第11話 風の下に燻るもの
朝の草原を渡る風には、日が昇り始めたあとでも、夜の名残のような冷たさがわずかに残っていた。
サランはサルヒの鞍上で揺れながら、前方へ幾重にも続く緩やかな丘を眺めていた。低い草にはまだ細かな露がつき、青毛の牝馬がそこを踏み分けるたびに蹄の周りで雫が弾け、朝日を受けて一瞬だけ白く光っては草の間へ消えていく。
今日はテムルを連れてきていない。弟はゲルに残り、ボルやトゴ、それにミラ、ナラ、ガルの三頭を見ている。半日ほどで戻るつもりだったし、水場も近いため、十歳になったテムルなら簡単な留守番くらいは十分できる。
鞍の後ろには小さな革袋を括りつけてあり、中には以前仕留めた草原兎の皮が二枚と、少量の加工肉が入っていた。
市まで持っていくほどの量ではないが、バヤルたちの野営地なら、誰かが塩や丈夫な糸、革紐あたりと交換してくれるかもしれない。草原で暮らしていれば、何でも自分たちだけで揃えられるわけではなく、余ったものを必要なものへ替えるのは、市が立たない場所でもごく普通のことだった。
サランはサルヒの首筋へ手を伸ばし、指先で短い青毛を撫でた。朝の空気は冷たいのに、その下からは生き物らしい温かな体温が掌へじんわり伝わってくる。
「今日中には帰ろうね。テムルも待ってるから」
声をかけながら首元を撫でると、サルヒの耳が一度だけ後ろを向いた。
「分かってるって?」
もう一度耳が動き、サランは口元を緩めながら手綱を握り直した。
しばらく丘を越えていくと、その向こうへ細い煙が見えてきた。一本ではなく、幾筋もの煙が穏やかな朝の空へ昇り、その下には白や灰色のゲルが点々と並んでいる。羊や山羊の群れも見え、少し離れた場所では馬たちが草を食んでいた。
バヤルたちの野営地だった。
遠目には以前と大きく変わらない。
だが、距離が縮まるにつれて、サランは小さな違和感を覚えた。
野営地の外側には男が二人立ち、周囲の草原へ絶えず視線を走らせている。さらに奥には鞍を載せたままの馬が何頭も集められ、腹帯まで締められており、手綱を外せばすぐにでも乗れそうだった。
羊を連れて戻ってきた若者たちも一人ではなく、三人がまとまって動き、腰の武器を外していない。
サランはサルヒの歩みを少し落とした。
「……何かあった?」
サルヒも空気の違いを感じ取ったのか、耳を前へ向けたまま慎重に歩いている。
やがて見張りの一人がこちらへ気づき、その手が一瞬だけ腰へ下がったものの、サランとサルヒの姿を確かめると力を抜いた。
「…..サランか。一人でどうした?」
「おはよう。テムルは留守番。今日は交換してもらいたいものがあって来たの」
サランは片手を上げ、鞍へ括った革袋を軽く叩いてみせた。
「市へ行くほどじゃないってやつか」
「そういうこと。それより……今日はみんな武器を外さないんだね」
男の腰にある刃物へ目を落とすと、その表情からわずかに色が消えた。
「……中で聞け」
男はそれだけ答えて再び草原へ顔を戻し、サランもそれ以上は尋ねなかった。
サルヒをゆっくり野営地へ進ませると、ゲルの間では女たちが乳を扱い、子供たちが走り回っていた。焚き火の煙には乾燥させた家畜糞の匂いが混じり、その中へ温めた乳の甘い香りが薄く漂っている。
いつもの暮らしは続いている。
それなのに男たちの顔だけが固く、誰かが遠くへ目を向ければ、近くにいる者までつられるように同じ方角を確認していた。
「サラン?」
聞き覚えのある声に振り返ると、ゲルの脇で鞍を確かめていたバヤルがこちらを見ていた。今日はハルガに乗っておらず、手には革紐を握っている。
「おはよう。それより、何かあった?」
サルヒから降りて地面へ足をつけると、朝露を含んだ草が靴底の下で柔らかく沈んだ。
「……分かるか」
「分かるよ。見張りは増えてるし、みんな武器を持ったまま。馬だってすぐ乗れるようにしてある。前はこんなんじゃなかったでしょ」
サランが鞍を載せた馬たちへ顎を向けると、バヤルは少し黙ってから、持っていた革紐を鞍へ置いた。
