第13話 草原に走る火
丘を越えてバヤルたちの野営地へ近づくにつれ、サランは昨日までとは明らかに違う空気を感じ取っていた。
立ち並ぶゲルも、その周囲を歩く人々も、遠目にはいつもと大きく変わらない。それでも近づけば、男たちの多くが腰に刃物を提げ、馬の鞍や腹帯を念入りに確かめているのが見えた。普段ならあちこちから聞こえてくる子供たちの声も少なく、女たちは水袋や食料を運びながら、ときおり先日争いとなった方角へ目を向けている。
サルヒの蹄が乾いた地面を踏むたび、軽い土埃が舞い上がる。野営地へ入ると、朝から強くなり始めた日差しに温められた土と、馬の汗、ゲルから漂う煙の匂いが混ざって鼻へ届いた。
「……昨日とは全然違うね」
周囲を見渡しながら呟くと、隣を進んでいたバヤルも人々の様子へ目を向けた。
「もう話し合いだけでどうにかする段階じゃないからな」
サランは何も返さなかった。怖くないわけではなく、昨日は怪我をした者たちを見たし、血の匂いもまだ覚えている。これからバヤルたちが向かう先では、それより大きな争いになるかもしれないと思うと、胸の奥へ重たいものが沈んでいった。
サランがサルヒを止めると、オルハンも馬から下りた。
「サラン、あっちが緩衝地帯だ。俺たちはそこまで出る」
サランも鞍から身体を滑らせて地面へ降り、オルハンが指した北側へ目を向けた。
「もう、ぶつかることを考えて動くしかないんだね。それで、ここには何人残るの?」
「戦える男は六人だ。怪我人もいるが、あいつらは数に入れるな」
周囲へ目を走らせると、残る男たちの中には若い者もいれば年配の者もおり、全員が騎手というわけでもなさそうだった。
「分かった。私は昨日聞いた通り、野営地の外を見て、何かあったら知らせる。家畜を狙われたら追い払って、危なくなったら残ってる人たちを逃がせばいいんだよね?」
「ああ。それでいい」
「任せて」
契約した仕事なのだから、自分は任されたことをすればいい。そう考えているうちに、オルハンは少し離れたところから呼ばれてそちらへ歩いていき、残ったバヤルはハルガの腹帯を引き、鐙の長さを確かめてから、鞍へ括りつけた武器にも手を触れていた。
サランはその様子を黙って見ていたが、やがて腰へ手を当てた。
「……バヤル、気をつけてね」
バヤルの手が止まり、振り返った顔の口元が少し緩んだ。
「心配してるのか?」
その言葉を聞いた瞬間、今朝のテムルの顔と、『姉ちゃん、バヤルが心配でしょ』と言われたことが頭へ浮かんだ。サランは一瞬だけ言葉を詰まらせ、何でもないように視線を逸らした。
「……怪我して戻ってこられたら、こっちが困るでしょ」
「ありがとう。こっちも頼んだぞ」
バヤルは小さく笑い、ハルガの首筋を一度撫でてから鞍へ跨がった。
「うん。任せて」
サランが腰のスリングへ軽く触れて答えると、バヤルはハルガを歩かせていった。その先ではオルハンをはじめとした男たちが次々と馬へ跨がり、徒歩の者も含めて北へ向かうためのまとまりを作り始めている。
やがて十数騎を先頭に男たちが野営地を離れ、馬蹄が乾いた地面を叩いて土を巻き上げた。サランがその姿を目で追っていると、途中でバヤルが一度だけ振り返ったため、片手を上げてみせる。それに応えるようにバヤルも鞍上から手を上げ、そのまま男たちとともに北へ進み、やがて草原の起伏の向こうへ姿を消した。
*
男たちを見送ったサランはすぐに仕事を始め、まずはサルヒに乗らず、手綱を引いて野営地を歩きながら、ゲルがどこまで広がっているのか、馬や羊がどこへ集められているのか、残った六人の男がどこに配置されているのかを一つずつ確かめていった。
何より重要なのは、もし逃げなければならなくなった場合の道だった。野営地の南側には比較的なだらかな草原が続いているため、北から何か来れば、そちらへ人々を逃がすのが一番早い。東には浅い窪地があり、その先は少し見通しが悪く、西側には馬と羊が多く集められていた。
「逃げるなら、あっちだね」
サランが鼻先を撫でると、サルヒは答える代わりに静かに鼻を鳴らした。
