第10話 風にほどけぬ結び目
朝から吹いていた風が少しずつ弱まり、ゲルの間から立ち上る細い煙が、途中で流されることもなく真っ直ぐ空へ昇るようになったころだった。
湖の近くでは羊と山羊がまとまって草を食み、その向こうでは数頭の馬が尾を振りながらゆっくり歩いている。昨日戻ってきた三頭もすでに群れへ戻され、鹿毛の若馬は何事もなかったように仲間の尻を鼻先で押し退け、まだ青さの残る草へ口を伸ばしていた。
馬にとっては、それで終わったことなのだろう。
けれど、人間の方はそう簡単ではなかった。
「来たぞ」
野営地の端にいた男の声に、ゲルの前で馬具を直していたバヤルが顔を上げた。手にしていた革紐を膝へ置くと、朝の陽射しに温められた革からわずかに油の匂いが立ち、長く扱っていた指先にはざらついた感触が残っている。
視線の先では、六騎ほどの人影が緩やかな丘を越えてこちらへ向かっていた。急ぐ様子はなく、先頭の男も後ろの者たちも馬を歩かせる程度の速さを保っている。
「六人か。昨日の連中だな」
「ああ」
隣へ来たオルハンが目を細めると、周囲の若者たちも次々と気づき始めた。昨日、鹿毛を取り戻した若者も馬のそばを離れ、近くへ歩いてくる。
蹄が乾いた土を踏む音が少しずつ大きくなり、やがて馬の汗と革、踏み潰された草の青臭さまで風に乗って届き始めた。
オルハンは集まった若者たちへ厳しい視線を向けた。
「いいか、昨日の馬のことで余計なことをするな。向こうが何を言っても、まず俺たちに任せろ」
「何もしねえよ。……向こうが何もしなきゃな」
「そういう言い方をするなと言ってるんだ。話をややこしくするなよ」
若者は不満そうに口を閉じた。
本当に分かっているのかとオルハンは言いたげだったが、すでに六騎は野営地の手前まで来ている。相手側もそのまま馬で入り込むことはせず、少し離れた場所で止まった。
先頭の男は四十代半ばほどに見え、日に焼けた頬には深い線が刻まれていた。厚手の上着の裾には長く草原を走ってきたためか細かな草の種がいくつも付いている。
男が馬から下りると、残る五人もそれに続いた。年嵩の男が一人、二十代ほどの若者が三人、それより少し上に見える男が一人。全員が武器を持っていたが、それはこちらも同じだった。草原を移動する者が腰へ刃物を下げていること自体、珍しいことではない。
先頭の男は手綱を若者へ預け、オルハンたちの前まで歩いてきた。
「昨日は馬を返した」
「ああ。三頭とも怪我はなかった。そのことには礼を言う」
男はしばらくオルハンの顔を見た。その背後では若者たちが馬の手綱をまとめ、馬同士は鼻先を寄せたり鬣を揺らしたりしながら落ち着いている。
緊張しているのは、人間の方だった。
「だが、あのままじゃ気分が悪い。そっちは俺たちが盗ったと思っているし、こっちは盗っていないと言っている。このままにしておけば、何かあるたび昨日の馬の話が出る」
オルハンは否定しなかった。
今朝になっても若者たちの間では、三頭も一緒に迷い込むものなのか、誰かが追っていったのではないかと疑う声が残っていた。証拠はない。それでも一度生まれた疑いは、馬が戻っただけでは消えなかった。
「それで、どうしたい?」
「もう一度話したい。馬のことだけじゃない。草も水も、このまま互いに意地を張っていたところで家畜の腹は膨れん」
こちら側の年長者がゆっくり前へ出た。
「こちらも話は必要だと思っていた。なら、ここで決められるところまで決めよう」
その言葉に相手の男も頷き、少なくとも怒鳴り合うことなく話し合いの場が整った。
近くのゲルを使うことになり、こちらからは年長者二人とオルハン、バヤル。向こうからは先頭の男と年嵩の男、それにもう一人が入ることになった。
垂れ幕をくぐる直前、オルハンは外へ残る若者たちを振り返った。
「俺たちが戻るまで揉め事を起こすなよ。昨日のことも含めて、中で話をつける」
「分かってるよ」
返事を聞いてもオルハンの眉間から皺は消えなかったが、いつまでも見張っているわけにもいかない。
厚い布の垂れ幕をくぐると、外の強い光が背後で細くなり、乳と獣脂、乾いた燃料の匂いが鼻へ入ってきた。中央の火床では赤くなった燃料の上で小さな炎が揺れ、男たちはその周囲へ腰を下ろした。