「昨日、馬が混じってた方の連中が来た。馬のことと、草場と水場について話をするためにな」
「馬は返してもらったんでしょ?」
「ああ。馬の話は決着がついたし、草と水もまとまりかけてた。だが、その間に外にいた若い連中が揉めた」
バヤルの声が低くなる。
「最初は言い合いだったらしい。それが殴り合いになって、最後には刃物まで出た」
サランの表情が変わった。
「怪我人は?」
「一人、腕を切られた。死ぬような傷じゃないが、しばらくまともには使えないだろうな」
バヤルが視線を向けた先では、若い男がゲルの前に座っていた。左腕には厚く布が巻かれ、その上から革紐で固定されている。隣では家族らしい女が包帯を確かめながら、静かに何かを話しかけていた。
「誰が最初にやったの?」
「それが分からん。こっちは向こうが先だと言ってるし、向こうはこっちが先だと言ってる。肩をぶつけた、押した、先に殴った、先に刃物へ手を伸ばしたって、聞く奴によって話が違うんだ」
「オルハンも見てなかったの?」
「俺たちはゲルの中で話し合ってた。外へ出たときには、もう殴り合いになってたからな」
サランはもう一度、腕を固定された若者を見た。
「じゃあ、本当にどっちが先だったのか分からないまま、お互いに相手が悪いと思ってるんだ」
「……そういうことだ。向こうも今ごろ、こっちを警戒してるだろうな」
その答えに、サランは小さく息を吐いた。
双方とも、自分たちこそやられた側だと思っている。
それが一番厄介なのかもしれなかった。
しばらく黙っていたサランだったが、やがて持ってきた革袋を持ち上げた。
「じゃあ、こんなときに悪いけど、これを誰か交換してくれない?」
バヤルが革袋へ目を落とし、それから呆れたようにサランを見る。
「……お前、この話を聞いた直後に物々交換するのか?」
「そのために来たんだから仕方ないでしょ。昨日刃物が出たからって、私の塩が勝手に増えるわけじゃないんだから」
一瞬の間を置いて、バヤルの口元がわずかに緩んだ。
「変わらんな、お前は。何を持ってきた?」
「兎皮二枚と肉。塩か糸が欲しいけど、いい革紐でもいいよ」
「なら、こっちだ」
いつもと変わらないサランの調子に、バヤルもほんの少しだけ肩の力を抜いて歩き出した。
*
兎皮を欲しがったのは、バヤルの親戚だという年配の女だった。
サランが敷物の上へ二枚の皮を広げると、女は膝をつき、指先で毛並みをゆっくり逆撫でした。乾いた皮にはわずかに獣の匂いが残っていたが、処理はきれいにできている。
「悪くないね。これなら手袋の内張りに使えそうだ」
「ちゃんとやったから。じゃあ、塩と交換して」
女は一枚を裏返して傷の有無を確かめてから、近くの塩袋へ手を伸ばした。
「二枚なら、これくらいだね」
「もうちょっとほしいな。二枚ともほとんど傷ないでしょ?」
「兎二枚にしちゃ十分だよ。嫌なら市まで持っていきな」
「市まで行くのが面倒だからここに来たの。でも、もう少しくらいいいでしょ」
「強情だねえ」
少し離れて腕を組んでいたバヤルが、とうとう口を挟んだ。
「お前、市でも毎回こんな調子で値切ってるのか?」
「値切ってるんじゃなくて、ちゃんと交渉してるの。生活が懸かってるんだから当たり前でしょ」
年配の女が吹き出した。
「そこまで言うなら少し増やしてやるよ。その代わり、肉も少し置いていきな」
「それだと私が損してない?」
「嫌なら持って帰りな」
女が皮から手を離すと、サランも黙ったまま相手を見る。どちらも引く気配がないのを横で見ていたバヤルが、小さく息を吐いた。
「似た者同士だな」
「うるさい」
サランは少し考えてから革袋の中の加工肉を取り出した。
「じゃあ、これくらい足す。その代わり、丈夫な糸もつけて」
「ほんとに強情な娘だね」
女は楽しそうに笑いながらも、結局は頷いた。
兎皮二枚と少量の加工肉は、塩と丈夫な糸へ変わった。サランは受け取った糸を指へ巻き、軽く引いてみる。少し硬いものの、指先へ返ってくる弾力は悪くない。
「なかなか肝が据わった娘だね。こういう子はいい嫁になるよ」
