第12話 風に背を押されて
翌朝、サランはいつもより早く目を覚ました。
ゲルの外では、まだ朝日が丘の向こうから顔を出しきっていない。薄青い空の下で草原は夜露をまとい、風が渡るたびに草の先が重たそうに傾いては、雫を散らしながらゆっくりと起き上がっていた。
火床には昨夜の灰が残っている。サランは肩まで引き上げていた毛布を外し、隣で眠っているテムルへ目を向けた。弟はまだ毛布に半分埋もれ、規則正しい寝息を立てている。
起こさないよう静かに身体を起こしたところで、昨日の光景が頭へ浮かんだ。
ただ兎皮を塩と糸へ交換しに行っただけだった。それなのに帰るころには、負傷した男たちの姿と、汗をかいた馬の強い体臭に混じった血の鉄臭さが鼻の奥へ残っていた。夜になってテムルと食事をしている間も、ふとした拍子に包帯へ滲んだ赤い色を思い出してしまった。
サランは小さく息を吐き、火床の灰をかいて、わずかに残っていた熱へ乾いた燃料を足した。しばらくすると細い煙が立ち上がり、ゲルの内側に染みついた獣脂や煙の匂いが温められ、朝の冷えた空気の中へゆっくり広がっていく。
湯を沸かそうと水袋へ手を伸ばした時に、外からサルヒの低い鼻鳴りが聞こえた。
「……どうしたの?」
入口へ移動して覆いを持ち上げると、朝の冷気が隙間から流れ込み、まだ温まっていない頬や首筋を撫でた。
思わず肩をすくめながら外を見ると、サルヒがゲルの横で頭を上げ、耳をまっすぐ前へ向けている。その視線を追った先には、草原の向こうから近づいてくる二騎の人影があった。
先頭はオルハン、その少し後ろには見覚えのある黒鹿毛の馬がいる。
「……バヤル」
意識するより先に名前がこぼれた。
サランは入口を大きく開けて外へ出た。露を含んだ草が靴の下で柔らかく沈み、冷たい湿気が靴越しに伝わってくる。
二騎は急いではいなかったが、ただ顔を見に来たような雰囲気でもない。オルハンはサランを見つけると片手を上げ、その後ろでバヤルも同じように手を上げた。
「朝から二人で珍しいね。何かあったの?」
「サランに話があって来たんだ」
ハルガを止めたバヤルの返事を聞きながらも、サランの目はその身体を上から下まで確かめていた。昨日の土まみれの上着は替えられ、少なくとも見えるところに傷や包帯はない。
「昨日は大丈夫って言ってたけど、朝になって痛くなったところはない? 本当に怪我してない?」
「大丈夫だって。お前、母親みたいなこと言うな」
「……心配してるだけ」
少しむっとして返すと、バヤルも何か言いかけたが、隣でオルハンが馬から降りた。
オルハンは二人を一度見比べてから、サランへ向き直る。
「サラン、少し話がある。テムルはまだ寝てるのか?」
「うん。まだ寝てるけど……聞かせたくない話?」
「できれば少し離れたい」
その声の低さだけで、先ほどまでの軽さがサランの表情から消えた。
三人はゲルから少し離れた場所まで歩いた。朝の風が低い草を撫で、その向こうではボルとトゴがのんびりと草を食んでいる。ミラとナラも近くにいたが、ガルだけは少し離れた場所で若草を探し、ときおり頭を上げてこちらを見ていた。
その変わらない朝の景色を眺めてから、サランは腕を組んだ。
「それで、昨日のこと?」
「ああ。昨日のことで、向こうとの話し合いはかなり難しくなった。俺たちも話すこと自体を諦めたいわけじゃないが、もう若い連中を何人か止めれば済む段階じゃない」
「……昨日の衝突で変わったんだね」
オルハンが頷く。
「放牧地で十人近くずつがぶつかったからな。向こうもこれからは武器を持って動くだろうし、こっちも二、三人だけで羊を出すわけにはいかん。馬の見張りも増やすし、水場へ行くときも固まって動くことになる」
サランは腕を組んだまま少し俯いた。