最初に取り上げられたのは、やはり三頭の馬だった。
「朝に見つけたときには、三頭とも俺たちの馬群に混じっていた。ただ、夜の間にどうやって来たのかは分からん。連れてきた者を見た奴もいない」
相手の男がそう説明すると、オルハンも頷いた。
「こっちにも、三頭が群れを離れたところを見た者はいない。盗られたのか、自分たちで歩いていったのか、今となっては確かめようがない」
互いに新しい事実を持っているわけではなく、これ以上話しても結論が出ないことは明らかだった。
こちら側の年長者が静かに口を開いた。
「なら、馬の話はここまでにしよう。こちらは、そちらが盗ったと決めつけない。その代わり、そちらもこちらが難癖をつけたとは言わない。確かめられないことを理由に、これ以上揉めても仕方がない」
しばらく沈黙が落ち、火床の中で燃料が小さく崩れて乾いた音を立てた。
やがて相手側の男が頷く。
「分かった。俺たちもそれでいい」
少なくともゲルの中では、三頭の馬を巡る話はそこで終わった。
次に持ち出されたのは、より大きな問題だった。
「西はどれくらい悪い?」
こちらの年長者が尋ねると、相手の男は腕を組んだ。
「かなり悪い。春から雨が少なく、夏に入って多少戻ったが、それでも羊を食わせるには足りん。あのまま残れば、秋になる前に草が尽きる」
「それで東へ来たのは分かる。だが、こっちにも家畜がいる」
「それも分かってる。全部を好きに使わせろと言うつもりはない」
そこでバヤルが少し身体を前へ傾けた。
「なら、昨日みたいに勝手に群れを入れられたら困ることも分かるだろ。こっちだって、これから先の草を残しておかなきゃならない」
「昨日は、まず家畜を食わせる必要があった。だからといって全部を奪うつもりだったわけじゃない」
相手側の年嵩の男の声にも力が入ったが、こちらの年長者がすぐに手を上げた。
「昨日の言い合いをもう一度するために集まったわけじゃない。このままなら争いになる。だったら、どこまでなら使えるかを決めよう」
そこから話は具体的なものへ変わった。
丘の位置、湖へ続く浅い谷、普段どこまで羊を出しているのか、馬をどこで飲ませるのか、相手側がどれほどここへ留まるつもりなのか。言葉だけでは分かりにくくなると、一本の木片で土の上へ線を引きながら互いの範囲を確かめていった。
「この丘より東へ羊は入れないでもらいたい。そこから先は、こっちが普段使っている」
「それでは狭すぎる。せめて、この窪地までは使わせてほしい。それと水を飲ませるときは湖まで下ろさなければならん」
「なら水場は時間を分けよう。朝はこっちが使うから、そちらは昼からでどうだ?」
「それなら構わない。ただ、乾き方によっては期間を延ばす話をもう一度させてくれ」
誰も完全には納得していなかった。
それでも、互いに家畜を抱えている以上、相手を追い払えば終わるほど単純ではない。力ずくで草場を奪い取れるほど大きな部族でもなく、譲れるところと譲れないところを一つずつ確かめていくしかなかった。
話は、少しずつまとまり始めていた。
*
そのころ、ゲルの外に残された若者たちは、それぞれの馬のそばで時間を持て余していた。
最初のうちはほとんど会話もなく、相手側の若者たちは連れてきた馬の近くへ集まり、こちら側は少し離れたところで馬具を触ったり地面へ腰を下ろしたりしている。
風が弱いため、普段ならすぐ散ってしまう馬の汗や糞の匂いが野営地の中へ薄く残り、陽に温められた革からも乾いた匂いが立っていた。
昨日戻ってきた鹿毛の持ち主は、馬の前脚をもう一度確かめていた。傷もなく蹄にも異常はなかったが、大切にしている馬だけに、戻ってから何度も同じところを見てしまう。
その様子を見ていた相手側の若者が、ふと声をかけた。
「そいつが昨日、うちの群れにいた馬か?」
「ああ。三頭もそっちに行ったようだがな」
何気ない一言だったのかもしれない。
だが、相手の眉がわずかに動いた。
「……三頭も、ってどういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。三頭一緒にいたんだろ?」