女はそう言ってからバヤルを手招きし、サランに聞こえないよう耳元へ口を寄せた。
「バヤル、あの娘を嫁にもらったらどうだい?」
「……いきなり何言ってんだよ」
バヤルは女から顔を逸らし、思わずサランの方を見た。
当の本人は手に入れた塩と糸を確かめるのに夢中で、二人の会話にはまったく気づいていない。
ようやく用事も済み、あとはサルヒに乗って帰るだけだった。
そのとき、野営地の外から激しい蹄音が響いた。
単騎だった。
しかも速い。
遠くに聞こえていた音はみるみる大きくなり、硬い地面を叩く蹄音が野営地全体へ緊張を走らせる。周囲の男たちが一斉に顔を上げ、バヤルの表情も変わった。
駆け込んできた馬の胸は汗で濡れ、荒い呼吸に合わせて鼻孔が大きく開いている。騎手も肩を激しく上下させながら、馬が完全に止まるより先に声を張り上げた。
「オルハン! 南西の放牧地で向こうの連中と揉めてる!」
ゲルの向こうから男たちが走ってくる。
「どれくらいいる!」
「向こうは十人くらい、こっちは七人だ! 羊が向こうへ流れて、戻そうとしたところで揉めた。俺は先に知らせろって言われて戻ってきたから、その後は分からん!」
その一言で、野営地の空気が変わった。
*
さっきまで腰を下ろしていた男たちが立ち上がり、若者たちは鞍をつけたまま待たせていた馬へ走った。杭から手綱が次々と外され、革の軋む音や腹帯を締め直す音、馬の荒い鼻息が重なる。
走り回る足が乾いた土を蹴り上げ、草と土の匂いが舞った。
サランはその場に立ち尽くし、目の前で野営地の姿が変わっていくのを見ていた。つい先ほどまで警戒しながらも乳を搾り、革を縫い、物を交換していた場所が、一瞬のうちに戦いへ備える場所へ変わっていく。
「バヤル!」
誰かに呼ばれ、バヤルがハルガのもとへ走ろうとした。
「行く!」
「バヤル、待って。私も――」
「来るな」
言い終える前に遮られ、サランは眉を上げた。
「まだ何も言ってない!」
「言う顔してる。お前は関係ないし、今は向こうがどこまで出てるのかも分からない。ここにいろ」
「でも、テムルが待ってるから帰らないと」
「だからこそだ。今、南西へ出る方が危ない。落ち着くまで待ってくれ」
サランは反論しかけたが、口を閉じた。
自分一人ならサルヒに乗れば大抵の相手から距離を取れる。だが、相手も馬に乗った草原の人間であり、しかも双方が頭に血を上らせている状況では、普段と同じようにはいかない。
「……分かった。ここで待つ。でも遅くなったら、テムルに怒られるからね」
「それは……悪い」
バヤルが困ったような顔を見せ、ほんの一瞬だけいつもの空気が戻った。
しかし、すぐにオルハンの声が響いた。
「いいか、向こうが引くなら追うな! まだ何が起きてるか分からん。まずこっちの連中を戻すことだけ考えろ!」
「でも、向こうが先に――」
「まだ見てもいないことを決めつけるな! 行くぞ!」
すでに十数人が馬へ乗っていた。
一斉に馬が駆け出し、蹄が草原を叩いて土埃が舞い上がる。バヤルもその中へ加わり、ハルガの黒鹿毛の身体が騎馬の群れの中を進んでいった。
やがて一団は南西の丘を越え、見えなくなった。
*
待っている時間は、妙に長かった。
野営地には年配の男たちと女、子供、それに何人かの若者が残っていた。女たちは乳を混ぜ、革を縫い、火へ燃料を足しながらも、何度も手を止めて南西の草原へ目を向けている。
サランもサルヒのそばへ戻り、鞍を外さないまま待っていた。
青毛の牝馬は周囲の緊張を感じ取っているのか、いつもより頻繁に耳を動かしている。サランが首筋へ手を置くと、掌の下から温かな体温と筋肉の動きが伝わり、それが少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。
「大丈夫だよ。もう少し待とうね」
サルヒへ言ったつもりだったが、自分自身にもそう言い聞かせているようだった。
南西から吹いてくる風には草の青い匂いと乾いた土、家畜の匂いが混じっている。
やがて、その中に別の音が交じった。
サランは顔を上げた。