いつでも乗れるよう鞍は外さず、スリングも腰につけたままにしてある。分銅武器も後腰へ括り、すぐ手に取れる位置を確かめてから北側へ向かうと、そこには残された男が二人おり、一人は四十を越えているように見え、もう一人は二十歳になったばかりくらいだった。
「サランだったな。オルハンから聞いてる。何か見えたら俺たちにも知らせてくれ。それと、異変があったときはこれを鳴らせ」
年上の男から渡されたのは、小さな銅鑼だった。
「分かった。じゃあ私、一度外まで見てくる。遠くまでは行かないから」
「ああ。一人で行きすぎるなよ」
サランはサルヒへ跨がって野営地の外へ出ると、少し高くなった場所まで進んで馬を止めた。吹き抜ける風が長い袖をはためかせ、髪を何度も頬へ運んでくるため、片手で髪を耳へかけながら北の草原へ目を凝らす。
男たちの姿はもう見えず、馬も人も土煙もない草原だけが遠くまで続いていた。風が草を押し倒すたびに濃淡の違う緑が波のように広がり、その穏やかな景色のどこかで争いが始まろうとしていることが、かえって不自然に思えた。
しばらく眺めても異変はなく、サランはサルヒの首筋を軽く叩いた。
「今は何もないね。戻ろう」
*
それからしばらく何も起きない時間が続き、日が高くなるにつれて朝には冷たかった風も温まっていった。
サランは馬で北側を確認しては戻り、水を飲んでから今度は歩いて西側の家畜を見に行った。残った男たちとも、いざというときには南へ人々を逃がすことを確認し、やるべきことを終えるたびに北を見るものの、そこには相変わらず草原が広がっているだけだった。
ゲルの間では女たちがいつも通りに手を動かしていたが、普段の空気とは明らかに違う。馬がいななけば誰かが顔を上げ、遠くで鳥が群れになって飛び立てば何人もの視線が北へ向かい、その緊張はサランにも伝わっていた。
煮炊きの煙と乳の匂いが漂う中、水袋を傾けてぬるくなった水で喉を潤しながら、サランはもう何度目か分からない北の草原へ目を向けた。
「まだかな……」
口にしてから、自分でも何を待っているのか分からなくなった。何も起きない方がいいし、男たちがそのまま戻ってくれば、自分の仕事も何事もなく終わる。それが一番いいはずなのに、何も分からないまま待ち続ける時間が、少しずつ胸の奥へ重く積もっていた。
そのとき、隣にいたサルヒが不意に頭を上げ、耳を北へ向けた。サランもすぐに視線を追うと、遠くに小さな影があり、目を細めれば騎馬が一騎、北からこちらへ向かっている。馬は全速に近い勢いで駆け、騎手は鞍へ身体を伏せるようにしていた。
「……誰か来る。こっちの人だ!」
服装が判別できる距離まで近づいたところでサランが声を上げると、近くにいた男たちが動き、女たちも作業の手を止めた。
騎馬はみるみる近づき、馬の腹まで汗で濡れていた。野営地へ入るなり騎手が手綱を強く引くと、馬は土を蹴りながら速度を落とし、男が鞍上から声を張り上げた。
「始まった! 緩衝地帯でぶつかった! 向こうもかなりの人数を出してきてる!」
その声で周囲の空気が一瞬にして変わり、残っていた男の一人が駆け寄った。
「状況はどうなんだ?」
「俺が伝えに出たときは始まったばかりだ。すぐ崩れるような状況じゃないが、まだどうなるか分からん!」
伝令の男は荒い息を吐きながら馬から降り、女から差し出された水を一気に飲んでから、残りを馬の口元へ持っていった。サランは少し離れたところからその姿を見つめ、本当に始まったのだという実感とともに胸の奥が固くなり、鼓動が強くなるのを感じた。
それでも、自分の役目まで変わるわけではない。
「サラン、こっちは俺たちがやる。周りを頼む」
「分かった。何か見えたらすぐ知らせる」
呼びかけに頷き、サランはすぐにサルヒへ跨がった。
*
伝令が少し休んでから再び北へ戻り、それからさらに時間が過ぎると、野営地では形だけでも保たれていた日常が少しずつ消えていった。
女たちは水袋をまとめ、保存できる食料を袋へ詰め、子供たちはゲルの近くへ集められている。馬も散らさず、必要ならすぐ動かせる範囲へ寄せられ始める中、サランは野営地の外を回り続けた。