「だから何だ。俺たちが盗ったって言いたいのか?」
「そんなことは言ってない。ただ、三頭一緒だったのは事実だろ」
鹿毛の持ち主の声にも棘が混じり始めた。
周囲にいた者たちが顔を向ける。
「だったら、そんな言い方をするな。気づいたときには勝手に群れへ混じってたんだ」
「三頭揃って勝手に来たって?」
「知らねえよ。俺たちだって見てないんだから、それ以上どう言えってんだ!」
二人の声が大きくなり、こちら側の若者が立ち上がった。
「おい、やめとけ。中で話してるんだから、お前らがここで揉めても仕方ないだろ」
相手側からも仲間を宥める声が上がったが、いったん表へ出た苛立ちは簡単には引っ込まなかった。
「話し合いに来てるのに、いつまで盗人扱いされなきゃならないんだ」
「来てやってるみたいな言い方するなよ。誰の草場まで来てると思ってる」
「お前の草じゃないだろ。だから、そのことも含めて話しに来てるんじゃねえか」
「だったら偉そうにするな」
「偉そうなのはどっちだ」
距離が詰まり、肩が触れた。
どちらが先にぶつかったのかは、後から見ていた者へ聞いても、おそらく答えは違っただろう。
「何しやがる!」
「そっちがぶつかってきたんだろ!」
胸元へ伸びた手が相手を押した。
押された若者が半歩下がり、その顔が怒りに歪んだ次の瞬間、拳が鹿毛の持ち主の頬へ鈍い音を立てて当たった。
「てめえ!」
殴られた側もすぐに拳を返し、相手の口元から血が滲んだ。
そこから先は早かった。
双方の若者が止めようと間へ入り、掴まれた腕を振り払い、誰かの肘が別の者へ当たる。それを殴られたと勘違いした者が押し返し、さらに別の拳が飛んだ。
ほんの少し前まで誰が喧嘩を止めようとしていたのかさえ、分からなくなっていった。
馬たちが驚いて鼻を鳴らし、一頭が大きく後ろへ下がる。蹄が乾いた地面を削り、舞い上がった土埃が汗ばんだ顔や口の中へざらりと入り込んだ。
「やめろ! 中で話し合ってるんだぞ!」
誰かが叫んだが、その声さえ怒鳴り声の中へ消えていった。
*
ゲルの中でオルハンが顔を上げた。
最初は馬が暴れたのかと思ったが、外から聞こえてきたのは明らかに人間の怒声だった。
「ふざけんな、この野郎!」
オルハンが立ち上がり、バヤルも腰を浮かせる。
その直後、外から響いた声に、ゲルの中の全員の顔色が変わった。
「刃物をしまえ!」
オルハンは垂れ幕を押し上げて外へ飛び出した。
眩しい陽射しの向こうでは若者たちが揉み合い、馬たちが不安げに耳を伏せている。一人は地面へ倒れ、別の男は鼻から血を流し、その中央では二人の若者が互いの腕を掴み合っていた。
その手には、どちらも刃物が握られている。
「馬鹿が! 刃物を離せ!」
オルハンが怒鳴りながら駆け寄り、相手側の年長者も自分たちの若者へ声を張り上げた。
「今すぐ捨てろ! 言い訳は後で聞く!」
「でも、こいつが先に――」
「いいから離せ!」
周囲の者も二人を引き離そうと動いた。
誰かが横から腕を掴み、その手を振り払おうと身体が捩れる。別の者が肩へ手を伸ばし、何人もの身体が一瞬にして重なった。
そのとき刃先がどちらを向いていたのか、どう動いたのかを、はっきり見ていた者はいなかった。
低いうめき声が漏れた。
それまで激しく動いていた人の輪が止まる。
一人の若者が左腕を押さえていた。裂けた袖の下から赤いものが滲み、それは瞬く間に腕を伝って指先まで流れ始めた。
「おい、腕を見せろ! 誰か布を持ってこい!」
仲間が駆け寄り、渡された布を傷口へ強く押し当てる。温かな血が指の間から滲み、衣服へ暗い赤を広げていくにつれて、鉄のような生臭い匂いが土と汗の匂いへ混じった。
ついさっきまでただの殴り合いだった場の空気が、それだけで一変した。
傷は前腕にあり、血は多いものの指は動いていた。致命傷ではなさそうだったが、それを見て安心する者などいない。
「刃物まで使いやがったな!」
「先に抜いたのはそっちだろ!」
「嘘つけ、俺は見たぞ!」
再び怒鳴り声が上がりかけたところで、オルハンが立ち上がった。
「黙れ! 怪我人が出てるんだぞ。今は誰が先かで喚いてる場合じゃない!」