まだ遠く、はっきりとは聞き取れない。人の声のようだったが、怒鳴っているのか呼び合っているのかさえ分からない。
しばらくすると、丘の向こうに薄い土埃が上がった。
「……あそこ?」
サランが目を細めると、近くにいた年配の女も同じ方角を見る。
「何か見えるのかい?」
「見えない。でも、風に乗って声みたいなのが聞こえる」
女はしばらく耳を澄ませたものの、やがて首を振った。
「私には聞こえないね。今は待つしかないよ」
サランは無意識に腰のスリングへ手を伸ばした。
サルヒなら、あの丘までそれほど時間はかからない。
だが、バヤルには来るなと言われた。
それに、これは自分が勝手に首を突っ込んでいい争いではない。
サランはスリングから手を離した。
陽が少しずつ高くなり、朝の冷たさが消えていく。風向きが変わるたび、遠くの土埃が薄れ、また別の場所で立ち上った。
どれほど待ったのか分からなくなりかけたころ、子供の声が野営地へ響いた。
「戻ってきた!」
サランはすぐに立ち上がった。
南西から何騎もの馬が近づいてくる。
先頭にはバヤルがおり、その少し後ろにはオルハンも見えた。全員戻ってきたのだと思った直後、サランは一団の中ほどにいる馬を見て表情を変えた。
一頭には二人が乗り、後ろの男は前の男へ身体を預けている。別の馬では、騎手が片手で肩を押さえていた。
「怪我人だ! 布と湯を持ってこい!」
野営地に残っていた者たちが一斉に動いた。
騎馬が入ってくると、汗をかいた馬の強い匂いと巻き上げられた土埃が広がり、その中へ血の鉄臭さが混じった。
サランはその匂いを知っている。
狩りでは何度も嗅いできた。
けれど、人間から流れる血の匂いは、同じはずなのにまるで違うものに感じられた。
「バヤル!」
サランはハルガへ駆け寄った。
バヤルは自分で馬から降りたが、額には土がつき、上着の袖も少し裂けている。
「怪我したの?」
「俺は大丈夫だ。殴られても切られてもない」
「……ほんと?」
「ああ、本当だ」
サランは腕から肩、脚まで目を走らせ、少なくとも血が出ていないことを確かめてようやく息を吐いた。
少し離れた場所では、負傷者が馬から下ろされている。一人は頭から血を流し、もう一人は肩を押さえたまま顔を歪めていた。
「何があったの?」
バヤルは荒い呼吸を整えてから、沈んだ声で答えた。
「向こうとぶつかった。最初は押し合いと殴り合いだったらしいが、俺たちが着いたころには武器を抜く奴まで出てた。途中で向こうの年長者とオルハンが止めて、どうにか双方を引かせた」
サランの胸が沈む。
「……死んだ人は?」
「こっちにはいない。向こうは分からん。少なくとも俺が見た範囲じゃ倒れたままの奴はいなかった」
「じゃあ、これで終わったの?」
バヤルは答えなかった。
その沈黙だけで、サランにも分かった。
やがてオルハンがこちらへ歩いてきた。服には土がつき、右手の甲が赤く腫れている。周囲では負傷者を運ぶ声が続き、泣いている子供もいれば、怒鳴る男を宥めている者もいた。
少し前まで、同じ場所でサランは兎皮と塩の値段を話していた。
それが遠い出来事のように思えた。
「オルハン……これ、まだ終わらないの?」
オルハンは足を止めた。
すぐには答えず、南西の草原へ目を向ける。その方向から吹いてきた風が、汗で濡れた髪を揺らした。
「……たぶんな」
サランも同じ方角を見た。
遠くには、いつもと変わらない草原が広がっている。
空は青く、草は風に揺れ、馬も羊も腹が減れば何事もなかったように草を食べる。
その向こうにいるのも、ほんの少し前までは草場と水場をどう分けるか話し合っていた相手だった。
サランは腰に下げた革袋へ触れた。
中には、兎皮と肉を交換して手に入れた塩と糸が入っている。
今日はそれを手に入れ、日が高くなる前にテムルのもとへ帰るだけのはずだった。
それなのに、帰るころには朝にはなかった不安まで胸の奥へ抱えている。
草原を風が渡っていく。
その風の向こうで始まった争いがどこまで広がるのか、今のサランにはまだ分からなかった。