戦いそのものは見えないものの、風向きが変わるたびに遠くから何かの音が届くことがあった。人の声なのか、馬のいななきなのか、それとも草を渡る風なのかさえ判別できないほど微かで、耳を澄ませても答えが出ないまま時間だけが過ぎていく。
やがてサランは、最初の伝令が戻ってから随分経っているのに、次の知らせが来ていないことに気づいた。残っている男たちも同じことを考えているらしく、誰も口には出さないものの、北を見る回数が明らかに増えている。
サランはサルヒに乗ったまま北側の外縁に留まり、汗ばんだ手で革の手綱を握った。風が吹くたび、馬の体臭と乾いた草の匂いが鼻をかすめる中、不意にサルヒが耳を動かして低く鼻を鳴らしたため、サランもすぐに顔を上げた。
「……また来た」
一騎の馬がこちらへ走ってくる。
だが、先ほどとは明らかに様子が違い、馬の走りは乱れ、近づくにつれて騎手の服が泥で汚れているのが見えた。さらに距離が縮まったところで、服に付着した赤いものが血だと気づき、サランはすぐに声を張り上げた。
「道を開けて!」
人々が左右へ退き、騎馬が野営地へ飛び込んでくる。
「押されてる! 向こうの数が多い! 思ってたよりずっと出てきてる!」
周囲がざわつき、残っていた男がすぐに駆け寄った。
「こっちは持つのか?」
「まだ持ち堪えてるが、怪我人が増えてる。それと、ここも逃げる準備をしておけって! 抜かれたら、こっちまで来るかもしれん!」
サランは無意識に手綱を強く握り、サルヒが首を動かしたことでようやく気づいて指の力を緩めた。ここで自分まで慌てれば、何かあったときに動けなくなる。
気持ちを落ち着かせて馬から降りると、年上の男へ声をかけた。
「子供と年寄り、それから女の人たちを集めよう。逃げるなら南でいいよね?」
「ああ。馬もすぐ動かせるようにしよう」
「でも、家畜を全部連れていくのは無理だよ」
男は一瞬だけ西側へ目を向けた。そこには大量の羊と馬がおり、その表情が苦く歪む。
「……分かってる。それでも、動かせるものはできるだけ準備しておこう」
サランはそれ以上言わなかった。自分も今朝、テムルへ、逃げるときは家畜も荷物も置いていけ、命より大事なものはないと言ったばかりだった。
けれど、口にするのは簡単でも、この人たちにとって家畜は財産であり、食料であり、これから先も生きていくための暮らしそのものだった。
腰のスリングと後腰の分銅武器を確かめ、サランはもう一度北へ目を向けた。
「私は北を見てる。何か来たらすぐ銅鑼を鳴らすから、そのときは迷わず逃げる準備をして」
「ああ、頼む」
男の返事を聞き、サランは再びサルヒへ跨がった。
*
太陽はすでに大きく西へ傾いていたが、まだ夕方には少し早い。それでも朝から張り詰めた時間を過ごしてきたせいか、サランには一日がひどく長く感じられた。
野営地では避難の準備がほぼ終わり、子供たちももう騒がなかった。母親の服を強く握っている子、不安そうに北を見つめる子、何が起きているのか分からないまま大人たちの顔を見回している幼い子もいる。
二人目の伝令が来てから誰も戻っていないことが気にかかり、サランが子供たちから北へ視線を戻したとき、風が草原を渡ってサルヒの青い鬣を揺らした。
「……嫌な感じ」
そう呟いた直後、遠くで何かが動いた。
目を細めて確かめると、一騎ではなく、いくつもの影が草原の向こうを動いている。サランは鐙の上で身体を持ち上げ、さらに目を凝らした。
「騎馬が来る!」
声が野営地へ響き、残っていた男たちが一斉に北へ集まってくる。
「味方か?」
「まだ分かんない。遠すぎる!」
騎馬の一団は真っ直ぐこちらへ向かっており、やがて先頭の一騎が大きく見えるようになると、馬の色だけでなく、服の形や乗り方まで判別できるようになった。
そこでサランは息を呑んだ。
バヤルたちではない。
先頭の馬にも騎手にも見覚えがなく、装束の形も色合いも明らかに異なっている。その後ろからも同じ服装の騎馬が続いているのを確認したサランは、腰へ下げていた銅鑼へ手を伸ばした。
「あれ、こっちの人じゃない! 敵だよ!」
