺はここで待つから、少しでもおかしいと思ったら確認を諦めて戻ってこい」
「分かった。行ってくる」
前方の浅い谷を越えた先では、白や灰色の小さな点が草の上を動いていた。風上へ顔を向ければ家畜の鳴き声がかすかに聞こえ、踏み荒らされた草や糞の匂いも流れてくる。
サランはサルヒの首を一度撫で、真っ直ぐ群れへ向かわずに南へ進路をずらした。
急いでいるようには見せない。あくまで草原を移動している途中で、たまたまこの場所を通りかかった騎手として振る舞う。
羊と山羊のさらに向こうには二十頭ほどの馬がおり、その先にはいくつかのゲルまで見えた。家畜だけを移したのではなく、何家族かがここへ移ってきているらしい。周囲には騎馬の男もいたが、サランは意識して彼らを見ず、サルヒの歩調へ身体を預けながら馬群だけを視界の端へ入れた。
昨日聞いた三頭の特徴を、頭の中でもう一度確かめる。
若い牝馬は額と前脚に特徴があり、丈夫な騸馬は太い首と右後脚、鹿毛には顔と左前脚に目印がある。毛色だけなら似た馬はいくらでもいるため、それだけで判断するわけにはいかなかった。
少しずつ距離を詰めていくと、群れの端で草を食んでいた牝馬が顔を上げた。
額の白い印と前脚が、聞いていた特徴と一致している。
一頭目だ。
サランは反応を見せず、そのまま通り過ぎた。
羊の向こうにまとまっていた数頭の中には、太い首をした騸馬がいた。右後脚を確認すると、こちらも聞いていた特徴と重なる。さらに馬群全体へ視線を滑らせていくと、別の馬の陰から鹿毛が顔を出し、顔から左前脚まで確かめることができた。
三頭ともいる。
杭へつながれたり別の場所へ囲われたりしているわけではなく、他の馬と同じように群れへ混じって草を食べていた。少なくとも、目の前の光景だけを見れば、盗んだ馬を意図して隠しているようには思えない。
だからといって、盗まれていない証拠にもならなかった。
サランに頼まれたのは、それを判断することではない。
三頭がいるかどうかを確かめることだけだ。
すぐ引き返せば不自然に見えるため、サランはそのまま群れの近くを通り過ぎた。途中で騎手の一人がこちらへ顔を向けたが、しばらく様子を見ただけで近づいてはこない。
十分に距離を取ったところで一度立ち止まり、遠くの草地を眺めるふりをしてから大きく弧を描いて進路を変えた。丘の陰へ入り、相手側から完全に姿が見えなくなったところで手綱を握り直す。
「サルヒ、戻ろう」
身体をわずかに前へ預けると、サルヒはすぐに応えた。歩みが速歩へ変わり、さらに速度が上がるにつれて風が頬へ強く当たり、長い袖が後ろへ引かれていく。
ほどなく待っていたオルハンの姿が見えた。
「どうだった?」
「三頭ともいたよ。近くで触ったわけじゃないから絶対とは言えないけど、聞いていた特徴は全部合ってた。牝馬の額と脚、騸馬の右後ろ脚、鹿毛の顔と左前脚まで確認したから、たぶん間違いないと思う」
オルハンは肩から力を抜くように息を吐いた。
「三頭はどういう状態だった?」
「全部、他の馬と一緒に草を食べてた。つながれても囲われてもいなかったし、向こうの人が連れてきたのか、勝手に混じったのかまでは分からない。だから私が確認できたのは、三頭が向こうにいるってことだけだよ」
「ああ、それで十分だ。頼んだのはそこまでだからな。助かった、サラン」
その言葉には子どもを褒めるような響きはなく、頼んだ仕事を終えた相手へ向ける簡潔な礼だけがあった。
サランは少し口元を緩める。
「仕事だからね。それに、まだ残りの報酬をもらってないし」
「……まあ、大事なことではあるな」
オルハンも笑い、約束していた残りの報酬を革袋から取り出した。サランは受け取った貨幣を数えて自分の袋へしまい、口紐をしっかり締める。
「ここからは俺たちの仕事だ。俺は向こうへ行って、まず三頭を確認してくる。サランは野営地へ戻って、バヤルに三頭ともいたと伝えてくれ」
「一人で大丈夫? 揉めたりしない?」
「お前に見るだけで帰れと言っておいて、俺が殴り合いを始めたら格好がつかんだろ。まずは話をする」
「それならいいけど。三頭がいた場所、もう一度伝えておくね」
サランは牝馬、騸馬、鹿毛のいた位置を順番に説明し、オルハンが頷いたのを確かめてから手綱を握り直した。