昨日見た負傷者たちが頭へ浮かぶ。
「……もう、また衝突するかもしれないことを考えて動かなきゃいけないんだ」
「ああ。できれば避けたいが、今はそう考えておくしかない」
昨日のような曖昧さは、その声にはほとんど残っていなかった。
サランは組んでいた腕を解いた。
「それで、私に何を頼みたいの?」
オルハンが一度バヤルを見たあと、サランへ向き直った。
「しばらく、うちの野営地で見張りと護衛をしてほしい。戦える男の多くは放牧地や水場、外の見張りへ回さなきゃならん。野営地には女や子供、年寄り、怪我人が残るが、護衛に回せる男は多くない」
そこまで聞けば、サランにも事情は分かった。
「何もなければ見張ってるだけで、誰か近づいてきたり家畜を狙ったりしたら知らせる。危ないと判断したら、残ってる人たちを逃がす……そういう仕事?」
「そうだ。もちろん、お前一人に任せるわけじゃない。残る男もいる」
「でも、そこに私も欲しいんだ」
「ああ。馬に乗れて遠くも見られるし、武器も使える。何かあればすぐ走れる。それに正直に言えば、人手が足りん。お前の騎手としての腕も、狩人としての腕も買ってる」
自分の腕を認められること自体は嬉しい。
だが、これは競走でも狩りでもなかった。
昨日嗅いだ血の匂いの、その続きにある仕事だった。
「どれくらいの間?」
「それが、まだ分からん」
その答えを聞いた途端、サランの顔が曇った。
「それだと無理。昨日みたいに半日で帰れるならいいけど、いつ戻れるかも何日続くかも分からないなら、テムルを一人にしておけないよ」
オルハンはゲルと周囲の家畜を見渡してから、少し考えた。
「なら、テムルもゲルも一緒にうちの近くへ移したらどうだ? 水も草もあるし、サルヒたちを置く場所もある。テムルを一人にする必要もなくなる」
「それは嫌」
あまりに早い返事に、オルハンとバヤルがそろって黙った。
「……ずいぶん早いな。理由くらい聞かせてくれ」
サランは唇を結び、少しだけ視線を下げた。
今の草場が気に入っている、水場が近い、ゲルを畳むのが面倒だと言おうと思えば言える。
だが、どれも本当の理由ではない。
「そっちは今、争いの中にいるでしょ。私が仕事として行くのはいいよ。自分で決めて危ない場所へ行くなら、それは私のことだから。でも、そこへテムルまで連れていくのは嫌」
「野営地の中でもか?」
「うん。野営地の中でも、今は争いの片方でしょ」
朝の風が三人の間を抜け、サランの長い袖と髪の先を揺らした。
「私が危ないところへ行くのと、テムルをそこへ連れていくのは別だから」
バヤルは何も言えず、オルハンも少し考えてから静かに尋ねた。
「……巻き込みたくないんだな」
「うん。テムルは……私に残ってる、大切な家族だから」
オルハンはしばらくサランの顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。なら、この話は――」
「僕はここにいるよ」
背後から聞こえた声に、三人が同時に振り返った。
ゲルの入口にテムルが立っている。寝起きらしく髪はあちこちへ跳ね、上着の合わせも少しずれていたが、こちらを見る目には眠気がほとんど残っていなかった。
「……聞いてたの?」
「聞こえたよ。姉ちゃん、僕の話してたじゃん」
「テムルには関係ない話だから」
「僕を一人にできないって話なら、関係あるよ」
サランは言葉に詰まった。
横でバヤルが一瞬だけ顔を逸らしたが、テムルは構わず三人のところまで歩いてくる。
「僕ならここで待ってられるよ。昨日だって一人で留守番できたし、ボルもトゴも、ミラたちも見られる。水場にも連れていけるし、知らない人が来たら近づかない。夜になったらゲルの中にいる」
「昨日は半日だったでしょ。今回は今日だけで終わるかも分からないんだよ」