乾いた金属音が野営地へ響き渡り、周囲にいた者たちが一斉に動き始めた。
「何騎いる!」
「まだ分かんない! でも味方じゃない!」
敵の騎馬は隊列を整えて進んでいるわけではなく、先頭の若者を追うようにばらばらと駆け、その勢いのまま野営地へ向かってくる。前方に逃げてくる味方の姿はなく、土煙の中に見えるのは敵ばかりだった。
先頭の若者が腕を振り上げると、その後ろからも興奮した声が上がった。それは戦場で仲間へ合図を送るような切迫したものではなく、何かを見つけた喜びを互いにぶつけ合うような声で、距離が縮まるにつれて風に乗った笑い声まで聞こえてくる。
「味方はどうした!」
「分からない! 誰も戻ってきてない!」
敵は速度を落とさず、緩衝地帯を抜け、その先にあるゲルと家畜、人々を見つけたことで、さらに勢いを増しているようだった。
その様子を見ているうちに、サランにも相手の目的が分かった。
「……あの人たち、戦いに来てるんじゃない。野営地を狙ってる」
敵の若者たちの視線は、もはや戦場へ向いていなかった。ゲルや馬、羊だけでなく、逃げる準備を始めた人々へも向けられ、そのすべてを奪えるものとして見ていることが、迫ってくる様子から嫌でも伝わってくる。
「掠奪か……家畜だけじゃない。女も狙ってくるぞ!」
年上の男の声に野営地の空気が凍りつき、子供を抱き寄せる女、まとめていた荷物をその場へ捨てる者、老人の腕を取って走り始める者が一斉に動き出した。
その混乱を見た敵の若者たちはさらに速度を上げ、先頭の男が大声で何かを叫ぶと、後ろから笑い声が返ってきた。
サランの背筋を冷たいものが走り、ふとバヤルの顔が浮かんだ。あの騎馬たちがここまで来たということは、前では何が起きているのか。バヤルは無事なのかと考え始めれば、怖い想像はいくらでも浮かんでくる。
だが、今はそれを考えている時間ではない。
目の前には、逃げなければならない人たちがいる。
サランはすぐに振り返った。
「南へ逃がして! 子供と年寄りを先にして、動ける人は手伝って!」
「お前はどうする?」
「ここで止める。私は馬に乗ってるから、危なくなったら離れられる。それより、あの人たちを野営地へ入れないで!」
年上の男へ答えながらサルヒの腹へ脚を当てると、青毛の牝馬が一歩、二歩と前へ出た。
敵の若者たちは、こちらに戦える者が残っているとは思っていないのか、それとも目に入っていても気にしていないのか、速度を落とそうとしない。先頭の若者が刃物を抜き、その後ろでも次々と武器が掲げられたことで、もう疑う余地はなくなった。
サランは腰からスリングを外し、石弾の袋へ手を入れた。指先で硬く滑らかな一つを選んで革の受けへ収める間にも、背後では人々が南へ動き始めている。
子供を抱いた女、老人の腕を引く者、荷を積むことを諦めて馬の手綱だけを掴む者が次々と野営地を離れ、追い立てられた家畜の一部がまとまりを失ったことで、羊の鳴き声と人々の声が重なって草原へ広がっていく。
サランは一度だけ振り返った。
バヤルたちはまだ戻っておらず、緩衝地帯で誰が生きていて、誰が傷ついているのかも分からない。それでも今、自分の目の前には守らなければならない人たちがいる。
「できるだけここで抑えるぞ」
隣に残った男たちが武器を構えるのを見て、サランも小さく頷いた。
「うん。野営地へ入れさせない」
敵の先頭にいる若者は笑いながら、なおも真っ直ぐ向かってくる。自分たちが勝ち、ここに残った者には逃げることしかできないと信じているのだろう。
サランはその姿から目を逸らさず、スリングを回し始めた。
革紐が風を切り、石弾が頭上で円を描いていく。その動き自体は狩りで何度も繰り返してきたものと変わらないのに、今その先にいるのは獣ではなく人間だった。
胸の奥にある恐怖を押し込めるように一度だけ深く息を吸い、迫ってくる先頭の騎手を見据える。
距離が縮まり、馬の駆ける音がはっきりと耳へ届くようになったところで、サランは回していたスリングの片側を放した。
革紐が鋭く空気を裂き、放たれた石弾が草原の風を切って、先頭の騎手へ向かって飛んでいった。