二人はそこで別れ、オルハンは西へ、サランは来た道を野営地へ戻っていった。
*
サランが野営地へ戻って三頭とも見つけたことを伝えると、待っていた男たちの間にたちまちざわめきが広がった。
「やっぱり向こうにいたのか。だったら盗られたんじゃないのか!」
「まだ分からないよ。三頭が向こうの群れにいたのは確かだけど、全部ほかの馬に混じって普通に草を食べてた。オルハンが今、確認に行ってるから、それまでは待った方がいいと思う」
何人かはそれでも馬の方へ向かおうとしたが、バヤルが前へ出て制した。
「サランが確認したのは馬がいたことだけだ。盗ったかどうかはまだ分からない。オルハンが話をしに行ってるんだから、今こっちから何人も押しかけたら全部台無しになる。まず待て」
若者たちは不満そうな顔を残したものの、勝手に動くことはなかった。
サランはその間にサルヒから下りて鞍を緩め、水を飲ませた。走ったあとの首筋には汗が浮かび、撫でれば馬の熱とともに汗や革の匂いが鼻へ届く。
「ありがとね、サルヒ」
青毛の牝馬は耳だけをこちらへ向け、水を飲み続けた。
サランがその首を撫でながら待っている間も、男たちは何度も西を見ていた。オルハンが三頭の馬だけを連れて帰るのか、それとも新たな揉め事まで持ち帰るのか、誰にも分からない。
陽がさらに高くなり、ゲルの影が短くなったころ、西を見ていた一人が声を上げた。
「オルハンだ。馬もいるぞ!」
遠くから一騎が近づき、その後ろには三頭の馬が続いていた。
若い牝馬、丈夫な騸馬、そして鹿毛。どれも先ほどサランが相手側の群れで確認した馬で、目立った怪我もない。
鹿毛の持ち主が真っ先に駆け出すと、馬も主人の声を覚えていたのか歩調を速めた。騸馬の持ち主は受け取るなり脚や身体を確かめ、若い牝馬も首筋を撫でられながら落ち着いた様子で鼻を鳴らしている。
オルハンが馬から下りると、すぐに男たちが集まった。
「三頭ともこっちの馬だということは向こうも認めた。ただ、盗んだことは否定している。朝になったら自分たちの馬群へ混じっていたそうだ」
「三頭も一緒に迷い込んだっていうのか?」
「俺に聞いても分からん。俺も夜中に見ていたわけじゃない。ただ、向こうは返すことを拒まなかった。特徴を確認してこっちの馬だと分かると、そのまま三頭とも返した。それ以上のことは今のところ何も分からん」
納得していない顔は残ったが、それでも失われた三頭が無事に戻ったことで、朝から張りつめていた空気は少しずつ緩んでいった。
サランは戻ってきた馬たちを眺めていたが、人の輪から離れたオルハンがこちらへ来るのに気づいて顔を上げた。
「まだいたのか。もう帰ったと思ってたぞ」
「どうなったか気になったから待ってた。ちゃんと話だけで返してもらえたんだね」
「ああ。少なくとも馬についてはな」
その言い方が気になり、サランは少し首を傾げた。
「草のことは?」
「まだ何も終わってない。向こうも西へ戻るのは難しいらしいし、こっちも草と水を好きなだけ使わせるわけにはいかん。明日、もう一度話をすることになった」
サランはそれ以上聞かなかった。
三頭の馬を探す仕事は終わった。草場と水場をどう使うのかは、そこで暮らしている者たちが決めることだ。
「じゃあ、私は帰るね。テムルに早めに戻るって言ってきたから」
「ああ、帰ってやれ。今日は助かった」
サランはサルヒの腹帯を確かめてから鐙へ足をかけ、慣れた動きで鞍へ上がった。
「オルハン。また何かあったら、仕事なら話くらいは聞くよ」
「覚えておく」
「そのときも、ちゃんと払ってね」
「分かった。お前がそこを大事にしてることは、もう十分分かったよ」
サランは満足そうに頷き、サルヒの首を軽く撫でた。
青毛の牝馬が歩き始めると、背後では戻ってきた三頭を囲む人々の声がまだ続いていたが、朝のような切迫した響きはもうなかった。
失われた馬は戻り、少なくとも今日、三頭を巡って刃物が抜かれることはなかった。
けれど、それで何もかもが元へ戻ったわけではない。
サランはゲルで待つテムルを思い浮かべながら、サルヒを家路へ向けた。穏やかな風が青毛の鬣とサランの髪を揺らし、その背後では、湖の南で暮らしてきた者たちと西から移ってきた者たちの間に横たわる草場と水場の問題だけが、まだ手つかずのまま残されていた。