「分かってる。でも、姉ちゃんは僕がいるから行かないって言ってるんでしょ?」
サランは返事を止めた。
胸の内をそのまま言い当てられ、すぐには否定できない。
テムルは少し間を置いてから、今度はバヤルへ目を向けた。
「それに姉ちゃん、バヤルが心配なんでしょ」
サランの表情が固まった。
バヤルも何も言えず、オルハンは聞かなかったことにするように遠くの草原へ視線を向ける。
「……それとこれは別だから」
「別じゃないと思うけど」
「テムル」
少し強めに名前を呼んだものの、その先が続かなかった。
否定しようと思えばできる。
けれど、すぐに「違う」と言い切れない自分に気づき、サランは唇を結んだ。
テムルはそれ以上追及せず、姉の顔を見上げた。
「姉ちゃんが守れる人がいて、頼まれたなら行ってきていいよ。僕がいるから行けないっていうなら、僕はちゃんとここで待ってる」
サランはオルハンへ視線を移した。
オルハンは何も言わず、急かすこともしない。
サランはゆっくりゲルを振り返った。
小さな簡易ゲルが朝の草原に立ち、その向こうではボルとトゴが草を食んでいる。少し離れたところでは山羊たちが歩き、水場も遠くない。
いつもの場所だった。
少なくとも今は、争いの気配もここまでは届いていない。
それでも、テムルを一人残すことへの不安が消えるわけではなかった。
「……じゃあ、約束して」
サランは弟の前へしゃがみ、その両肩へ手を置いた。
「少しでも危ないと思ったら、ボルに乗って東の丘の向こうへ逃げること。ゲルも荷物も、トゴも山羊も全部置いていい。連れていこうなんて考えないで」
「山羊も?」
「うん。何も持たなくていい。ボルだけ連れて逃げて」
家畜は二人にとって大切な財産であり、一緒に暮らしている生き物でもある。それを置いていけと言われるとは思っていなかったのか、テムルの目が少し大きくなった。
「でも――」
「命より大事なものはないから。知らない人には近づかない、向こうの丘より先には行かない、水場へ行くときも周りを見る。それだけは絶対に守って」
サランが真剣な目で言い聞かせると、テムルはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。危なかったら何も持たずにボルで逃げる。ちゃんと周りも見るよ」
「……夜になったら外にも――」
「姉ちゃん、それも分かってる」
困ったように眉を下げたテムルを見て、バヤルがとうとう笑った。
「お前、本当に母親みたいだな」
「バヤルはうるさい」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
素直に答えたバヤルを睨んでから、サランは鼻から大きく息を吐いた。
胸の奥の不安は消えない。
それでも、テムルを争いの渦中へ連れていくより、ここに残した方がいい。その判断だけは変わらなかった。
しばらく黙っていたオルハンが、改めて口を開いた。
「まだ大事な話をしてなかったな。護衛の報酬はもちろん払う。それとは別に、お前とテムルの二人分、一週間分の食料を渡すつもりだ」
「私とテムルの?」
「ああ。保存肉、乾燥乳、麦、塩、それに脂を少し。弟を残して来てもらうんだから、お前がこっちにいる間くらい、食い物の心配をしなくて済む量は用意する」
予想していなかった条件に、サランは少し目を見開いた。
「……そこまでしてくれるの?」
「こっちの都合で頼むんだ。それくらいはする。まず三日分を今日ここへ届けさせる。長引くようなら追加を運ばせるし、早く終わっても一週間分は渡す」
自分の食料なら多少減っても構わない。
だが、留守の間にテムルが食べるものまで用意されるなら、心配事が一つ減る。