その怒声に、若者たちがようやく口を閉じた。
オルハンは負傷した男の腕をもう一度見て、仲間へ布を強く押さえ続けるよう指示してから、周囲を見回した。
相手側の年長者も険しい顔で若者たちを睨んでいる。
「誰が最初に手を出した?」
低い声で問われた途端、双方から声が上がった。
「向こうが先に殴った!」
「その前にそっちが押しただろ!」
「肩をぶつけてきたのは向こうだ!」
「刃物へ手をかけたのはそっちが先だ!」
証言は重なり、互いに食い違った。
誰が肩をぶつけ、誰が押し、誰が最初に殴り、どちらが先に腰の刃物へ手を伸ばしたのか。そこにいた者たちは、それぞれ自分の見たものを叫んでいた。
あるいは、自分が見たと思っているものを。
「もういい」
相手側の男が低い声で言った。
つい先ほどまでゲルの中で草場の範囲について話していた男だったが、その顔から交渉のときの落ち着きは消えていた。
「今日は帰る。この状態で話を続けても、次は腕じゃ済まないかもしれん」
こちらの年長者が眉を寄せた。
「待て。話はあと少しだった。ここで終われば――」
「だからこそだ。話し合いに来て殴り合いになり、とうとう刃物まで出た。このままここに残って、次に誰かが死んだら何を決めても意味がない」
こちら側の若者が何か言いかけたが、年長者が振り返った。
「お前たちはもう喋るな。十分だ」
その剣幕に若者は口を閉じた。
ゲルの中では、あと少しだった。
草場の境も、水場を使う時間も、馬を湖へ下ろす場所も、完全ではないながら互いに譲れるところを探し始めていた。
それが今は、負傷した若者の腕から落ちる血とともに、乾いた地面へ染み込んでいくようだった。
「……分かった。今日は終わりにしよう」
こちらの年長者が答えると、相手の男も短く頷いた。
「帰るぞ」
相手側の若者たちは馬を集め始めた。手綱を取る動きは荒く、馬たちも人間の苛立ちを感じ取っているのか、落ち着かなそうに耳を動かしている。
こちら側の者たちも黙ってその様子を見ていた。
追いかける者はいない。
けれど、互いを見る目は、彼らがここへ来たときとは明らかに違っていた。
相手側の男は最後まで残り、オルハンたちへ向き直った。
「昨日の馬については、もう蒸し返さない。それは中で決めたとおりにする。だが、今日のことは別だ」
若者の一人が何か言おうとしたが、オルハンは手で制した。
「分かってる。こっちも、なかったことにはできない」
「……ならいい」
男は馬へ乗り、仲間たちとともに野営地を離れていった。
六騎の蹄音が少しずつ遠ざかっていったが、誰一人、見送るために手を上げる者はいなかった。
*
負傷した若者はゲルの近くへ運ばれ、女たちが傷を洗うための湯と新しい布を用意していた。
血に濡れた布が外されるたび、鉄のような生臭い匂いが薄い風へ混じる。
オルハンは少し離れた場所に立ち、西へ遠ざかっていく騎馬の背中を見ていた。
その隣へバヤルが来た。
「……あと少しだったよな。草場も水場も、完全じゃないけどまとまりそうだった」
「ああ。少なくとも、もう一度話せるところまでは来てた」
バヤルは唇を噛み、手にした手綱を無意識に指へ巻きつけた。
「結局、誰が先だったんだろうな」
オルハンは答えなかった。
自分が外へ出たときには、すでに殴り合いになっていた。若者たちへ聞いても証言は食い違い、誰も同じ順番を語らない。
おそらく、丘の向こうへ帰っていった者たちも同じだろう。
しばらく黙っていたバヤルが、西の草原を見ながら呟いた。
「……このままだと、草場が血で染まるぞ」
弱まっていた風が再び吹き始めた。
草の先が一斉に同じ方向へ傾き、血と馬と土の匂いを少しずつ野営地の外へ運んでいく。
オルハンは何も答えず、六騎が丘の向こうへ消えた場所を見続けていた。
目の前には昨日と同じ湖があり、同じ草が揺れ、馬も羊も何事もなかったように草を食んでいる。
だが、もう昨日までと同じではなかった。
少し離れた草場を使う別の部族との揉め事だったものが、初めて互いの血を流すところまで来てしまった。
話し合いが終わらなかっただけではない。
次に顔を合わせるとき、双方が今日の血を覚えている。
それが、何より厄介だった。