「それなら助かる。護衛そのものの報酬は?」
「塩でも肉でも貨幣でもいい。何日続くか分からんから、終わったあとにまとめて――」
「それは嫌。終わってから少なかったら困るから、一日ごとに決めて」
「最後まで聞けと言いたいところだが……分かった。一日ごとにつける。それならいいな?」
オルハンが額へ手をやる横で、バヤルが笑いを堪えている。
サランは少し考えてから頷いた。
「それならいい。でも、できれば日が落ちるまでに一度は帰りたい。無理なら誰かこっちへ来て、テムルの様子を見てほしい。それと、ここまで危なくなりそうならすぐ知らせて。何日も続くようなら、そのときはまた考える」
「ああ。夜には外へ出ていた男たちも戻るから、できるだけ帰れるようにする。無理なときは誰か寄らせるし、こっちまで危険が及びそうなら必ず知らせる。それでいい」
「うん。じゃあ……今日から行く」
傷ついて戻ってきた人たち、野営地に残る女や子供たち、オルハン、そしてバヤル。
自分にできることがある。
しかも、ただ首を突っ込むのではなく、仕事として頼まれている。
サランはもう一度テムルへ向き直った。
「さっきの約束、覚えてる?」
「危なくなったらボルに乗って逃げる。荷物も山羊もゲルも全部置いていく」
今度は迷わず答えた弟に、サランはようやく満足そうに頷いた。
「よし。ちゃんと待っててね」
そのまま頭へ手を伸ばし、寝癖の残る髪をぐしゃりと撫でる。細く柔らかな髪が指の間を滑り、テムルは少し迷惑そうに頭を振った。
*
出発の準備はすぐに終わった。
サランはスリングを腰へ巻き直し、石弾を入れた袋を開いて中身を確認した。指先で一つ拾い上げれば、使い慣れた石の硬く滑らかな感触が伝わってくる。
いつもの狩りにも持っていく道具だった。
それなのに今日は、同じものには感じられなかった。
石を袋へ戻して口をしっかり締め、分銅武器も鞍へ括る。それからサルヒの腹帯へ手をかけ、脚と蹄にも異常がないことを確かめた。
青毛の牝馬はいつもと変わらず、サランが首筋へ触れると静かに鼻を鳴らす。
「今日もお願いね」
サルヒの首筋へ一瞬だけ額を寄せると、日に温まり始めた毛の柔らかな感触が頬へ触れ、馬特有の温かな匂いが鼻先をかすめた。
鐙へ足をかけ、一息に鞍へ跨がる。
オルハンも自分の馬へ乗り、バヤルはハルガの腹帯を最後に確かめてから鞍上へ身体を持ち上げた。
サランは手綱を握りながら、もう一度ゲルを見る。
テムルが入口の前に立っていた。
「テムル、本当に――」
「分かってる! 姉ちゃん、行ってきて!」
最後まで言わせてもらえず、サランは少し口を開いたまま弟を見た。
テムルは苦笑いを浮かべている。
朝の草原へ、その声がよく通った。
サランはしばらく弟を見つめたあと、片手を高く上げた。
「行ってくる!」
サルヒの腹へ軽く脚を当てると、青毛の牝馬が歩き始め、オルハンとバヤルの馬もそれに続いた。
前から吹いてくる風が髪や服を揺らし、露の残る草の青い匂いを運んでくる。
少し進んだところで振り返ると、テムルはまだゲルの前で手を振っていた。
その姿を見届け、サランは前を向く。
胸の奥に残る不安が消えたわけではない。
テムルを一人残したこと。昨日まで話し合おうとしていた二つの部族が、今は互いを警戒して武器を持って動いていること。そして、自分がその片方から仕事を受けたこと。
どれも昨日の朝にはなかった。
それでも、その不安を抱えたまま進むことを、今日は自分で選んだ。
丘を一つ越えると、遠くにバヤルたちの野営地から立ち上る煙が見えてきた。
昨日までなら、そこは祭りへ招かれ、物々交換をし、知り合った者たちが暮らしている場所だった。
今日からは、そこへ向かう理由が一つ増えた。
自分が守るために向かう場所になった。




